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柿喰う客・第12回公演 『 サバンナの掟 』 ( 作・演出:中屋敷法仁/2008年1月5日~6日/@シアタートラム )
ひと月以上前の「柿喰う客」の芝居。
再々演の作品。観るのは再演のとき以来2度目。
やっぱりおもしろい。
観終わった後の頭の熱くなりように「柿」を感じた。
ただ、再演のときの方が、よりカオスでよりディープでよりおもしろかった。(演出、キャスト、劇場の大きさ等の理由による。)
援交女子高生を買ってる女性総理大臣、アジアの恵まれない子供たちにワクチンを買うためにせっせと援交してる女子高生、自分の頭に銃を突きつけて生きがいを確認しながら生活してる刑事など総勢30名が、それぞれの思惑を実現すべく一大スペクタクルを繰り広げる。その一方で、援交相手にアソコを噛まれた女子高生がその噛んだ相手に心惹かれ探し回る・・・。
相変わらず、単純で、アホで、くだらなくて、何物にも敬意を払ってなくて、全てをバカにしてて、おもしろい。
でも、その一方で、個々で見ればありえるものを組み合わせただけでしかなかったり、普通のこと・正しいことをちょっと過剰にしただけだったり、人間のある核心を突いてたりして、さらにおもしろい。
この二重のおもしろさが「柿喰う客」の頭を熱くしてくれるおもしろさ。
あらゆるものに隙なく、対比とか矛盾とか批評性とか2つの意味・役割が潜み込まされている。
こうした深みの存在の結果、外見のくだらなさとは裏腹に、実にリアルな世界が(強烈な批評性をもって)描かれることにもなっている。
これぞ、現実を芸術的に表現する正統なあり方(の1つ)。
すばらしい。有意味。
ただ、それだけに、「アソコを噛まれた女子高生がその噛んだ相手に心を惹かれてしまう」という話は、それが何らかの現実性を有しているものだとしても、見せ方は単純(単層的)で描かれ方も不十分なために、違和感や安っぽさを感じさせてしまっている。( 今回のその女子高生役が心の闇や孤独感を表現しきれてなかったというのはあるにしても。)
「15+15」の芝居より「15×15」の芝居の方がそりゃおもしろい。(つまり、「足す」より「掛ける」方がおもしろいと言いたい。)
ところで、この劇団の芝居の雰囲気は、脚本家・演出家である中屋敷法仁の雰囲気と合っているから自らも出演した方が良いと思うのだけど、最近全然出ていない。
彩の国シェイクスピア・シリーズ第19弾 『 リア王 』 ( 演出:蜷川幸雄/出演:平幹二郎、内山理名、池内博之ほか/2008年1月19日~2月5日/@彩の国さいたま芸術劇場大ホール )
蜷川幸雄演出のシェイクスピア作品。初。
おもしろーい!
老いぼれた王が、上っ面の甘言を信じて上の2人の娘に全財産をあげてしまう。その一方で、素直なことしか言えない末娘(と素直で忠実な下臣)を勘当してしまう。その後、その報いを受け、王を数々の悲劇が襲う。そして、王はどん底まで落ちていく。そんな悲惨な王を助け(ようとし)てくれたのは素直で忠実な末娘や下臣たちだったが・・・。
なんていうどうってことない話を仰々しい台詞と迫力のある演技でおもしろくしてしまう、シェイクスピアだの、蜷川幸雄だの、平幹二郎だのって人たちはすごい。
休憩挟んで3時間40分という破格の上演時間でも長さを感じさせない。
演劇で久しぶりにプロフェッショナルを感じた。( 演劇界はプライドだけ一人前でやってることは大したことないのが多くて疲れる。演劇だけで飯食える人が少ないからやむを得ないところはあるけれど。)
ただ、シェイクスピアはシェイクスピア。
話自体は凡庸だけどもの凄い迫力で押し切られた、そんな感じであって、(芸術作品に期待される)刺激、新しさ、創造性といったものはあまり感じられない。きっと、毎回違った刺激を得られるタイプのものではない。
だから、高い金を払って他のも色々観てみたい、とまでは思わない。タダ券とか大金とかがあるならば是非観たいとは思うにしても。あるいは、年1回くらいは観たくなるかもしれないけれど。
いわば、純粋な娯楽どまり、といったところ。
とはいえ、もちろん、今回は大変に刺激的な経験を人生に加えることができて大いに満足したところである。
柿喰う客 『 親兄弟にバレる <お台場SHOW-GEKI城~T-1演劇グランプリ決勝大会参加作品> 』 ( 作・演出:中屋敷法仁/2007年12月15日~21日/@フジテレビ1F・マルチシアター )
フジテレビが主催している演劇グランプリの決勝大会参加作品。
政治、経済、スポーツ、どこを見てもかつてのような勢いのない日本。そんな日本の国威発揚のため、日本が誇る伝統文化「愛撫道(あいぶどう)」にエンペラーが最高権威を与え、オリンピック公式競技にしようとする。しかし、その「愛撫道」の流派間(セクハラ家とお触り家)には歴史的な因縁の対立がある。果たしてどちらが真の“国技”なのか? そこで、両家による壮絶な勝負が御前で執り行われる・・・。
というような話。(すごい)
「柿喰う客」のコアを再確認させてくれる芝居。
おもしろかった。
各所で警鐘が鳴らされる“希薄かつ淡白になった性に対する意識”。これに共鳴した作者が、あらゆる手を尽くして“性”に重み付けをした、すばらしき深世界を見せてくれる。
そして、脳ミソある者に、社会に、自省を促す――。
セックスはただの遊びだろうか?
セックスはだたの子作りのための手段だろうか?
そこに愛はあるのか?
セックスについてどれだけ真剣に考えただろうか?
君も、政府も。
これらは、「 セックスとは何だろうか?」という問題に、究極的には行き着かせることになる。
セックスって何?
これについて、誰が真剣に考えているだろうか? 政治家?政府?マスコミ?学校の先生?学者?大人一人一人?若者?子供?みんなとは違う特別なあなた?
金メダルの数だとか、稼いだ金の額だとか、国威発揚だとかについてはみんな散々考えてるくせに、あるいは、愛は大事だと散々言うくせに、愛の形について、セックスについて、愛(のあるセックス)が溢れる社会について、社会の中で考えの蓄積がどれだけあるだろうか?
ちなみに、「セックスとは何か?」という問題をさらに考えていくと( 今回の芝居みたいに「愛撫」なんかを考えると特に)、「 男のオルガズムは射精と直結しているのに、女のオルガズムは排卵や受胎とは結びついていない 」という生物学的なアポリアにまで突き当たることになる。( 山形浩生「セックスの終焉」参照。)
けれど、今回の芝居では、さすがにそこまでは考えられていなかった・・・。(残念だけど、まあ、しょうがない)
この芝居では、その「セックスとは何か?」という問題を全力尽くして追求しているわけだ。
“セックス”や“愛”に国や生死や生涯をかけた人たちの姿を描き出すことで。
それは、非常識で愚かで滑稽なものではある。しかし一方で、そこには、純情さや真面目さや情熱や愛情がある。
そして、それを社会的文脈に置いて考えることで得られる、強力な(攻撃的なまでの)批評性と知的愉しみ。( 「柿喰う客」の芝居を社会的文脈を知らずに/無視して理解することは困難。)
そこで、あなたに、社会に、発せられているものは大きい――。
こういう、話の一番大きいレベルでの意味、あるいは、芝居全体でのメッセージこそ、「柿喰う客」の(すばらしい)コアな部分だ。
そんなわけで、二義的な意味しかないけど、最後に、今回の芝居の物足りなかった部分についても2つほど。
1つは、笑い。今回はそもそも量的にも少なかった(ように思う)けど、その一つ一つの質もいまいちで、笑いに関しては、“滑ってる感”を若干醸し出してしまっていた。( 上で書いたような内容のところで思わずニヤリとするような笑いはいっぱいあるけど、声を立てて笑うようなものの話。)
2つ目は、演出。歌ったり、踊ったり、即興ネタを披露させたり、反省会をしたり、観客を巻き込んだり、といったハプニング的な演出がなかった。今回は、話(の展開)自体が、「柿喰う客」にしては比較的まとまっていてカオス的な要素が少ないものであっただけに、“楽しい演出”があった方が良かったと思う。
上演時間が70分と短めだったからやむを得ないところもあるのかもしれないけれど、この2つを欠くと、物足りなさを感じるのは否めないし、退屈に感じる客(良い悪いは別にして)を作ることにもなってしまう。それに、この2つの要素の存在によって作品の他の(特にコアの)良さが消えてしまうわけでもないだろうし。( 実際、「女体3部作」はそれができていた。)
そんなわけで、まとめると、今回の芝居は、コアの部分(話)はおもしろかったけど、装飾に物足りなさが残った。
これが「柿」。だけど、まだ「柿」ではない。
Thus with fuss(not kiss, not fuck) I die.
柿喰う客・第11回公演 『 傷は浅いぞ 』 ( 作・演出:中屋敷法仁/2007年11月14日~26日/@王子小劇場 )
注目の若手劇団「柿喰う客」の第11回公演は、アイドルを題材にした4人芝居。
※ 以下、まだ上演中だけどネタバレあり。
この芝居、つまりは、「 アッキーナ、頑張れ!」ということですか。 (※ アッキーナおよびアッキーナの“傷”を知らない人は、「Wikipedia―南明奈」を参照。)
こう理解すると、最後の、実はアユミが(死んでたはずの)アキナだった、という不可解な結末にも納得がいく。
すなわち、“傷ついた”南明奈(=アキナ)を肯定するために、傷を乗り越えて頑張るアユミ(偽名)を実はアキナだったことにした、と。( それでも無理筋ではあるけど。)
実際、話の中のアキナもマネージャーと恋愛関係になっている。( この逸話はけっこうさらっと流されてたけど、アッキーナを知ってる自分は聞き逃さなかった。)
この解釈をこじ付けだと思う人のために、間接的な証拠も示しておこう。
この芝居の作・演出をしてる中屋敷法仁はグラビアアイドル好きだ。南明奈が解雇されたことも知っている。好きなアイドルはほしのあきとか大友さゆりとか、正統派アイドルではない。で、性格がひねくれている(よね?)。
と、くれば、“傷ついた”アッキーナをあえて擁護しようとすることは十分にあり得る。
さて、そんな「アッキーナ、頑張れ!」な芝居がどうだったかというと、つまらなかった。
言ってることは、「 スキャンダルとか体の外傷とかの“傷”なんて表面上のものにすぎないんだから、大した傷ではない(傷は浅いぞ!)」ということだけ。
単純でありきたり。
75分の4人芝居でこれしか言わないのはきつい。
それに、“傷ついた”アイドルへの支持を求めるには、論拠が薄弱。
さらに、話の展開や構成も、実に単純。( 過去の傷の説明、頑張るアユミの勇姿が8割、最後の2割で「傷は浅いぞ!」と主張。)
その上、いつもの「柿喰う客」の笑いやら下ネタやらをかなり抑えているとくれば、見るべきところ、楽しみどころはほとんどない。( “笑いやら下ネタやらを抑えた「柿」”というのは見どころではあるけど。)
4人でも役者陣の勢いは凄まじくて、観る者を全く飽きさせないのだけど、さすがに内容がないといかんともしがたい。
いつも通り期待してただけに欲求不満。次回作に期待。
追記:次回作はよかった
「15 minutes made volume 2」 (主催:Mrs.fictions/2007年10月18~21日/@ザムザ阿佐谷)
7つの劇団がそれぞれ15分の芝居を演じる企画。
けっこう先進的・実験的な芝居を見せる団体が多くて、参加団体の選び方はなかなか良い。
とはいえ、7つの団体のうち4つに関しては今回はノーコメント(という名のコメント)。批判ならいくらでも出てきそうだけど。
そういうわけで、良かった、他の3つの団体について簡単に感想を。
1つ目。 ろりえ・『アイスコーヒー』。
現代の女の子の生態(コミュニケーション)を、かなりの程度抽象化して、機能的等価物に置換可能なものは置換した、そんな感じ。その(コミュニケーションの)特徴は、無内容、支離滅裂。理不尽な結末(不幸)さえも、無内容・支離滅裂な生き方の延長線上にあると、実に自然(必然)。シュールな笑いを引き起こす。時間が長くて話がもっと複雑になったらどうなるのか、興味深い。星野夏『あおぞら』を思い出した。
2つ目。 M.O.E. PROJECT・『天使のオシゴト』。
ベタ中のベタな“萌え”のシチュエーションを舞台上で演じてしまうお芝居。ちょーバカ。マジくだらない。めっちゃ笑った。(あきれた笑い。)
3つ目。 柿喰う客・『傷は浅いぞ(未放送版)』。
11月に行われる公演でカットになる予定のもの。バカでお下劣なものに見えながらもその中に鋭い批評性もこもってて、1秒たりとも無駄なく展開していって時間どおり(15分)に感じさせない、そんな柿喰う客の魅力の一端はしっかりと感じさせてくれた。でも、この劇団はやっぱり、長い時間でのもっと複雑怪奇なものにおいてこそ真価が発揮される。
それから、個別の作品とは関係なく、全体的に感じたことを2つほど。
1つ。ダメな団体の作品を見てると、論理的思考力が欠けてるように思った。特に、作品全体を通しての論理的思考の持続力・統一力。1つ前の場面とのつながりは分かっても、もう1つ前の場面とのつながりが弱かったり、ということ。もちろん、論理のつながりだけでなくて、感情のつながりに関しても言える。
2つ。“男と女”という存在に、ほとんど無意識のうちに拘束・既定され、窮屈さを感じた。(フェミニズム的な主張をしているのではない。)“男と女”の違い(男女の関係)を扱ってないものでなら、にもかかわらず意識させてしまっている、ということであり、“男と女”の違い(男女の関係)を扱ってるものでなら、話の上での必要性以上に影響を受けてしまっているということ。演出によってか、話によってか、演技によってか、いずれの方法であってもこの窮屈さから解放することはできるのだろうか?
結論。15分という時間でもけっこう楽しめた。(良し悪しの判断は十分できた。)
演劇は、無駄に時間の長い作品が多いような気がするから、こういう刺激的な企画は楽しい。