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柿喰う客 『 親兄弟にバレる <お台場SHOW-GEKI城~T-1演劇グランプリ決勝大会参加作品> 』 ( 作・演出:中屋敷法仁/2007年12月15日~21日/@フジテレビ1F・マルチシアター )
フジテレビが主催している演劇グランプリの決勝大会参加作品。
政治、経済、スポーツ、どこを見てもかつてのような勢いのない日本。そんな日本の国威発揚のため、日本が誇る伝統文化「愛撫道(あいぶどう)」にエンペラーが最高権威を与え、オリンピック公式競技にしようとする。しかし、その「愛撫道」の流派間(セクハラ家とお触り家)には歴史的な因縁の対立がある。果たしてどちらが真の“国技”なのか? そこで、両家による壮絶な勝負が御前で執り行われる・・・。
というような話。(すごい)
「柿喰う客」のコアを再確認させてくれる芝居。
おもしろかった。
各所で警鐘が鳴らされる“希薄かつ淡白になった性に対する意識”。これに共鳴した作者が、あらゆる手を尽くして“性”に重み付けをした、すばらしき深世界を見せてくれる。
そして、脳ミソある者に、社会に、自省を促す――。
セックスはただの遊びだろうか?
セックスはだたの子作りのための手段だろうか?
そこに愛はあるのか?
セックスについてどれだけ真剣に考えただろうか?
君も、政府も。
これらは、「 セックスとは何だろうか?」という問題に、究極的には行き着かせることになる。
セックスって何?
これについて、誰が真剣に考えているだろうか? 政治家?政府?マスコミ?学校の先生?学者?大人一人一人?若者?子供?みんなとは違う特別なあなた?
金メダルの数だとか、稼いだ金の額だとか、国威発揚だとかについてはみんな散々考えてるくせに、あるいは、愛は大事だと散々言うくせに、愛の形について、セックスについて、愛(のあるセックス)が溢れる社会について、社会の中で考えの蓄積がどれだけあるだろうか?
ちなみに、「セックスとは何か?」という問題をさらに考えていくと( 今回の芝居みたいに「愛撫」なんかを考えると特に)、「 男のオルガズムは射精と直結しているのに、女のオルガズムは排卵や受胎とは結びついていない 」という生物学的なアポリアにまで突き当たることになる。( 山形浩生「セックスの終焉」参照。)
けれど、今回の芝居では、さすがにそこまでは考えられていなかった・・・。(残念だけど、まあ、しょうがない)
この芝居では、その「セックスとは何か?」という問題を全力尽くして追求しているわけだ。
“セックス”や“愛”に国や生死や生涯をかけた人たちの姿を描き出すことで。
それは、非常識で愚かで滑稽なものではある。しかし一方で、そこには、純情さや真面目さや情熱や愛情がある。
そして、それを社会的文脈に置いて考えることで得られる、強力な(攻撃的なまでの)批評性と知的愉しみ。( 「柿喰う客」の芝居を社会的文脈を知らずに/無視して理解することは困難。)
そこで、あなたに、社会に、発せられているものは大きい――。
こういう、話の一番大きいレベルでの意味、あるいは、芝居全体でのメッセージこそ、「柿喰う客」の(すばらしい)コアな部分だ。
そんなわけで、二義的な意味しかないけど、最後に、今回の芝居の物足りなかった部分についても2つほど。
1つは、笑い。今回はそもそも量的にも少なかった(ように思う)けど、その一つ一つの質もいまいちで、笑いに関しては、“滑ってる感”を若干醸し出してしまっていた。( 上で書いたような内容のところで思わずニヤリとするような笑いはいっぱいあるけど、声を立てて笑うようなものの話。)
2つ目は、演出。歌ったり、踊ったり、即興ネタを披露させたり、反省会をしたり、観客を巻き込んだり、といったハプニング的な演出がなかった。今回は、話(の展開)自体が、「柿喰う客」にしては比較的まとまっていてカオス的な要素が少ないものであっただけに、“楽しい演出”があった方が良かったと思う。
上演時間が70分と短めだったからやむを得ないところもあるのかもしれないけれど、この2つを欠くと、物足りなさを感じるのは否めないし、退屈に感じる客(良い悪いは別にして)を作ることにもなってしまう。それに、この2つの要素の存在によって作品の他の(特にコアの)良さが消えてしまうわけでもないだろうし。( 実際、「女体3部作」はそれができていた。)
そんなわけで、まとめると、今回の芝居は、コアの部分(話)はおもしろかったけど、装飾に物足りなさが残った。
これが「柿」。だけど、まだ「柿」ではない。
Thus with fuss(not kiss, not fuck) I die.