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 自称「アジア最大級の美のトッププロダクション」、オスカー・プロモーションが主催する【第11回全日本国民的美少女コンテスト】の本選出場者たちによるネット投票が7月28日まで行われる。(→ページ

 このオーディションは、これまで、上戸彩、米倉涼子がグランプリを逃してきたことで有名である。

 また、「美少女コンテスト」のはずなのに、「グランプリ」の他に、「演技部門賞」、「音楽部門賞」、「モデル部門賞」、「グラビア部門賞」、「バラエティ部門賞」、「審査員特別賞」、「マルチメディア賞」(ネット投票)と、本来の目的とは無関係な賞がいろいろ作られ、本選出場者の半数近くが何らかの賞を受賞できるといういかがわしいものとなっている。
 
 
 それで、応募総数は毎回10万通を超える(本当か?)中から、今回、本選出場を決めた21人の「美少女」(by主催者)の写真と動画を見てみる。

 「さすがは国民的美少女(コンテストの出場者)!!!」と、思う人は誰もいないだろう。

 はっきり言って、致命的にレベルが低い。

 普段、普通に街を歩いていて見かける「美少女」でも、この中に入れば上位に入れること請け合いである。

 それに、21人中11人が12歳って・・・。11歳以下はいないのに平均年齢が13.3歳って・・・。(ちなみに、応募資格は12~20歳。)
 
 
 とはいえ、そんな中でも、ただ一人「No.3 武井咲(たけいえみ)」だけは例外である。

 もしこの娘がいなかったら、一人選ぶのに「誰が一番ましか」という消極的選択を迫られているところだった。

 ちなみに、グラビアアイドルとしてであるなら十分活躍できるであろう娘を挙げれば、No.18忽那汐里、No.12植万由香、No.7梶沼萌花の三人。
 
 
 
 いろいろ批判的に書いてきたが、この芸能事務所のイタおもしろいところは他にもあって、「美少女の5つの絶対条件」という、一体どこのエロオヤジが考えたんだよ・・・、っていうのを公表している。

 その「美少女の5つの絶対条件」の1つ目は、「圧倒的な輝きを放つ美しい容姿」。説明文によると、たとえ何もしなくても、何も語らなくてもその美しさそのもので人をひきつけてしまうような特別な美しさとのこと。だからこそ、最近4回のグランプリ受賞者(山内久留実、河北麻友子、渋谷飛鳥、阪田瑞穂、須藤温子)は、芸能活動をあまり行わないでいても人をひきつけてしまっていると、事務所は考えているのだろう。グランプリ受賞者の活動・仕事があまり目立たないと思っていたが、それは意図的だったようである。逆に言えば、須藤温子に負けた上戸彩にはこの条件が欠けているからたくさん仕事をしているということになる。納得。

 絶対条件の2つ目は、「豊かな知性と品位」。「知性」を持った少女なんて現在までに存在したことがあるのだろうか? それに、そもそも「美“少女”」に「知性」は必要か???

 3つ目は、「秘められた神秘性」。まず日本語の使い方=知性の問題として「“秘められてない”神秘性」なんてものがあるのか疑問。さらに、「神秘性」の説明というのが、美少女は、気軽に話しかけられそうな女の子とは違います。むしろ、「手の届かない」「決して、無意識にはとなりに座れない」そんなあこがれにみちた存在とのことなのだが、これって「神秘性」では、ない・・・。

 4つ目は、「一過性でない永遠の美しさを感じさせる何か」。これを見て、誰もが、「“永遠の美しさ”!? でも、誰でも年を取れば・・・」と突っ込みたくなるだろうが、それはこれを作った人も薄々気づいているようである。まず、「永遠の美しさ」で止めずに「を感じさせる何か」とこの条件だけ内容を弱めている。説明文でも、13才のときには、13才としての美しさ。18才のときには、18才としての美しさ。と、13歳と18歳しか例に挙げていない。だいたい、「美“少女”コンテスト」なんだから、「少女」を過ぎた後のことは求められるべきではない。

 最後、5つ目は、「女性としてのしなやかさ・やさしさ」。これは言い換えると、天性の母性であるらしい。でも、「天性の母性」がない女の子ってどれだけいるのだ?
 
 
 
 
 そんなわけで、自分は、傲慢なわりに頭も悪いこの事務所、および、事務所の性格をそのまま反映しているこの事務所の所属タレント(米倉涼子とか菊川怜とか)の多くが嫌いである。

 したがって、今回のネット投票は「棄権」する。

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 アイドルブログを色々と見ていて思うのだが、自分がアイドルとして少しでも活躍したいと思うのなら、自分のブログを力み過ぎるくらいに頑張ろうと思うのが自然ではないのだろうか??? 第一、ブログは自分で作ったわけなんだし。

 例えば、企業なんか、テレビCMに数千万、数億円のお金を費やしてまで自社の宣伝、イメージアップを図っている。

 それに対して、アイドルブログでは、何日も平気で更新しないで放置していたり、内容に大した工夫とか「一生懸命書いた感」とかが見られなかったり、等々、「やれることは全てやる」あるいは「ベストを尽くす」といった後悔しないための教訓からしてあまりに問題のあるものがしばしば見られる。
 
 
 そんなわけで、今回は、“頑張っているアイドルブログ”をメジャーどころ以外でいくつか御紹介。
 
 
 一つ目は、「アイドルブログ」と言えるか微妙なところだけど、役者を目指している森幸子による『モリサチコ、あります。。』。しっかり目標を持ち、そのための苦労を厭わない姿勢は「素晴らしい!」の一言。ブログも自己満足ではなく読者を大切にしたものになっている。こういう娘が活躍できるような社会、芸能界であってほしいものだと、“理念あるアイドルファン”である自分は切に思う。
 
 
 “頑張っているアイドルブログ”、二つ目は、福留佑子の『福留佑子の毎日アイドル修業』。ブログ発信の企画を行うなど、以前からブログ、ブログ読者を大切にしているこのブログだが、最近リニューアルされた。タイトルの写真が訪れるたびに色々と変化したり、その写真の中に1時間に1分間だけ「隠れキャラ」があったりと、遊び心もあって楽しい。もちろん、アイドル本人も「まっすぐ」な感じがして好印象。
 
 
 さて、三つ目は、ゴールデン小雪の『ゴールデンbaby』。芸名から分かるとおり(?)、キャラもブログもお笑い系。一日に小ネタ入りの記事がたくさん更新されている。ただ、ブログの内容より気になるのが、プロフィールの特技欄の「アイドル評論」。「アイドル好きのアイドル」というのは珍しくないけれど、それを「アイドル評論」と言ってしまう表現力の勝利。ちなみに、好きなアイドルは「ゆうこりん(小倉優子)」とのこと。そんな彼女はCDも出している。その名も『ゴールデン小雪のテーマ』! しかし、そんなおちゃらけ路線まっしぐらの彼女が、ブログ開設後初の投稿(2005年11月25日)で見せた熱い意気込みには心打たれる。

 ちなみに、お笑い系のアイドルブログでは石原朋香による『石原朋香のCafe Mocha』もなかなか微笑ましいおもしろさがある。ただ、更新が飛び飛びな点でゴールデン小雪の方が上手という感じ。
 
 
 
 以上、色々書き、いくつか紹介してきたけど、「頑張る」というのは単純だけど結構大変なことなわけで、やはり「頑張っている」方を誉めるべきなのだろう。

 アイドルブログ界は均衡安定状態になりつつある。

 完成度の高いネタ系の眞鍋かをり。自由奔放なキャラ系の中川翔子

 この二大巨匠を超えるアイドルは登場してきていない。

 この二人とは型の違った新機軸を出すアイドルも登場していない。

 いや、二人の巨匠を超えるまでいかなくとも、それなりのおもしろさを誇るアイドルも最近は出なくなってきた。

 小明喜屋武ちあき河辺千恵子金田美香といったセカンドグループのメンバーにも全く変化がない。

 そのような状況を生み出す最近のアイドルブログの特徴として、小ぢんまりとしたコミュニティに自足してしまう傾向が挙げられる。つまり、狭い一部の固定的な読者だけを意識し、彼らに向けて書き、彼らとだけ交流するという現象である。

 仕事に対しての貪欲さや向上心がなく、そこそこの状態で満足するのならそれでも別に構わないが、アイドルという職に就いている以上は、他のアイドルとの競争を(心の中では)自覚し、よりおもしろく、より読者を増やせるようにするべきだと自分は考える。(だからといって力みすぎるのはより悪いが。)

 そんなわけで「大物」というわけにはいかないが、最近自分が気にっているアイドルブログをいくつか紹介しておこう。
 
 
 
 まず一つ目は、「ヤングジャンプ制服コレクション2005」準グランプリの福留佑子による「福留佑子の毎日アイドル修業」。

 このブログの特徴は、読者への優しさ。

 記事の中で個々の読者に返事をしたり、読者への感謝を表明したりするアイドルブログはしばしば見かける。が、このブログでは読者と直接の交流を行っているのだ。

 これまで、ブログで募った数十人に直接本人が電話をかける「福留佑子とラブラブトーク」、読者17人を招待して誕生日パーティーを(メイド喫茶で本人がメイド姿になって)開く「佑子のBIRTHDAYで会いましょう!」を行っている。

 もちろん、そこに参加するのはほとんどが元々の本人のファンであるだろうが、重要なのは、ブログをプロモーション活動の一つとしてとても重視し、積極的に利用していこうという姿勢を感じさせることである。

 こういう、アイドル本人の中で重きを置かれ、しかも読者を大切にするブログなら継続的にチェックしようという気にもなる。

 これからどれだけブログ読者との直接的な交流を行っていくかは分からないけれど、一つの新しい型を実践しているという点で優れたブログだと評価できる。

 ただ、一つ不満なのは、ブログのトップページで使われている本人の写真がベストショットではないような気がすることだ。某イベントで福留佑子本人を見たことがあるが、実際に見た印象も、もっとかわいい写真から受ける印象とは違わずにかわいかっただけにもったいない気がする。もちろん、記事の中で出てくる写真(例えば、3月6日、3月3日など)で良く写っている姿を見ることはできるが。
 
 
 
 次に紹介したいのが、これまた「ヤングジャンプ制服コレクション2005」準グランプリの斎藤夢愛(さいとうゆあ)による「斎藤夢愛Official Blog」。

 このブログのポイントは、文章のかわいさ。

 人懐っこくてちょっぴり小悪魔的な文体がたまらない。「みんなぁ~!!」と呼びかけられたら、つい何でも言うことに従ってしまいそうな、そんな感じ。

 また、その内容も文体に合った感じのものでかわいらしくて良い。

 ただ、このブログもトップページの写真がベストではないように感じてしまう。例えば、3月15日の写真のように、もっとかわいい(と個人的に思う)写真を記事の中で見ることができる。
 
 
 
 さて、最後は里中あやによる「里中あやの“あやんたれぶぅ~”日記」。

 里中あやは、純朴そうな落ち着いた顔立ちをしているのだが、その風貌に相応しい自然体でちょっと真面目な丁寧語の文体が彼女のブログの魅力。文体といい、ほぼ毎日一回更新の日記形式といい、正統派のアイドルブログといったところ。

 「真面目な文体」というと、長澤奈央のブログ「NAO.exe」がある。長澤奈央は普通にしゃべるととにかく明るい。が、ブログだと妙に硬い文体になっている。したがって、少しぎこちない。(ただ、この口語と文語の、あるいは、思っていることと表現力との落差が長澤奈央のブログの魅力である。)

 それに比べて、里中あやの文体は、長澤奈央の文章より自然だし、そのためもあって、よりソフトである。

 こういう、“自然な丁寧語・文語”を使える女性を良いと思うのは自分の個人的な趣味によるものなのだろうか???
 
 
 
 
 さて、冒頭に「もっと読者を拡げるべきだ」と書いたが、人間というものは非常に飽きっぽいものであり、一定の読者を繋ぎとめておくことさえそんなに簡単なことではない。また、無理して書いていると書き手であるアイドルの方が飽きたり、壁にぶつかったり、力が入らなかったりしてしまうこともあり得る。(最近の眞鍋かをりのブログの質的量的低迷がその端的な例。)

 ただ、最近のアイドルブログを見ていると、逆にあまりに、「気まぐれに趣味として日記をつけている」に留まっているものが多い。これでは非常にもったいないと思うのだ。趣味として日記を書きつつも、ファンとの交流、プロモーション、エンターテインメントなど、他の可能性をもっと開拓していってほしいものだ。
 
 
 
 ところで、今、ブログ界の革新として個人的に期待しているのが、綿矢りさのブログへの参入である。彼女は小説を書いても批判されるだけだが、日々の短文なら、それこそ眞鍋かをりにも負けないようなものが書けるのではないかと思うのだ。アイドルがネタ系で勝負するのは現実的には難しいが、文を考えて書くことを本職とする綿矢りさならいけるだろう。もちろん、彼女はアイドルではないから如何にビジネスにしていくかが問題ではある。が、書籍化、出版社との契約、閲覧有料化など、手がないこともない。是非期待したい。

 上戸彩、松浦亜弥、安田美沙子、小倉優子、若槻千夏、市川由衣、相武紗季、佐藤寛子、熊田曜子、安めぐみ、・・・と、今をときめく主なアイドルを試みに挙げてみる。

 そうして気付くのは、“正統派アイドル”の不在である。

 皆、個性的なアイドルである。さすがは「個性の時代」である。「個性がない」ことは「特徴がない」ことと同義と取られることにさえなり得る。しかし、「個性が強い」ことと「“正統派アイドル”である」こととは両立し得ない。では、一体“正統派アイドル”とは何者なのだろうか?

 
 
 そこでまず、“正統派アイドル”の定義を考えてみたい。これは難問である。言語化してしまうと陳腐化する恐れがあるからだ。そこで、二つの軸を提示することによって“正統派アイドル”のイメージを浮かび上がらせることに努めようと思う。

 まず、一つ目の軸は、外面における「きれい/かわいい」である。一般的に言えば、大人っぽい場合に「きれい」と形容され、幼さがある場合に「かわいい」と形容される。

 そして、もう一つの軸は、内面における「明るい/静か・暗い」である。こちらも一般的に言えば、元気が良ければよいほど「明るい」に傾き、地味であったり悩むことが多ければ「静か・暗い」に分類される。(※「暗い」は価値が低いということでは決してない。ただ単によりよい表現が見つからなかったことによる。したがって、再考の余地あり。例えば、「解放度の高さ」、「自由度の高さ」とか。)

 さて、こうして、この二つの基準を座標軸とすると二次元の平面を想定することができる。ここでは、試みに、「きれい/かわいい」をX軸、「明るい/静か・暗い」をY軸とする二次元の平面としておく。

 このとき、X軸とY軸との交点[(X,Y)=(0,0)、原点]付近に位置付けられるアイドルを“正統派アイドル”と呼びたい。(※正確には、この二つの基準以前に“アイドルとしての最低限のレベル”を満たしている必要があるわけであるが、言うまでもないことであるから省略した。)
 
 
 さて、この基準で今をときめくアイドルを(自分なりに)簡単に位置付けると、上戸彩、松浦亜弥を極端な例として、ほとんどが「かわいい」&「明るい」の方向に振れる。それ以外に分類されそうなところでは、佐藤寛子は「きれい」&「静か・暗い」の方向に振れ、安めぐみは「きれい」&「明るい」の方向に振れる。相武紗季が最も原点に近い良い線を行きそうだが、やや「かわいい」に振れる。

 もちろん、この位置付けにそれを行う人間の個人的な印象が大きく作用していることは否定できない。しかし、“ある程度の”コンセンサスを得られる基準でもあると思う。
 
 
 いずれにせよ、二つの基準を導入することで、“正統派アイドル”が、二つの基準の両方において中間である、いわば「極端でないことで極端になる」とでも呼べる稀少な存在であることが確認できる。
 
 
 さて、次に、そんな“正統派アイドル”を取り巻く近年の情勢を振り返ってみたい。ここ10年ほどに限定すると、奥菜恵→加藤あい→×→?、と続いてきていると言えるのではないだろうか。現在、奥菜恵が26歳で、加藤あいが23歳で、どちらも高校生から20歳くらいまでの間をアイドルとして活躍した。しかしながら、加藤あいが完全に女優に転身して以降、そのポストを継ぐ人材は出てきておらず、現在では空白である。

 上では現在活躍中のアイドルを10人ほど挙げて検討したが、そもそも“正統派アイドル”であるなら、それだけでその時代のアイドルの中で三本の指には入ってくるくらいの力を持っているはずである。実際、奥菜恵しかり、加藤あいしかりである。

 そんなわけで、ここのところ、やはり“正統派アイドル”が不在なのである。
 
 
 
 しかし、そんな閉塞した時代状況を切り開く可能性を持ったアイドルが登場した。

 以前4月頃にこのブログで少し触れたことのある平田薫である。

 その当時は、まだ判断材料も少なく、心の中で若干の留保を付けていたのだが、その後のグラビアを見るなどしてその可能性を強く確信するに至った。
 
 
 
 それで、ようやく本題に入るが、その平田薫が一ヵ月前にブログをオープンしていたのだ。

 「平田薫BLOG かおる~む」である。

 そのブログであるが、更新頻度もほとんど毎日に近く、本人の姿を含めた画像もあるし、プライベートの話もあるし、デザインは本人の好きな黄色に統一されていて綺麗だし、トラバも可能だし、パンダはかわいいし、今のところ申し分ない。また、文章は、まだ16歳と若いから、これから慣れてくれば、より上手く、よりおもしろくなっていくだろう。何せ、「お仕事は楽しい」と言っているし、向上心もあるわけだから、ブログにおいても今後の成長・飛躍が大いに期待できる。
 
 
 さて、随分と大それたことを書いてきたが、平田薫はアイドルとしての活動を本格的に始めてから長くはないし、まだ16歳である。末長く見守っていきたいと思う。
 
 
 
 ※なお、平田薫は、TBS系『恋するハニカミ!』(1月よりレギュラー)、および、CM『au by KDDI着うたフル~街のあかり~、主演:妻夫木聡』(受験生風の白いセーターを着た女の子役)で容易に見ることができる。

 自分の今年の10大ニュースの一つに、「佐藤寛子との邂逅(かいこう)」が挙げられることは間違いない。

 その出会い(あくまで間接的なものだが)は、ちょうど一年前の今年の初め、OCNのホームページ上の番組においてであった。(そのときの経緯や気持ちについては、その当時書いた記事「佐藤寛子論」参照。)

 その邂逅の衝撃以来、そのネット番組、ブログ、CDなど、色々なものを通して、ささやかながら佐藤寛子を追いかけ、応援してきた。途中、このブログで色々なことを書いたりもしてきた。(「佐藤寛子『Can't Hide』」、「『精選アイドル詩・読解』」)

 そうして一年が過ぎた。

 それはすなわち、佐藤寛子と出会うきっかけを与えてくれたネット番組のMCが佐藤寛子から交替するということを意味する。それは同時に、そのネット番組と連動した企画であったブログ「佐藤寛子のひとりゴト」が終了することも意味する。
 
 
 昨日、そのブログの最後の記事が更新された。

 その中に、自分にとってささやかながらとても嬉しい内容が含まれていた。

 “価値観の一致”というやつ(の片鱗)を見つけたのだ。しかも、自分がかなり深いところから感じていたものとの一致である。

 自分は、「本当の自分」という言葉が嫌いだ。特に、「本当の自分はこんなんではない!」というように使われるのは最悪だと思っている。

 このような「自分探し」中の“迷言”に対して、自分は、「自分探しをしている“自分”とは何者か?」と冷静に切り返すことを常としている。

 「自分探し」とは、つまるところ、“現実の自分からの逃避”に過ぎない。

 そういう人にとって、「All you need is love.」は正しい。

 しかし、そこにおける“love”は、「I love you.」や「You love me.」という形を取らない。

 そうではなく、「I love me.」や「You love you(yourself).」、あるいは「Love yourself!」という形でなければならない。「自分探しをしている現実の自分を受け入れて、そして、愛せ!」ということだ。(もちろん、現在の自分のまま停滞していて良いということではない。)

 やや暴走した。
 
 
 昨日更新された佐藤寛子のブログ最後の記事に、次のような一節が出てくる。

"本当の自分、なんてさ、無いと思うんだ、僕は"
 
 "???"
 
 "だからさ、自分が思ってる本当の自分なんて一番あてにならないんだよ。"
 
 "…なぜ?"
 
 "自分が自分じゃなくなることが出来ないからだよ。自分と他人にはなれない"

 自分が嫌いな「本当の自分」という言葉が否定されている。

 もちろん、意図するところが全く同じだとは思わない。こちらでは、“現実の自分を受け入れた上での自分についての認識”という意味での「本当の自分」が否定されている。しかし他方、先に自分が否定した「本当の自分」は、“現実を受け入れられない人”が発するものを主に焦点に当てていた。

 この違いは、自分が用いた「本当の自分」の用法は、「自分探し」という名の現実逃避の段階でのものを指していたのに対して、佐藤寛子の「本当の自分」の用法は、“現実を受け入れた上での現実の自分に対する態度”という段階での問題について述べている、というところから生じていると思われる。

 この違いは、焦点を合わせている段階の違いに過ぎない。簡単に図式化すれば各段階は次のようになる:
 [現実逃避(自分探し)→現実(の自分)の受容→自分を愛する]

 このように両者が“段階の違い”に過ぎないからこそ、どちらの“「本当の自分」主義者”に対しても、「Love youself!」(自分を愛せ!)という処方箋が正しくなるのだ。
 
 
 さて、「書けば書くほど、(自分と佐藤寛子との)違いばかりが明らかになってくるのでは?」と恐れながらも、色々書いてしまった。(文章の分かりにくさがせめてもの救いか・・・。)

 しかし、いずれにせよ、少なくとも自分は、“価値観の一致”があると解釈した。そして、嬉しかった。

 これは、自分の話。
 
 
 
 佐藤寛子は、ブログの最後に、これからも、日々、色んなことを思い、考え、感じながらたおやかに生活していきたいと思います。と書いている。全く正しい認識だと(勝手ながら偉そうにも)自分は思う。

 そして、これからも応援していこうと思う。

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