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by ST25
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 2007生命のコンサート・音楽劇 『 赤毛のアン 主催:NPO法人・国連クラシックライブ協会出演:浜畑賢吉、榛名由梨、岡本茜ほか2007年9月29日~30日@東京国際フォーラム・Cホール
 
 
 一般からの参加もある「赤毛のアン」のミュージカル。後援には外務省、文科省、カナダ大使館など、そうそうたる組織が名を連ねている。

 30日17時の回(花組)を観た。
 
 
 子供が出てその親や友達(いつもよりおしゃれしてる)が観に来る。開演前は、大都会東京の威力を見せつける近代的で巨大な会場ということもあって、アットホームな中にちょっぴり緊張感が混じっている。

 そんな雰囲気が「赤毛のアン」の世界にマッチしていて良い。

 幕が開くと、一番手に出てくる“子役アン”(潮崎遥)が、純朴でかわい気のある女の子を見事に表現して心を掴む。

 マシュウ(浜畑賢吉)、マリラ(榛名由梨)の老兄妹は、「さすが」な老練の演技。

 と、なかなか好調な滑り出しの舞台ではあるんだけど、いかんせん、大人数で踊るノリのいい(はずの)曲のノリが実際にはいまいちで、客席が乗り切れない。

 その結果、劇中の客席からの拍手も、「熱演の後に自然に」という感じではなく、「区切りが良さそうなところでなし崩し的に」という感じになっていく。

 ただ、例外もあって、特に印象に残ってるうちの1つは、「太陽と月に誓って」云々というアンとダイアナの掛け合いが終わった後の拍手。これはテンポのいい熱演への拍手。他には、物売りのフレデリック(膳亀利次郎)の場面。こちらは自ら会場を乗せて盛り上げた。
 
 
 “子役アン”時代から“少女アン”時代に(場面やキャストが)変わって以降は、全体的に、幼い魅力に溢れた登場人物を表現しきれてなくて、心ときめくような見せ場はなかった。“大人アン”役の宝塚出身の岡本茜にしても、歌が上手くて感性豊かなのはよく分かるけど、アンにはなりきれてなく、ただのつまらない女性しか表現できていなかった。もちろん、脚本の問題もあるけれど。

 その脚本は、“少女アン”時代以降は特に、(登場人物が増えることもあって)登場人物たちの人柄を端的に伝えるはずのエピソードが簡単に済まされたりしていて、淡々と話が流れ去っていくように感じられた。だから印象に残るシーンもできにくい。もっと大胆に切ったり伸ばしたりして話の密度を上げた方が良かったと思う。
 
 
 そんなわけで、話は最後に飛ぶ。最後の方で、話を中断して“アンからのメッセージ”を伝える演出があった。それ自体はいいんだけど、「メッセージを伝える」と言いつつ、いきなりウクライナ語とかスペイン語とか韓国語とかで話されても、何も理解できない。目的を見失った、ただの自己満。もし、「友達になりませんか?」と言われた後に、自分が知らない言語でいきなりまくし立てられたら、その人と友達になれるだろうか? あるいは、ちょっと状況を変えて考えてみれば、誰彼構わず専門用語ばかり使って話す人とコミュニケーションが取れるだろうか?

 その独善性が対立を生む。
 
 
 でも、なにはともあれ、総じて、大人数で歌って踊って踊って歌って、観ててとても楽しそうだった。ファミリーな舞台は、これが何より大事。必死さがにじみ出てる姿は見てておもしろくない。

 観客の方はといえば、終演後の客出しの準備時間に行われた、上演中はオーケストラの指揮をしていたバイオリニストでもある尾花輝代允のソロ演奏に、この日一番の盛り上がりを見せ、大喝采を送っていた。確かに大熱演ではあったけど、そんなに満たされてなかったのか・・・。

 まあ、出演者の方でも、同じく終演後の待ち時間に行われたエキシビジョン的なダンスは、なかなか活き活き伸び伸びしていたけれど・・・。

 Toward a Free World.

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 劇団ひろぽん・企画公演 『 SWEET REVENGE and around the world 』 ( 脚本・演出:吉田武寛/2007年8月31日~9月1日/@早稲田大学学生会館B203 )
 
 
 1ヵ月ほど前に観た、かなりつまらない出来の悪い芝居。

 話も演技も中学生の学芸会レベル。大袈裟でなく。ホントに大袈裟ではなく。

 今回は企画公演で新人が中心とのことだけど、それによって免罪されるようなレベルさえをも下回っている。

 前売りで300円という破格の値段さえもが割高に感じてしまうほど。
 
 
 話は、タイムマシンで数年前に行き友人が起こした殺人事件を食い止めようと手を施したつもりがどうしても事件に向かって時間が進んでいってしまい・・・、というもの。( ね、中学生でしょ。)

 演技は、棒読みみたいな、“抑揚のないタイプ”の下手な演技。( 完全に『中学生日記』だよね。)
 
 
 この劇団、そこそこ人気があるみたいで(実際、今回も満員だった)、ネット上で色々感想を見た感じだと、普段はもっと良いものを作っているようだから(信じないけど)、いくらかは何とかならなかったのだろうか、と思う。

 不思議。
( でも、本当に、こういう作品を作ってる人たちが本心ではどういうことを思いつつ作り演じていたのかというはすごく興味がある。本当に「いい」と思いながら作ってたのか、実は「うーん・・・」と思いつつもそのまま客に見せることになってしまったのか。公演前後の劇団のブログなんかも読んでみたけどよく分からない。)
 
 
 とはいえ、まあ、 今回は大変だったけど凄く良い仲間と芝居を作ることが出来て、凄く楽しかったです。 とのことだから、よかったんじゃない。

 (金を払ってる)客としてはよくないけどね。
 
 
 まあ、(金を払ってるとはいえ、)所詮は学生演劇にすぎない、ということで。

 柿喰う客・第10回公演 『 性癖優秀 』 ( 作・演出:中屋敷法仁/2007年8月29日~9月4日/@新宿シアターモリエール )
 
 
 劇団「柿喰う客」の芝居。相変わらず、おもしろくてクオリティの高い作品であります。

 他の劇団と比べて圧倒的に、センスを感じさせるし、濃密だし、前提知識が幅広いし、予定調和じゃないし、説教臭くないし、作品であることに自覚的だし、自己満・自己陶酔的じゃないし、、、いろいろいい。

 若くしてこの完成度の高さは何なんだろうか。
 
 
 ただ、今年3月の第9回公演「女体カーニバル」の3つの作品と比べると、密度は薄く、インパクトは小さかった。(※「柿喰う客」の魅力とかおもしろさが味わえるレベルは十分に保たれているけど。)

 気楽にぼーっと観始めて、途中で、はっ!となったり、脳が働き始めてかーっと熱くなったり、というようなことがなくそのまま終わってしまった。( もちろん、途中笑いはいっぱいあったけど。)

 うーむ。
 
 
 一つには、「女体3部作」に比べて話の展開が少ないことがあるだろう。

 というのも、話が展開するのが、「つばめちゃん」がいろんな役割を背負わされている巫女だということが明かされてから(少なくとも始まってから半分は過ぎてると思う)で、それまでは、主人公の少年が引っ越したりはするけど、機能的に見れば、ほとんど状況とか設定を説明するだけでしかない。( もちろん、笑いは常にどんなところにも盛り込まれてるけど。)

 そのために、「女体3部作」に比べて密度が薄くなって、観劇中の頭の働きは少ないし、観終わった後の満腹感も小さくなった。

 「単純な二項対立の構図」が密度を低くしてるのかとも思ったけど、それもあるにしても、おそらく、この「話の展開の少なさ」の方が要素としては大きいと思う。
 
 
 それから、二つ目に、話の一番大枠の設定が現実より温(ぬる)いことがある。

 一方に、郊外のニュータウンに住む若い夫婦たちの(タテマエ上はともかく)性に対する開放的な考えがある。そして他方に、山村に住む人たちの子孫を残すためのフリーセックスの風習や怪しげな伝統的な“祭”がある。

 前者は、ニュータウンの若い夫婦たちの「日曜に公園で遊んでる明るいファミリー」みたいなありがちなイメージに対して(かなりあり得る)現実を突きつけてるという意味で、ベタすぎではあるけれど悪くはない。

 けど、後者はよろしくない。

 都会の若者の性生活の“乱れ”を嘆き、“古きよき”田舎における性に対する慎ましさ、“古きよき”昔の日本における性に対する慎ましさ、という枠組みに無理やり現実を押し込もうとする人たちにとっては刺激的な設定かもしれないけど、そんな人たちは芸術表現を語る場においては放っておいてもいい。( 宮台真司の『世紀末の作法』でも読めば済む。)

 では何がよろしくないかと言うと、田舎を美化していること。

 田舎で性的に自由な行為や慣習が存在しているのを「子孫を残すため」という“まとも”で合理的な理由で正当化してしまっているのだ。

 これが「柿喰う客」らしくなくて温い。

 上で挙げた宮台真司の本でも言われているように、「子孫云々」なんてことがなくても、田舎では都会や郊外より性体験の年齢が早かったりと、けっこう性に対して開かれているものだ。都会から引っ越した女の子が戸惑ったという話も本には出てくる。“田舎のおじさん”とか、けっこう明け透けだったりするでしょ?

 その理由としては、ただ単に都会に比べて遊び場がないからとか、世間が狭くて隠し事ができなくて慎ましさという考えがないからとか、女性の社会進出が進んでないからとか、色々考えられるけど、少なくとも「子孫を残して村を存続させる」なんていう優等生的な理由ではない。

 つまるところ、話の一番大きな設定が平和すぎてつまらないのだ。そのために、作品全体のぶっ飛び感を抑え、作品のインパクトを小さくしてしまっている。
 
 
 宮台真司が出た(自分で出したんだけど)から、ついでに言っておくと、この劇団の芝居、宮台真司的な世界や批評にかなり近いものを描いている。にもかかわらず「宮台、読んでないの?」と思わせるところがちょくちょく出てくる。今回の芝居もそうだし、以前観た売春女子高生を描いた『サバンナの掟』の優等生的な結末を観たときも思った。( この場合、『制服少女たちの選択――After 10 Years』ね。) 「読んでない」と思わせるところと話がぬるくて甘くなるところが重なるだけに、このことはどっちでもいいことではない気がするのだ。
 
 
 とはいえ、色々気付いたところはあっても、それでも作品のおもしろさはずば抜けている。

 なんでおもしろいのかというのは言葉にするのが特に難しいことだけど、冒頭にさらっとあげつらった一つ一つの要素が絡み合って、(一つの話の中という一定の縛りがある中で)自分の経験・思考・想像を超えていってくれるところがおもしろいと感じさせるのだろう。
 
 
 今度は1公演で2回観に行きたい。1回で色々把握して考えて言語化するほどのキャパシティがなくて、毎回、感想を書くたびに何となく辛い。
 
 
 それにしても、予約するたびに(実力通り)人気が上がってて予約できなかったらどうしようとか勝手に心配してるんだけど、こういう劇団や演出家が、将来、日本の演劇界の中心を担っていくんじゃないのだろうか。違うのだろうか。まあ、今メジャーな人たちの昔を知らないからよく分からないけど、この劇団が今後どうなるのかはすごく楽しみではある。

 東京セレソンDX公演 『 歌姫 』 ( 作・演出:サタケミキオ/出演:宅間孝行、村川絵梨ほか/2007年7月11日~8月5日/@シアターサンモール )
 
 
 数週間前に観た、昭和30年代の高知の田舎町で繰り広げられる人情物語を描いた芝居。

 テレビドラマ『花より男子』(TBS)の脚本を書いているサタケミキオ=宅間孝行が主催している劇団の芝居。

 大泉洋も絶賛している。( この日記を読んで観に行った人もけっこういたみたい。)

 秋からはTBSで連続ドラマ化される。
 
 
 そんなこの芝居、今まで観た作品の中で、一番泣いてる人が多かった。

 公の場所であれだけの人が一斉に泣いてるのなんて、葬式ぐらいでしか見たことがない、というくらいにたくさんの人が泣いていた。( いろんな感想読んでると男女かかわらず泣いていた様子。)
 
 
 なんだけど、自分は別に泣けなかった。

 それどころか、憲法学者の毛利透が指摘するところの“表現の自由を行使することで少数派になることのリスク”を引き受けてはっきり言えば、感動もしなかった。

 なぜなら、彼ら・彼女らの、境遇の悲劇度は高くないし、思慮レベルも浅薄なんだもん。
 
 
 この芝居の話の筋は、かなり端折って言えばこうなる。

 過去の記憶が全く思い出せない一人の男(宅間孝行)がいる。医者は、過去の記憶を取り戻すと記憶を失って以後の記憶がなくなるかもしれないと言っている。そんな男を愛する純情娘(村川絵梨)がいる。男の方もその娘を好きなようである。が、二人とも田舎者らしい気の強いところがあって素直になりきれない。そんなところに、その男の妻であるという女が小さな子供を連れてやってくる。そんなあるとき、その男の過去の記憶が戻る。過去の記憶は戻ったが、その後の記憶が消えることはなかった。しかし、その男は最近の記憶は消えたふりをして好きだった娘に別れを告げて子供の方を選び去っていく。その娘は涙ながらに笑顔で男を送り出す。以上。

 まず男の方としては、過去の記憶が戻るかもしれないというリスクを覚悟しながらその娘を好きになっている。そして、記憶が戻り、自分が結婚していて子供がいたことが分かった以上、昔の妻の方を選ぶというのは誰もがそうするであろう難しい決断ではない。そして、それによって失うのは、リスクを覚悟の上で好きになった娘と結ばれることである。(別にすでに付き合ってたわけでもない。) これは事前に想定できたことだし、記憶喪失になっていた以上やむをえないことだと、辛いにしても納得できる理由が存在している。

 娘の方としては、好きな男が記憶喪失であって、過去に結婚しているかもしれないことも、記憶が戻ったときに最近の記憶がなくなるかもしれないことも、知っていたし確実に想像もできた。だから、実際にそうなったとき、悲しいとしてもそれは事前に想定できたことであって、納得できる理由はあるし、衝撃度、悲劇度は高くはない。
 
 
 道を歩いてたら車にひかれて死んだ。

 この、毎日、新聞でほんの数十字であっけなく語られる――というか、記事にさえならないことの方が多い――事実の方が、どれだけ悲劇であることか。

 事前に想像することもできない。納得できる理由もない。その後の人生もない。

 劇団BLUESTAXI・第14回公演 『落ちた男』 ( 脚本・演出:青田ひでき/2007年6月6日~6月11日/@中野ザ・ポケット )
 
 
 2ヵ月以上前に観た芝居。11年前の作品を手直ししての再演。

 以前観たこの劇団の芝居について、「 人の気持ちの変わり方・変わる契機が安易で浅薄 」と書いた

 そしたら、今回はもろに「人間は変われるか?」がテーマだった。このブログが影響を与えたわけではないだろうけど、思わず一人ほくそ笑んだ。
 
 
 それで、今回の作品での「変わり方・変わる契機」はどうだったか。

 確かに、主人公たちを中心に、惰性的な生活の中でなんとか変わろうという摩擦なり葛藤なりはあって、いきなり安易にあっけなく変わってしまう/変わらないでいるということはなかった。

 ただ、そんな主人公たちに精神的に大きな(プラスの)影響を与える“救い”的な位置付けの盲目の女性が、一人のプレイボーイ男をずっと信じていられる(=変わらないでいる)理由というのが、過去の一つの出来事(=転んだとき彼がただ一人助けてくれたこと)を絶対化しひたすら盲目的に信じ続けているだけだというのは、いただけない。なんせ、主人公たちの心の葛藤を全て相対化してしまうことになるのだから。( もちろんそれは、この作品が意図しない結論である。)
 
 
 さて、これとは別にこの芝居全体の感想を書くのに、チラシにも載せられている次の劇中の会話ほど分かりやすくて象徴的なものはない。

 「 誰? 」
  「 探偵です。 」
  「 ・・・コナン? 」
  「 違います。 」 

 この会話が実際に演じられたところで別に笑えないのはさておき、この話の展開のさせ方は強引で不自然だ。

 「探偵」という言葉を聞いて、それ以前に何の伏線もなくいきなり「コナン」を登場させることには無理がある。「コナン」は確かに「探偵」ではあるけれど、「コナン」の枕詞は「名探偵」以外にはあり得ない。

 このような不自然さや強引さが、他の会話でももっと大きな話の流れでも、しばしば見られる。

 これだと観る側にかなり無理や寛容を強いることになるし、いちいち話の流れの不自然さにつまづいてしまって話の中に入っていけないということになってしまう。

 つまりは、この芝居の半分は観客の優しさ(あるいは、鈍感さ。もしくは、無知。)でできていると言えるのだ。
 
 
 この劇団、客演を含めて、役者たちは“何ものかを演じること”に関してのプロと言っていいようなレベルを満たしている人たちばかりであるだけに、戯曲と役者との間に(主に戯曲の浅さ・平凡さのために)お互いを高め合う相互作用、相乗効果が働いていないように見えるのは、作品や劇団にブレイクスルーやインパクトを欠く原因になっているような気がしてならない。

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