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 クーリエ・ジャポン 2008年7月号・vol.45(講談社、2008年)
 
 
  フランスの週刊誌『クーリエ・アンテルナショナル』と提携し、世界の1500を超えるメディアの中から記事を選び、翻訳・編集 (p11)している雑誌。

 先月に続いて2度目の購入。

 今月もおもしろい。

 有意義で興味深いけど、テレビとか新聞とかでは取り上げられない、別の視点から世界を読み解くことができる。 (よくできた「副読本」みたいな感じ。)


 メインの特集は中国。地方から都市への出稼ぎとか、豊かになる前の方が不便でも“幸せ”だったとか、受験戦争とか、地震の後(主に学生)ボランティアが活躍したとか、どれもデジャブ。おもしろい。

 他の小特集には、ロンドンのセレブたちの生態、ヴィトンのデザインをしたりしてる村上隆の芸術論とか。

 先月つまらなかった「世界が見たNIPPON」は、今月はそこそこおもしろかった。都会のカラス戦争とか、中国で『大奥』がそこそこ人気とか、クウェート人記者の東京探訪記とか。

 その他、個別の記事では、慈善団体がいっぱい来て潤ってる紛争地域ダルフール(@スーダン)の話とか、英語ができなくて自殺する人までいるインドの話とか、『収容所群島』のソルジェニーツィンがまだ健在って話なんかがおもしろかった。


 思ったこと。

 一。この雑誌、何気に(?)訳がいいというのが重要なポイントだと思う。例えば、クウェート人記者の東京探訪記なんか、かなりいい味を出してる。

 二。事実ってのは実に雄弁に色々語るなぁってこと。
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 m9 (vol.1)』 (晋遊舎、2008年)
 
 
 新しく創刊された雑誌。キャッチフレーズは、 時代を読み解く新世代『ライトオピニオン』誌

 要は、『中央公論』とか『世界』とか『正論』とかいったオヤジ向けの論壇誌に対抗して、若者向けの論壇誌の1つを目指そうとするもの、だと思う。

 それを象徴するのが、創刊号の特集に「 格差・ニート・ワーキングプア 」( 副題?は「インチキ若者論の元凶はコイツらだ!!」)を持ってきてること。

 なんだけど、対象とする読者(=味方につけようとしてる人たち)が違うだけで、やり方、本質は、オヤジ向け論壇誌と変わらない。

 つまり、敵・味方を分けて、敵を貶(おとし)め、味方を擁護できれば何でもあり、ってところが。

 例えば、特集。『ニートって言うな!』の後藤和智、『戦前の犯罪少年』の管賀江留郎のような“客観データ・人間変わらない派”がデータや実例を示して「ちゃんと現実を見ろ」と言ったかと思えば、『自分探しが止まらない』の速水健朗が「現代は自己変革を強いられる時代だ」みたいな、ちょっと考えればおかしさが分かるような主張を展開したりしている。( 武士道、騎士道、仏教、キリスト教、ギリシア哲学等々、これらだってどれも自己変革の話でしょうに。)

 特集以外の記事・連載も、“若者の支持が得られそうで楽しそうなもの”という緩い基準があるだけで、確証性のレベルとか論じてることの社会性のレベルとか対象のマニア度/一般性とかは相当バラバラ。

 結局、この雑誌を読んで分かるのは、“対既存の論壇誌”云々以前に、若者ったって実に多様だってこと。(ネット見てるとつい忘れがちになるけど。) この雑誌では、“対既存の論壇誌”を謳ってる割にはそのことに無自覚で、ただ単に内部対立を煽ってるだけ、という結果になりそうな気さえする。もしくは、実証派が逃げ出して(追い出されて)何でもありの不毛な地になるか、だろう。( 「若者」が連帯できるのは「ネット・アニメ・ゲーム規制反対」くらいなものじゃないかという気がする。)

 そんなわけで、若者シンパというスタンスとそれを体現する新鮮な執筆陣にちょっと興味はひかれたけど、(今後も)ダメそうな気がする。
 
 
 個別では、先述の後藤、管賀は、その著作を読んだことがない人には、その(有益な)主張の要点が簡潔に読めるメリットがある。掟ポルシェのアイドル(消費)論『「俺はアイドルとヤリたいワケじゃない」』は最近の主要グループアイドル(消費)についての真っ当な(あるいは、無難な)まとめになっている。その他は、読んでるときのちょっとした楽しみとちょっとしたマメ知識が得られる程度の短く気軽なエッセーみたいなのばかり。

 そんなわけで、(楽しかったとしても、その)楽しさの内実は、論壇誌っていうより週刊誌に近い気がする。

 小嵐九八郎 『蜂起には至らず――新左翼死人列伝(講談社文庫、2007年)

 1960~1970年代の新左翼運動を闘い、今は死んでいる人たち(運動に絡んで死んだ人が中心だけどそうでない人もいる)の生涯の記録に、その時代の状況や自らも活動家であった著者の感想・感慨を交えて、クセのある筆致で記した本。

 取り上げられるのは、樺美智子、高橋和巳、奥平剛士、森恒夫、本多延嘉など27人。

 多くが、若さゆえの過激なまでの理想主義、過剰な潔癖さ、(そして、無知)のために運動にのめり込み、若くして命を落とすことになっている。言ってしまえば、若気の至りによる死でもあるだろう。

 こうした生を実名で取り上げて公にすることは、なかなか辛いことだ。帯では27人を悼むの鎮魂の書となっているし、著者自身にその自覚はないのだろうけど、この本を読んで感じるのは、人の命の虚しさとか儚さだ。

 こういう死がたくさんあったればこそ、庄司薫が若々しさのまっただ中で犬死しないための方法序説なんてものを書いたのも、改めて納得させられる。(『狼なんかこわくない』の副題)

 とはいえ、その一方で、現代に生きる人間として、(命を懸けてまで)理想に生きる生き方が、あるいは、政治という他人に関することに生きる生き方が、どうして可能だったのか、その秘密を探りたい気持ちがある。それが1960~70年代の学生運動への興味を呼び起こす。

 が、やはり、この本でも、その秘密は、(ただの安易な)「若さ」でしかなかった。むしろ、この本は、他の本以上にこの要因が強調されているようにさえ感じる。

 そんなわけで、命を懸けて理想に走る人生に「おっ」と感じつつも、結局、その動因が「若さ」(か年をとってると偏狭なイデオロギー)だと知ってがっくりきて、最後には、空しさと儚さだけが残る本だった。
 
 
 ちなみに、著者はもう運動からは抜け出しているようだけど、「国家権力」なんていうやたらと抽象的な言葉を多用したり、衝突での警察官の死者は名前も状況も書かずさらっと済ませていたり、依然、冷静で公平な視点でものを見ることはできていない。

 それから、学生運動とかをその当事者が回顧する類の本での、その現実の多くの実害にもかかわらずの、楽しそうな感じには、いつもながら嫌悪を覚える。

 クーリエ・ジャポン 2008年6月号・vol.44(講談社、2008年)
 
 
  フランスの週刊誌『クーリエ・アンテルナショナル』と提携し、世界の1500を超えるメディアの中から記事を選び、翻訳・編集 (p11)している雑誌。

 コンビニでちょっと立ち読んでみたらおもしろそうで、しかも値段が思ったより安かった(600円=特別定価)から、初めて買って(きちんと読んで)みた。(存在自体は知ってたけど。)

 他の号は分からないけど、少なくとも今月号は、なかなかおもしろかった。

 主な内容(特集)は、「食料戦争」、「ニューヨークの変化」、「ピュリッツァー賞」、「中国の大気・水汚染」、「世界が見たニッポン」、「ミック・ジャガーとジョン・レノン」と、その他、単発の記事や連載など。

 たくさんの記事の中から選りすぐってるだけあって、さすがに、視野を広げてくれるもの、自分の蒙を啓いてくれるもの、問題の見通しをよくしてくれるもの、好奇心をくすぐってくれるものなどばかりで、情報量も多く、読み応えがある。安易に感情に訴えようとするもの、下衆な俗情に媚びようとするもの、ありきたりな事件記事などはない。

 例えば、アメリカのブッシュ政権がトウモロコシをバイオ燃料として使うようにしたために途上国でトウモロコシを食べられなくなる人が増えたとか、NYのハーレムが高級住宅地化してきて黒人同士が対立しているとか、ガーナで非公認のサッカークラブがサッカー少年たち(と一攫千金を夢見る親たち)を使って“奴隷貿易”をしているとか、幸せを求めて韓国に嫁いだベトナム人女性たちが自殺するなどのトラブルが頻発してるとか。

 世界が見たNIPPONはやはり気になり興味をひかれる特集(毎号あるみたいだけど)である。だけど、カプセルホテルの体験記とか、『女性の品格』の時代錯誤さの批判とか、ネット上で日中韓の若者たちが喧嘩してるとか、どれも古い上に内容も普通すぎておもしろくない。この特集が今号の中で唯一不満なところ。
 
 
 日本のニュース番組や新聞ばかり見ていると、世間(国内ばっか)で起こってること(つまり、ニュース)を知ることの意義は、「常識」を得て世間話についていけるようにすることと、悲しみや怒りの感情を(自分独りで、あるいは、お互い)確認することだと思うようになってたりする。

 でも、本当は、完全に逆なのだ。世間で起こってることを知ることの意義は、自分の偏狭な「常識」や固定観念を打ち破り、安易な感情に流されず理性的に世の中のことを理解することにこそあるのだ。

 なんてことを強く再確認させてくれる有意義な出会いだった。
 


 橋爪大三郎 『橋爪大三郎の社会学講義(ちくま学芸文庫、2008年)
 
 
 同名の単行本の『1』と『2』の中から、社会学、大学、家族、宗教に関するものを集めて文庫化した新編集版。

 「社会学講義」というタイトルだけど、原論というよりは(現実の問題への)応用が中心。(けっこう俗っぽい)一般向けの雑誌に90年代前半に収録されていたものが多く、中身は玉石混交だから、長くなるけど個別に見ていこう。
 
 
 最初の「基礎講座」の、社会学についての概説は、ひどい。社会学の存在や存在意義を必死になって主張しようとしている(が外している)感じ。そもそも社会学とはどういう学問かを説明するのに、「 政治学でも経済学でも法学でもない分野を研究する学問 」というような消極的な定義しか与えられていない。その上、社会学の成果として挙げられるのがコントだのスペンサーだのウェーバーだの古い人ばかりだったりする。その苦し紛れで、ついにはこんなことまで言っている。

政治学にどっぷり漬かっているかぎり、政治学では見えてこないことがいっぱいある。たとえば人権のシステムがいいと言うけれども、では在日外国人の扱いはどうするんだとか、選挙区はこうだけれども、一票の格差や地方自治はどうするのかとか、そのなかで議論しきれないことはたくさんある。それらは社会学が指摘すべき問題である。 (p50)

中国は、マルクス主義、毛沢東思想を中核にするイデオロギー国家だった。しかしトウ?小平が登場し、経済システムを政治システムと別個に動かそうというアイディアが生まれる。ここで、社会学の復活が必要になった。経済システムを自立的に動かそうと言っても、社会主義体制の副産物として、官僚主義やコネの横行など、さまざまな社会問題が山積している。それらを取り除き、市場経済を機能させるためには、問題の発見が必要になる。それにはやはり、社会学の力を借りなければならない。 (p51)

 そもそもこれらを社会学の仕事だとする見立て自体が意味不明だけど、この文章が書かれて15年経った今から見ると、これらの問題に取り組んだのは、(当然ながら)社会学ではなく、政治学や経済学(あるいは、両者が混ざった政治経済学)や法学であった。
 
 
 次に「講座1」の大学について。90年代前半に書かれたものだけど、これは今現在の大学改革( 国立大学の民営化とか英語の共通語化とか奨学金の充実とか )を完全に見越していて、その先見の明は見事。( というか、これ以外の様々なところで展開されていた著者の主張が昨今の改革に影響を与えている部分もあるかもしれない。) 逆に言えば、今となっては常識化していて歴史的な意味しかない部分もあるけれど、今日目指されている方向性の一つの原理的主張としての価値はある。
 
 
 次に「講座2」の家族的なものについて。最初に結婚について。

人類はなぜ結婚するのか、という問題ですが、結論を言うと、それは、結婚という制度がなくなってしまったら、困る人が大勢いるからです。 (p156)

 なんていう、頭の悪い(トートロジーで何も言ってない)文がいきなり出てきて読む気が失せるけど、それを我慢して読み続けてもこのレベルの怪しげな話ばかりでダメ。2つほど例示しておこう。

結婚を、恋愛と比較するとわかりやすいと思うけれど、恋愛のチャンスというのは、非常に不平等です。それに対して、逆説的で皮肉にきこえるかもしれないけれど、結婚のチャンスは、恋愛のチャンスに比べると、ずっと平等である。日本で言えば、実に9割以上の人が、結婚するという現実がある。自発的な意思で結婚していない人もかなりいますから、この数字は、望めば、ほとんどすべての人は結婚できるということを表している。こんなに平等なことはないんです。 (p164)

恋愛のチャンスが、じつに不平等である理由は、自分が支出する時間が、全生涯に亘らなくて、断片的でいいからです。そこで、巧妙に立ち回れば、次々に恋愛することもできるし、同時に何人とも恋愛することが可能だ。けれど、結婚でそれをするのは、時間の構造から言って無理なのです。これはマッチングゲームですが、すでに結婚している人を結婚の対象に選べないというルールを定めると、おおむね結婚は平等にならざるをえないということがわかります。恋愛の場合、とび抜けて優れた能力を持っている人や、きれいな人に人気が集中しやすいけれど、結婚のほうは、ある程度現実的にならざるを得ないから、ほぼすべての人が、だいたい分相応の人と一緒になれる。 (p166)

 色々問題はあるけど、1つだけ指摘するなら、「平等」とは言っても、相当無理して妥協しての産物だとやはりみんな嫌がるということは、歴史が証明してくれた。(未婚率は年々上昇している。)

 それから、家族について。 かつての温かく安らぎに満ちた家族の関係 (p184)が、ただの錯覚の固定観念にすぎないことを歴史的・社会学的に明らかにしている。広田照幸の議論と近い。

 そして、猥褻と道徳について。猥褻物の規制についてのイギリスの5原則を参照にしながら、国家が社会の領域に介入し、刑法(わいせつ物頒布罪)によって道徳を守ろうとすることを批判している。ネット上での性的表現の対処が問題になっている中、改めて原理的に考える基礎を提供していて非常にアクチュアルで有益。
 
 
 最後に、「講座3」の宗教について。最初の宗教原論的な文章では、宗教の機能と、(ハンチントンの議論に触発されてか、)途上国が宗教上の教義から先進国に暴力的な行動を起こす危惧が語られている。これが当たっているかどうかは、まだまだこれから。

 次の2つの文章では、仏教についての宗教社会学的な観点からオウム真理教が分析されている。もちろん、オウムの公的な教義や組織だけを見ていては不十分なところがあるとはいえ、これはおもしろい。(意外に知らない)オウムがあんな事件を犯した教義上の動機や、「世界最終戦争を唱える仏教教団」がどれだけおかしいかといったことを教えてくれる。
 
 
 全体としては、ナイーブな議論が気にならない人は楽しめるかもしれない(それはいいのか?)けど、そうでない人にとっては、有益なものもあるとはいえ、(全体では)きついかもしれない。

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