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by ST25
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 小・中学校の頃から、「詩」というと、表現が曖昧で、受容や解釈が個人の感覚にほぼ全面的に依存し、作者の自己陶酔的で・・・・、あまり好きな表現様式ではなかった。

 あるいは学校の教材で扱った詩が自分の好みに合わなかったからかもしれないし、あるいは自分の感性が詩を味わうほどには発達していなかったからかもしれないし、あるいは教えてくれた先生の力量不足のためだったかもしれない。

 しかし、いずれにせよ、最近、そんな詩に対する拒否反応が和らいできた。

 それは、詩の引用をふんだんに取り入れている大江健三郎の作品を読んだ影響であり、同じく詩の引用のある映画「地獄の黙示録」を観た影響でもあるし、野間宏の象徴詩に触れた影響でもある。ただ、このあたりの統合的な理解については近々まとめて書くつもりでいる。
 
 
 それで、今回書こうと思っているのは、「アイドルの詩」についてである。

 あくまで自分が頻繁に巡回するアイドルブログに限っての話だが、ブログを持っているアイドルのかなりの割合がブログで自作の詩を綴っている。具体的には、佐藤寛子、小明、喜屋武ちあき、中川翔子である。(ただ、中川翔子に関しては自作のものなのか、何かの歌詞か何かなのか判別できない。)

 しかし、それだけなら取り立てて騒ぎ立てるほどの出来事でもない。

 自分にとって重要だったのは、かねてから詩を書いていたが更新頻度の低かった佐藤寛子がここ1週間ほどの間に3回も更新したこと、今までそこそこ詩を書いていたけれどメルヘンな感じのものばかりだった喜屋武ちあきが趣の違う詩を書いたこと、あまり詩的な文章を書いていなかった小明が詩を書いたこと、という3つの大事件が、時を同じくして起こったことである。

 こうして今回、まとめてアイドルの詩を取り上げることとなった(取り上げざるを得なくなった)のである。

 とはいえ、自分は詩に触れた経験も非常に浅く、未だに詩をどのように扱えばよいのか分からない。そこで、以下では、自分が気に入った、各アイドルの詩の全部あるいは一部を引用し、何とかしてコメントをしていきたい。
 
 
 
 まず一人目は、佐藤寛子。ブログ(「佐藤寛子のひとりゴト」)では、ほとんど毎回、色々なことが詩を使って表現されている。しかも毎回そこそこの長さの詩になっている。そんなわけで佐藤寛子のブログには、詩的な表現の蓄積が結構ある。そんな中で、自分が断然に一番好きなのは、11月28日の「カレハ、ハレハ、アレト。」というタイトルの記事(詩)の冒頭である。

私は喉が乾いて乾いて、仕方なかった。
 あまりに喉が乾いて、涙が出てきた。
 何にも入ってこなかった。
 赤い夕焼けも、冷たい空気の感触も、甘く痺れた舌の感覚も、何もかもすべて。
 枯渇していた。
 私の源流のぜんぶ。
 水分という水分がすべて流れていってしまった。
 ドライアイ。
 さっきからコンタクトがとれそうだ。

 「喉の渇き」の深く絶望的な表現、その表現によって自然に思い至らされる“精神の渇き”。喉も精神も深く重い渇きのようだ。と、一転、「ドライアイ」という無味乾燥な音の名詞で、それまでの節と繋がりを保ちつつも軽快にリセットされる。華麗である。
 (前の内容を継承しつつも軽い名詞によって転調するという形が“見事に”はまっているのが、個人的にはここだけなように見えるのは残念な気がする。)

 それから、佐藤寛子の詩の、他の好きなところは、最後の終り方である。上で引用したのと同じ「カレハ、ハレハ、アレト。」と、9月15日の「あたふた、アタフタ」の二つの終わりを引用しよう。

あぁ、思い出してしまった。喉が乾く、乾いた。
 喉、喉か?喉じゃないだろ?
 それに気付いたときには、ペットボトルに詰まった水片手にレジの前に立ちすくんでいた。 (「カレハ」より)

最近ふ、と思う。  いかに、今まで何も考えずに与えられるがままに流されてきたかを。
 選択してきたようで、意味を持たないあやふやなモノ達をたくさんこしらえて、従えてきたかを。本当はもう、ずっとずっと選ぶ権利はあったのに…私のまわりにはいつのまにか、楽な、与えられる方が85%ぐらいになってた。
 かろうじて、15%生きてるものが必死にアタシを主張してた。 (「あたふた」より)

 どちらの終り方にも共通して言えることは、詩の最後の前までで悩み煩いながら色々な方向へトリップしていたにもかかわらず、最後の最後で、冷静でポジティブな佐藤寛子が登場してくることである。これにより、独善や偏狭や一時の激情からこれらの詩が書かれていないことが分かり、これらの詩が、佐藤寛子の思考(悩み等も含む)の蓄積、あるいは、佐藤寛子という人間の深みの結果であることを教えてくれている。そして何より、この終り方により、読み手に、安心と希望を与えてくれるのだ。
 
 
 
 さて、続いて、喜屋武(きゃん)ちあき。(→きゃんちあき☆おさとうとスパイスとすてきななにもかも) 喜屋武ちあきは小学生のとき以来のかなりの読書家で、ファンタジーが特に好きなようである。そして、いかにもファンジー好きらしい、ファンタジックでメルヘンチックな詩をしばしば綴っている。例えば、12月2日の「鏡の国のアリス」というタイトルの記事の(おそらく自作だと思われる)詩がそうである。

わたしは不思議の国のアリスたん。
 
 目を閉じれば、毎日がお誕生日でない日をお祝いするお茶会。
 
 ねずみはポットの中よ。
 
 迷い込んだアリスたん。
 
 目をあけてはいけません。

 その表現といい、その内容といい、まさしく想像力あふれるメルヘンなものである。そんな喜屋武ちあきが11月22日に「」というタイトルの記事で書いた詩は、その表現にメルヘンな志向を残しつつも、その内容は実存的で現実主義的なものとなっている。

見たくないから目を閉じた
 
 閉じても明るいので手で目を覆った
 
 指の隙間から入ってくる光に電気を消した
 
 日が昇ると眩しいから布をかけた
 
 布が薄いので穴を掘って入った
 
 上から日差しが差し込むので穴を埋めた
 
 ようやく真っ暗になった
 
 何も見えない 何も聞こえない
 
 これがわたしの望んでいたものなのか

 厳しい現実から、あるいは、不甲斐ない自分から、闇の中に逃げ出そうと必死に右往左往する様子が、とてもポップで創造的な表現で表されている。ここでは、メルヘンな表現と実存的な内容という親和性のなさそうなものの共生が、何らの違和感もなく成し遂げられているのである。お見事である。
 (ただ、「電気」のある“部屋の中”にいるのか、「穴を掘れる」“屋外”にいるのか、状況設定が混乱しているように思える。実存に悩むのなら「真夜中、自分の部屋のベッドの中」という設定が適しているように単純に思ってしまうのだが。)
 
 
 
 そして、最後は小明(あかり)。(→小明の秘話) 常に冷笑的なスタンスを保っている小明は普段、ブログで詩的な文章を書くことはあまりない。それが、11月28日の「なんとなく」というタイトルの記事で詩を書いている。この詩は、犬の散歩の際に見つけた、ぼろぼろになって捨てられていた自転車を見ての創作である。(その自転車の写真はブログに掲載されている。) 所属事務所のホームページ「小明の部屋」に掲載されている日記でその類い稀な文才をいかんなく発揮している小明だけに、詩を作ってもさすがに上手いものである。

私が彼女を見付けたとき
 彼女の息はもう無かった
 可哀想に両足をなくして
 ちからなくうつ伏せに倒れていた
 捨てられたのか
 連れ去られたのか
 どちらにしても
 心ない人に乱暴されたあとがある
 きっと彼女も少し前までは
 風をきって
 歌を歌って
 楽しく走っていたはずなんだ
 今では
 雨にうたれても
 風にさらされても
 もうそこから動けない
 こんな最期じゃないはずだろう
 一生懸命働いた彼女の最期は
 こんなものじゃないはずだろう

 表現が上手いことは言うまでもないところだろう。そこで、ここでより強調したいのは、全体の構成がしっかりしていることだ。自分の言いたいことをわき目も振らずに書くのではなく、綺麗な表現に踊らされるのでもない、透徹した“物書き”の姿勢がそこにはあると言える。(個人的には、人間を扱った小明の詩が見てみたい。)
 
 
 
 さて、3人のアイドルの自作の詩をちょっとずつだけれど見てきた。一見して分かる通り、3人とも、詩にそれぞれ当人の特徴が見事に表れている。

 何であれ、一まとまりの表現を創造することは簡単なことではない。第一、その時点において、その一まとまりの表現をするに耐え得るほどの自己が作られていなければならないのだ。しかも、この自己というものは、自然的形成物ではなく、意識しなければ作られないものである。そして、この「意識する」という作用は、その人を更に進歩させるものだ。

 こう考えると、詩を書いているアイドルは、応援したり、見守ったりしているうちに進歩する可能性を秘めているのであり、応援のし甲斐があるということである。野球やサッカーで考えると分かりやすいと思うが、いくら応援しても何ら影響を与えることができない人やチームを応援することには、どうしても意義を見出しにくい。そういうことなのである。

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 4日間ほどインターネットから離れている間に、ネット上ではいろいろ革命的な大事件が起こっていた。一つ一つ報告をば。
 
 
1.「しょこたん☆ぶろぐ」に上田愛美登場!!!(→記事などで) 上田愛美は元チェキッ娘のメンバーで、現在「まんとら」(TVK)というテレビ番組にアシスタントとして出演中。今回の競演はその番組にしょこたんがゲスト出演したことによるもの。

 自分のお気に入りのアイドルが繋がっていくのを見ると、自分の“帝国”のテリトリーが拡大していくみたいな気分になる。また、自分のお気に入りのアイドルという“同類項”による“類は友を呼ぶ”の現実化なわけで、自分のアイドルの性格や価値観などについての見立てが間違っていなかったことを証明しているみたいで嬉しい。
 
 
2.「平田裕香の日記」に顔写真登場!!!(→記事) しかも、中川翔子および金田美香のブログの影響とのこと。ちょっとうつむき加減な目線がかなりかわいいが、本文中に書かれている歪んだ視点は更なるかわいさを醸し出している。「引きこもりつつも家の中では元気にやっている」とのことである平田裕香の特徴が、文字と写真によって言行一致となり、余すところなく伝わる、批判すべきところのない完璧な記事になっている。写真と本文が無関係になることが多い「しょこたん☆ぶろぐ」などを質の面で簡単に超えていく平田裕香のキャパシティが垣間見える。
 
 
3.「きゃんちあき☆おさとうとスパイスとすてきななにもかも」に本人の妹・ちっちが登場!!!!!!本人がしばらくの間、ロケのために海外に行っていることを利用してのもの。以前から妹が記事の中で登場することはよくあったけれど、妹本人が更新をするというのはかなり画期的。ブログ界における大革命。ノーベル賞級のイノベーション。しかも、打ち合わせもなくいきなり行われた模様。

 ブログを見ていると、この姉妹はまさに絵に描いたようにほのぼのした仲良し姉妹。二人の日常をそのまま放映するテレビ番組を作れば、日曜6時半の枠で行けること間違いなし。

 それにしても、その一言一言や一挙手一投足だけで人を感動させられるこの姉妹を見ていると、病や人の死に頼らないと感動させられない最近のテレビドラマの貧困さを嘆きたくなってくる。何せ、以下のような現実が繰り広げられているのだから。

お願いだから無事に帰ってきてね。ちあきがいないと生きていけないよ。
 絶対ちあきより先に死ぬんだ。一生一緒。(10月8日)

ちっちなんか姉思いでかあいい
 ありがと 頑張るね 大好きだよ(って言うと後で気持ち悪いって言われるのだ)(10月10日)

 それにしても、何で自分がここまで喜屋武ちあき並びにその姉妹に感動&涙を誘われるのだろうか? 

 考えても未だに答えははっきりしないが、もしかしたらと思うことを書いてみると、自分が意識の深いところで“男という生き物”を毛嫌いしているのではないかということが考えられる。あくまで、「意識の深いところで」であって、表層的な意識では全くそういうことはない。

 つまり、これはどういうことかと言えば、自分は、“意識の深いところから女性に対して優しい”という性質を持った人間なのではないかということである―――。
 
 
 
 さて、何はともあれ、この数日間で溜まった本の感想をこれから数日間、怒涛のごとく更新していくつもりである。

 アイドルブログの(アイドル自身にとっての)効用とはいかなるものだろうか?

 全アイドルの中でブログを持っているアイドルの方が圧倒的に少ない現状においては、その内容如何にかかわらず「ブログを持っている」というだけで知名度を高めるのに非常に有効だ。

 例えば、ブログによって、メインストリームではないところで活動しているアイドルを知ることが可能だ。(※ここでメインストリームとは、アイドル雑誌や少年雑誌等からCMやテレビ出演するような経歴のことを想定している)

 今回はそんな非メインストリームにいながらブログのおかげで(私の中で)有名になったアイドルのブログと、メインストリームのアイドルのブログの両方を同時に考察する。具体的には「アイドルにとってのブログの効用」を考える際の一つの有用な視角を提示した上で、それに沿って論じていく。

 アイドルのブログにおいて最重要だと思われる評価ポイントは、「そのアイドルの中における“ブログの位置付け”」だ。

 実際のアイドルブログを挙げながら、この観点から統一的に説明していく。なお、各アイドルブログの「位置付け」についてのまとめ的部分には下線を付した。



 まず、この「ブログの位置付け」という点から最も優れていると思われるのは、吉井怜の「吉井怜オフィシャルココログ」だ。

 このブログでは、仕事情報(及び、その感想)、プライベート情報、トラックバッカーとの交流という3つの重要な要素が全て取り入れられている。その上、2~3日に一度という適切な頻度で更新されている。

 すなわち、吉井怜の仕事(テレビや雑誌の出演情報など)に関してはあらかじめ告知がされているし、その仕事(を行ったとき)の感想も書かれている。仕事について、その表と裏の両面が分かるということだ。

 そして、仕事という公的な側面にとどまらず、プライベートなことも臆することなく書かれている。ここからは読者に心を開いているという「位置付け」にとって重要な事実が見て取れる。また、記事の中でトラックバックへのレスも書かれていて、ブログがアイドルとファンとを恒常的に結びつける“イベント”のような場となっている。

 以上から、このブログが、「吉井怜はファンの皆様といつも一緒に歩み続けています!」という(素晴らしき)考えを体現する場となっているのがよく分かる。これなら、いつもブログをチェックし、応援しようという気にもなる。


 (※以下の文中に、過激な表現が登場するが、それらは全て愛情や期待の裏返しとしてのものである。また、この点に配慮してトラックバックはしていない。)

 さて、次に佐藤寛子のブログ「佐藤寛子のひとりゴト」。

 このブログは最近、佐藤寛子の妄想の“はきだめの場所”♥と化している。したがって、写真集やDVDを発売しようが、CDをリリースしてイベントを開こうが、ブログを読んでいるだけでは全く知ることができないのだ。知ることができるのは、佐藤寛子の詩的な知識やセンス(の低さ♥)というプライベートだがあまりに限られすぎた一面だけである。

 つまり、このブログで「ファン(読者)に自分の活動を知ってもらいたい」とか、「ファン(読者)の方とつながりを深めたい」とか、より直戴に言えば「このブログを通してファンを増やしたい」と言った気持ちが全く感じられないのだ。

 「ブログの位置付け」という点から言い換えれば、このブログは佐藤寛子の全活動の中の下位の中の一つに位置付けられた仕事に過ぎないということになる。

 これでは、読者の側からすれば、佐藤寛子がこのブログにかけている気持ちやプライオリティの低さがあからさまに分かってしまう。そうすると、読者の見る気も低下する。最悪な悪循環を佐藤寛子自身が作り出しているということだ。アーメン。(このようになった理由としては、「らしさ」の侵攻orはき違えが考えられる)


 さて次に、以前も書いたが、典型的な最悪のブログの例として森田クラブの「森田クラブオフィシャルウェブサイト」を見てみる。

 このブログは、当初、メンバーのプライベートや仕事情報などが(7人いる利点を生かして)頻繁に更新されていた。しかし、3月中旬以降は月に一度程度しか更新されなくなり、しかもその内容がただの仕事の告知や宣伝であるという状況になった。さらに、4月11日の更新を最後に何の断りもなく更新が止まっているという惨憺たる状況だ。

 第一に、仕事の告知のためのブログなんて必要ではない。仕事の告知だけなら日記形式であるブログの意味がなく、事務所のホームページに掲載すれば事足りる。

 第二に、「宣伝モノがあるときだけ更新している」ということを世間に知らしめることのデメリットを考えるべきだ。宣伝のときだけ書いているブログなんて、事務所の人が書けと言っているときだけ書いているのが見え見えだ。何の断りもなく2ヵ月も更新されない状況も、このブログが「事務所の金儲け精神」のための産物以外の何物でもないことを表している。

 以上から、このブログは、森田クラブを公私に渡ってより知ってもらい、なおかつ、ファン(読者)と結びつくためのものとは程遠いものであることがはっきりする。

 つまり、このブログはファンのこと(希望やニーズ)を考えず、事務所の金儲けの論理だけで作られた“宣伝用”という位置付けだったということだ。(ただし、個人的には、清水由紀のファンであるという気持ちに変化はない)


 以上の3人(2人+1グループ)はメインストリームに位置付けられるアイドルだ。そして、改めてまとめれば、吉井怜のブログは内容が包括的で位置付けが非常に高く、佐藤寛子のブログはプライベートの一側面に限られていて位置付けは低く、森田クラブは仕事の告知に限られていて位置付けは非常に低い、ということであった。

 次は、非メインストリームながら、そのブログの存在によってそのアイドルの存在を初めて知り、さらに、そのブログの内容や位置付けから私の心を掴んだアイドルを紹介する。


 まずは、以前も一度触れたが、中川翔子のブログである「しょこたん☆ぶろぐ」。

 自身の全てをさらけ出したオタク系の内容、2ちゃん系の文体、そして、この更新頻度。最近は「王様のブランチ」のレポーターとして出たりもしているが、このぶっ飛んでいるブログは、読者を掴んで離さない。ブログを最大限に生かしきっている。そして、それを可能にした新感覚のアイドル。

 内容も、仕事の情報と感想、包括的なプライベート情報と、重要な要素を2つ含んでいる。読者との双方向性は少ないが、更新頻度が多くてすぐに記事が流れるため、やむを得ないところもある。ただ、それを補ってあまりある充実した仕事の感想やプライベート情報にあふれている。

 というのも、しょこたん(中川翔子)が寝ている以外のほぼ全時間に渡って更新がなされているのだ。ここでは、ブログは、いわば中川翔子の“生活の全て”、あるいは少なくとも“生活の欠かせない一部分”とまでなっている。そして、このやや行き過ぎの感さえあるブログへの高い位置付けが読者に好感を与えるのだ。


 次は、中川翔子つながりで初めて知った小明(青木小明)の「小明の秘話」。とぼけた感じの文章で、プライベートなことまで毎日10個くらい更新される。いとをかしな文章を味わいたければ、事務所ページの「あかりの日記」もかなりお薦め。

 このブログの内容は、小明の生活の“実況中継”的な感じで、いい。非メインストリームにいながら(過激に言えば、仕事が少なくても)ファンをつなぎ止めておくことができる。というかむしろ、ファンを増やすことができる。

 この、露出する仕事の量に関係なく自らを露出させ続けることができるという点でのブログの効用をうまく使っている。


 最後は、同じく中川翔子つながりで初めて知った喜屋武ちあき(きゃんちあき)のブログ「喜屋武ちあき」。

 アップされる顔写真の心の底から笑っていないような魔性な笑顔と、天然ぽい文章がいい。また、6月2日の記事で身にまっとている衣装もいい感じ。萌え系。

 ブログの位置付けは、実は、もっともスタンダードな一日一回更新のプライベート&仕事についての日記である。

 ここでの本筋から言えば取り上げる必然性は確かにない。ただ、個人的に萌え上がった気持ちを放出するために・・・。(注:「萌え≠好き≠応援」なので、あしからず)


 さて、以上、吉井怜、佐藤寛子、森田クラブ、中川翔子、小明、喜屋武ちあきの6人について考察してみた。しかし、やや体系性に欠けて分かりにくい点があるのは否めない。「そのアイドルの中のブログの位置付け」について、もっと体系的に類型化できればより分かりやすくなるだろう。そんなわけで、今回は「試論」という位置付けだ。

 ただ、「アイドルの中での位置付け」という視点は、そのブログが人気があるかないかのパラメーターになるのは間違いないと確信している。



 最後に、このようなアイドルブログ評を書かせている自分の中の密かな野望を書き記しておく。

 それは至って簡単に表すことができる。

 つまり、「評論から学問へ」。(もちろん「空想から科学へ」とも言い換えられる。)

 巷には「アイドル評論家」という肩書きに身をまとった人たちがいる。しかし、彼らの実際は「占い師」や「ファン」と変わりがない。なぜなら、彼らが行う評論というのは、彼らの直感や価値観や自分特殊な経験に基づいたものだからだ。

 そこで、今回の記事のように、アイドルブログの重要な要素として「仕事」「プライベート」「交流(双方向性)」という3つを挙げたり、「ブログの位置付け」という同一のパースペクティブからいくつかのアイドルブログを比較したりしたのだ。

 「アイドル学」という学問分野や、「アイドル・マネジメント」という概念、「アイドル・コンサルティング」という職種の確立が私の夢であり、将来のビジネス戦略だ。

 そして、そのために日々勉強に励んでいる次第だ。

 リンクに「MAMI'S ROOM」を追加しました。これは元チェキッ娘で、現在ソロで音楽活動をしている藤岡麻美のブログです。ビジネスをしているのならブログ名に自分のフルネームを入れて名前を売りなさい!と思うのですが・・・。


 ついでに、他のアイドルのブログについていくつかコメントさせて下さい。

 まずは「森田クラブ OFFICIAL WEBSITE」について。7人もメンバーがいるのに1ヵ月近く更新されないことがある。しかも、やっと更新されたと思っても大概が宣伝。「古典的なアイドル」路線で売り出しているはずの人たちがこれでは、生命線であるコアのファンも(それ以外のファンも)離れる。オスカーともあろう名門事務所(特にアイドルに強い)が何をやっているのか・・・。そんなわけでか、コメントもトラックバックも数が伸びず、のき並み5以下。


 次に、リンクを貼っていないが、市川由衣の「ゆいの日記」について。せっかくブログ式で日記を書いているのにコメントもトラバもできず、双方向性なし。何を勘違いしているのだろうか??? いくら清純派で、かなりの人気を誇るとは言え自意識過剰(事務所が)。


 そして、我がブログにリンクの貼ってある他のアイドルブログは比較的まとも。特に吉井怜のブログは頻繁に更新されるし、プライベート話からトラバの感想まで、読者やファンに嬉しい内容となっている。


 それから、我がブログにリンクは貼ってないけれどおもしろいブログを2つほど勝手にご紹介差しあげます。


 一つは、元フジテレビアナウンサーの大橋マキのブログ「大橋マキBlog」。自意識の強い女性の憧れの職業である女子アナをすぱっと辞めて、自分のやりたいことをやる人生に共感が持てる。ブログの内容も飾らない自然な感じが出ている。


 そして、もう一つは、グラビア系アイドル・中川翔子の「しょこたん☆ぶろぐ」。ブログの名前からしてぶっ飛んでいるが、そのデザインもぶっ飛んでいる。そして、何といってもその内容が一段とぶっ飛んでいる。というのも、彼女のブログは毎日10~25個もの記事が更新されるのだ! オタクな暇人さにバカさが加わってGOOD。
 
 
[おまけ]
 さらについでに、かなり個人的な感覚によってですが、最近見たアイドルブログの記事で思わず笑ってしまいました。それは、石井めぐるのブログ「めぐるのブログ」の4月7日の記事です。あまりの忌まわしさのために、ここ数年、近寄っていない場所の、伝説的ブツが登場しています。

 大注目アイドル発見!

 平田薫、15歳。

 「進研ゼミ 中学講座(あふれる喜び篇・テスト直前篇)」のCMに出演している娘だ。CMは、進研ゼミのホームページでも閲覧できる。(特に「あふれる喜び篇」の方が顔もよく映っていて審査員諸兄にはお薦め)

 そしてもちろん、外見だけでなく内面の方も非常によろしいようだ。某雑誌のアンケートで、「KISSの経験は?」という質問に対して、「ないです」と応えている。「ないしょ」とか、「ひみつ」とか、「ペットの犬と」とか応えるアイドルが多い中、はっきりと「ない」と応える“センス”は有望だ。(どうせ真実は分からないのだから詮索しても意味がない。ただ、「ないしょ」系の答えは「ある」ということを思わせるが。)
 
 
 それで、果たして実際に彼女はブレイクするのだろうか? 

 まず、所属事務所は「アミューズ」という大きな事務所であり問題ない。むしろ、活躍を大いに後押しすることが予想される。(事務所のページ→アミューズ(平田薫)

 彼女はファッション雑誌『CANDY』の専属モデルでもある。この点はやや問題になる可能性がある。というのも、女性向けの雑誌に出れば女性ファンが生まれることになる。しかし、「アイドル」として活躍するためには男性ファンを主なターゲットにしていかなければならないからだ。具体的には、登場する雑誌や媒体(DVDや写真集)などをシフトすることが求められる。そして、その過程でモデル時代に付いた女性ファンを斬ることになってしまう。モデル出身のアイドル(タレント)でパッとしないまま終わる場合、この転換をきっちり行えなかったことによるものが結構ある。最近では榮倉奈々がその部類に入る可能性が高いと思っている。ただ、平田薫の場合、すでに「ヤングジャンプ」といった男性誌に登場しており望ましい方向に向かっていることが窺える。

 他にも懸念材料はある。それは同じ某雑誌のインタビューで、「親が厳しくて、(中略)門限も5時なんで」と言っているところだ。このタイプの娘は、親から「高校を卒業するまでは学業優先」と言われていることが多い。そして実際、彼女自身も親の方針と同様の価値観を持っているらしく、同じインタビューで「大学には入りたいと思ってます。ちゃんと知識や教養のある人になれたらなぁ~って☆」と発言している。これは危険だ。高校を卒業する18歳からアイドルとして本格的に活躍しようと思っても遅きに失している可能性が高い。確かに近年のアイドルは一時期(SPEEDの全盛期)に比べれば高年齢化(18~22歳くらい)してきている。それでもやはり、露出の場を捨てて活動制限することはブレイクする機会を逃すことになりかねず、惜しい。しかしながら、ある程度の活動ができるのであれば望みは十分にある。実際の成功(?)例としては吹石一恵が思い浮かぶ。

 次に、容貌について一言しておきたい。彼女はまだ15歳であり、顔にやや幼さが残る。しかし、幼さのある顔を持つアイドルは一方で熱狂的なファンを得ることができても、世間に広くは浸透しないのが通例だ(例えば、酒井彩名)。ただ、平田薫の場合、岩田さゆり(金八の「やよ」役)ほどの幼さはなく、ぎりぎりセーフだと判断する。(実は、ブレイクするか否かは最終的にはこの点に関しての世間=マジョリティの判断にかかっているのではないかと思っている。)

 最後に、個人的な懸念について書いておきたい。それは、自分が好きになるアイドルの血液型はA型かO型なのだが、平田薫はB型であるということだ。好きなアイドルとその血液型をあいうえお順に列挙していくと、くまきりあさ美、鈴木亜美、平田裕香が〈A型〉、相武紗季、奥菜恵、加藤あい、黒川芽衣、佐藤寛子、安田美沙子、矢作美樹が〈O型〉である。もちろん、平田薫が前例を破るほどのパワーと可能性を持っているかもしれない。しかし、それでもここで挙げた今までの例からすると、自分がいつか平田薫から遠ざかる可能性がないではないのだ。(ただ、この点は別に平田薫がブレイクするかとは関係ないが。)

 と、血液型に着目してもっともらしいことを書いたが、実はこの論証は成り立たない。なぜなら、「好きなアイドル」として列挙する際の選択基準が血液型(A型かO型)によって影響を受けているからだ。(これは「セレクション・バイアス」とも多分呼ばれる。)では、自分に〈B型〉の好きなアイドルはいるのだろうか?

 実はいるのだ。綾瀬はるか、清水由紀(美少女クラブ)、松浦亜弥だ。

 

 さて、意味もなく遠回りもしたが、結局、現時点で平田薫がブレイクしない理由はないことが分かった。

 ただ、この予想が当たったところで、株や競馬と違って配当はない。もちろん、逆に言えば、リスクもないのだが。
 
 
 
 さて、前置きが長くなったが、ようやく「配当」の話に行き着いた。「配当」と言えば、「“冷戦終結による”平和の配当」を果たして日本は受けているのだろうか??? むしろ、冷戦終結以来、危機“感”や軍事支出はより一層高まっている。これは日本の世界情勢の認識の現実とのズレを表しているのかもしれない。しかし、あるいは、国際社会が冷戦の終結(や経験)を平和な世界の構築に活かせなかったことを表しているのかもしれない。
 
 
 
 最近の中国での反日運動について、「発展に成功した日本へのねたみの表れ」だという時代錯誤で調子のいい解釈を与えているお馬鹿さんがいるようだが、暴動化した彼らの行動はただのカタルシスであり、集合行動(群衆)による過激化だ。

 そして、政治による国民の行動や考えの支配が不可能な時代にそんなことに気を取られていても無意味だ。考えるべきは、「中国市場からの配当」である。

 アメリカなども含めた各国による中国市場の争奪戦を見るにつけ、中国領土を奪い合った過去の歴史を思い出さずにはいられないが、この戦い(競争)では当然アメリカも親中国的な態度を取る。これは、アメリカの視点からすると(少なくとも経済上での)米日関係から米中関係の重視への転換だと言える。しかし、これを日本から見ると日米協調から日本の孤立化への変化を意味することになる。そして、このような惨状に陥らないためには「日中」でのつながりを強化する必要があるのは言うまでもない。

 もちろん、これはかなり長期的な展望であるし、政治関係≠経済関係ではある。しかし、中国の政治経済システムは政治と経済が密接に関係している。また、自動車や電化製品に絡んで、かつてアメリカで日本製品不買運動や“外圧”があったときの政治と経済の関わりのことも思い出す必要がある。
 
 
 
 さて、以上の考察から導かれる、簡潔すぎるくらいの日本の長期的な戦略を述べると、バンドワゴン(勝ち馬)に乗るために「歴史(問題)」で引いて「経済」で押す、ということだ。

 そして、日本国民・政府がそんな冷静な対応をするためには平田薫の“癒し”が必要不可欠なのは言うまでもない。

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