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by ST25
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 スティーブン・ジョンソン 『ダメなものは、タメになる――テレビやゲームは頭を良くしている(山形浩生、守岡桜訳/翔泳社、2006年)
 
 
 ゲームやテレビやインターネットによって、人々はバカになっているのではなく、むしろ頭が良くなっていると主張している本。

 とても挑発的な主張だけど、論理的で(そこそこ)実証的で、バランス感覚もあるから、おもしろく読める。
 
 
 カバーに書かれている紹介文が内容を魅力的にまとめてくれている。

メディアの暴力表現は現実の暴力につながる?
 そろそろ、そんな一辺倒な議論はヤメないか?
 ゲームやドラマは複数の人物の複数の視点やエピソードを追い、関係性を把握しておかないと理解やプレイができなくなってきている。
 著者はこうした複雑化の傾向を〔映画『スリーパー』から〕“スリーパー曲線”と呼び、IQスコアや認知力を上げるデータを根拠に、人々は「賢くなっている」ことを示す。
 昨今、テレビやゲームがさまざまな社会問題の元凶のように語られる風潮の中で、よりバランスのとれた健全な議論が行われるために、一石を投じる一冊。

 確かに、昔のゲームとか映画で複雑なものはあまり見つけられない。

 そして、『パックマン』と『シムシティ』、『バンビ』と『ファインディング・ニモ』みたいに昔と今のヒット作同士で比較されると、どっちが複雑で、どっちが頭を使うかは一目瞭然。

 他にも、『24』や『マトリックス』など複雑な内容を持つヒット作は今ではたくさんある。(※もちろん、著者はこれらの具体例だけを論拠にしているわけではない)

 日本で考えても、『ファイナル・ファンタジー』、『エヴァンゲリオン』、『デス・ノート』など複雑ながら大ヒットした作品は最近の方が断然多い。

 この事実を考えただけでも、最近のポップカルチャーに親しんでいる人たちの認知的な能力が上がっているという著者の主張は説得的なように思える。

 もちろん、本の中では、どのようにゲームなどの複雑性は増しているか?、具体的にどのような認知能力が求められているか?など、より詳しい分析によって主張は精緻化されている。

 ゲームとかが頭を良くするという主張もさることながら、この個々の作品レベル、媒体レベルでの分析も、有名な作品に対する新鮮でおもしろい視点からの洞察に満ちていて楽しい。
 
 
 
 「訳者あとがき」で山形浩生が言っているように、この本の画期的なところは、「ゲーム脳」系の主張の(特に科学的な)間違いを指摘する「防戦」にとどまらず、「攻めに転じ」て、「ゲームをやると頭が良くなる」という主張を展開しているところにある。(※もちろんゲームだけに限らない。以下同じ。)

 これでようやく、「ゲームをやるとバカになる」系の主張と、「ゲームをやると頭が良くなる」系の主張とが出揃ったことになる。

 とりあえず、「暴力的なゲームをやると暴力的な性格になる」みたいな単細胞な思考回路を持っている人をなくすために皆でゲームをやるべきだ。

 議論はそれからだ。
 
 
 
 ※ちなみに、著者はポップカルチャーの全ての面を肯定しているのではなく、ポップカルチャーが巷で言われるほど悪い影響ばかり与えるものではなく、重要な良い面があるということを主張している。

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 村松秀 『論文捏造(中公新書ラクレ、2006年)
 
 
 ノーベル賞候補とまで言われていたドイツ人若手物理学者ヤン・シェーンが21世紀初めに引き起こした史上空前規模の「科学論文捏造事件」の真相を追ったNHKのドキュメンタリー番組の書籍化。

 おもしろい。
 
 
 誰がやっても同じ結果が得られる「再現性」が担保されている物理学は、科学の中でも優等生的な地位を占めている。そんな物理学においてなぜこんな捏造が起こり、しかも数年もの間それは暴かれなかったのか?

 シェーンが所属していたアメリカの名門ベル研究所、捏造論文を掲載していた一流科学雑誌『サイエンス』・『ネイチャー』、物理学の最先端分野の一つである超伝導を研究していた世界中の一流物理学者、シェーンと共同研究を行っていた先輩・同輩、彼らはなぜ捏造を防げなかったのか?

 これら興味深い疑問に、多角的に(そして手厳しく)迫っている。
 
 
 少し前に取り上げた、サイモン・シン著『フェルマーの最終定理』が成功のサイエンス・ドキュメントの傑作なら、こちらは失敗(不正)のサイエンス・ドキュメントの傑作。

 ただ、今回の本では、舞台となった「超伝導」それ自体の話は(不正が主題だから当然とも言えるけど)あまり出てこない。

 けれど、「はじめに」で見せている著者の科学的思考力からすると、それは正しい判断だと思える。

 というのも、著者は、アメリカの研究チームが行った生命系研究者への大規模な調査による「アイデアの盗用1.4%」「論文の多重投稿4.7%」「矛盾するデータの隠蔽6.0%」「資金提供者からの圧力による研究方法・結果の変更15.5%」という集計結果から、3人に1人は何らかの不正をしていたという結論を導いているからである。(※『ネイチャー』誌の元の記事を見たわけではないけれど、常識的に考えて重複回答があると思われるから数字を足すのはおかしい。)
 
 
 とはいえ、読み物としてのおもしろさや、科学や学問のあり方への問題提起の鋭さに変わりはない。
 
 
 それにしても、自分は科学性の低い社会科学・人文科学に慣れ親しんだ人間だからこそ、逆に、実験結果に関する物証を出さない研究・論文を認めてしまうというのが信じられない。統計データの出所を言わないみたいなものでしょ?

 サイモン・シン『フェルマーの最終定理(青木薫訳/新潮文庫、2006年)
 
 
 傑作。知的刺激に満ちつつ、ドラマチックな物語でもある。

 「フェルマーの最終定理」は、17世紀、フェルマーによって、その証明を隠されたまま結論だけが世に出された。

 「フェルマーの最終定理」とは以下のようなものである。

xのn乗+yのn乗=zのn乗、nは2よりも大きい。これに整数解はない。

 (※ちなみに、n=2の場合は、直角三角形において、斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しいという“ピュタゴラスの定理”である。)

 以後、幾多の天才たちがその謎に挑んできたが最終的な解決に至る者は一人もいなかった。それが、20世紀後半、ついにアンドリュー・ワイルズによって証明された。

 この数学界の格闘の歴史――紀元前のピュタゴラスから20世紀のワイルズまで――を数学に無知な人でも分かるように説明し、なおかつ劇的に描いたのがこの本である。

 その過程では、日本人数学者による重要な貢献(「谷山=志村予想」)も大きく扱われている。
 
 
 そんなこの手の本は、自分のような文系人間の方がより楽しめる気がする。

 なぜなら、第一に、数学的な愉しみに接する機会が少ない分、新鮮さが大きいから。第二に、無知であるだけに書かれている内容を疑うことなく受け入れられる(受け入れざるをえない)から。
 
 
 
 最後に、驚きすぎて笑える数学を一つ。

 素人は「フェルマーの最終定理」を解くのに、とりあえず一つずつ順番に数字を当てはめていくことを考えるだろう。けれど、もちろん数学の世界では、「全て」の数において当てはまることを証明しなければならないから、数字を一つずつ当てはめていくことは決して証明にはつながらない。

 「とは言っても」と思ってしまうのが素人なのだが、次の文を読むとこの甘い考えも打ち砕かれる。

たとえスーパーコンピューターが何十年もかけて次から次へと個々のnについて証明していったとしても、無限に続くnのすべてについて証明することはできない。 (中略) たとえ1,000,000,000まで証明されたとしても、1,000,000,001も真である証明にはならない。 (中略) これがどれだけ危険なことかを理解するために、素数(注:1とその数自身の他に約数を持たない数。3とか19とか。)からなるある数列を見てみよう。17世紀のこと、数学者たちは次の数列を詳しく調べ上げ、どれもみな素数であることを示した。
 31、 331、 3,331、 33,331、 333,331、 3,333,331、 33,333,331
 (中略) 当時の数学者のなかには、これまでのパターンから考えて、この形の数はすべて素数になると思いたい者もいた。ところがこのパターンに次に現れる数、333,333,331(注:3億~)は、素数ではないことがわかったのである。
 333,333,331=17×19,607,843 (pp255-256)

 
 
 この本を高校生のときに読んでいれば授業態度も成績もずいぶん違ったのではないかと何度も思った。けど、気持ちと現実は往々にしてギャップがあるもので、やっぱり大して違わなかったと思う。でも、少しは違ったであろうことは間違いないけど。

 同じ著者が書いた『ビッグバン宇宙論』も読んでみたい。でも、単行本で上下巻(計3500円弱)はきつい。

 ダレル・ハフ 『統計でウソをつく法――数式を使わない統計学入門(高木秀玄訳/講談社・ブルーバックス、1968年)
 
 
 統計データを見る際の基本的な注意点が、分かりやすく、かつ、おもしろおかしく書かれている統計の入門書。おもしろい事例がたくさん出てくる。数式は一切使われていない。

 この本で扱われる主な項目は、サンプルのバイアス、色々な平均値、グラフの読み方、因果関係と相関関係などである。

 この本を読めば、趣味・教養系のテレビ番組や各種雑誌や日常会話レベルで出てくる「数字」に騙されない程度の知識は確実に身に付く。みのもんたは特に読むべきだろう。
 
 
 今では、社会科学を学ぼうと思ったら、統計の最低限のスキルは必須であるようである。そんなわけで、統計もいつか集中的に学びたい。

 池田清彦 『脳死臓器移植は正しいか(角川文庫、2006年)
 
 
 2000年に出された本の文庫化。構造主義生物学者にしてリバタリアン(自由至上主義者)である著者による脳死・臓器移植批判の書。ちょっと特異な視点から主張が展開されているから問題提起の書といった印象を受ける。もっと科学的、一般的、普遍的、説得的な脳死・臓器移植批判を知りたければ小松美彦の著書・論文を読むとよい。

 それで、この本で展開されている主張は、多岐に渡るけど、主なところは以下のとおり。

・臓器の需要に対して(臓器提供可能な)脳死者という供給は極端に少ないため、脳死・臓器移植というシステムがある限り、レシピエントは人が死ぬのを待ち望むことになり、不健全である。

・脳死臓器移植は過度的な治療法であるのだから再生医療や人工臓器などの研究に資源を投入すべきである。

・「死の基準」自体は科学的には決定できない社会的なものであるが、この観点からすると、体は温かく、手足などは動き、臓器摘出に際して血圧が上昇するため鎮静剤を打つなどする脳死は、その実際を知れば日本人の感覚からして「死」とは認められない。

・「死の自己決定権」を言うのなら、心臓死と脳死に「死の基準」の選択肢を絞らずに他の「死の基準」も認めなければ一貫性が保てないし、臓器の提供先も当人が決定できなければならないはずである。

・臓器提供のドナーカードを持っていると、医者が意識的にしろ無意識的にしろ臓器移植を考えてしまうため、最善の治療が行われず、本来は生存できたかもしれない人が死んでしまう可能性がある。
 
 
 だいたいこんなところである。賛同するところもあれば、ここでは挙げなかった著者のリバタリアン的な思想が影響しているところでは特に首肯できないところもあった。(レシピエントを“政府が”何らかの基準を作って決定することを「不公平」だとするところとか。)
 
 
 この本を読んでいて一つ思い出したことがある。自分が大学受験生のとき、予備校の「論文模試」で「脳死の是非」が問題のテーマだったことがある。そこで自分は、詳しくは思い出せないが、「脳死・臓器移植を認めてもいいが、臓器提供=善とする偏った風潮をマスコミなどが作ってしまうことにはとにかく注意しなければならない」ということを強調して書いた。“日本社会の同質圧力”を徹底して嫌悪していた若き日の自分らしい主張である。(今も嫌いだが。)しかし、このことは、その当時においては、重要ではあるがあまりに当然のことであったという印象がある。実際、その解答は無難であっただけになかなかの評価を得た。

 果たして少年の危惧は現実のものとなった。

 マスコミは臓器移植をしないと死んでしまう少年少女ばかりを取り上げている。

 まあしかし、マスコミが不勉強で無思考で下劣でおつむが弱いことくらいはもはや諦念している。

 しかし、この本を読んでいて驚いたことに、問題は裁判所にも及んでいるのだ。なんと、強盗殺人を犯した被告の弁護側が臓器提供意思表示カードのコピーを提出し、裁判官がそれを“情状面の証拠”として採用したというのである!

 生物学者の著者が適切に指摘しているように、問題なのは、臓器提供=善という価値観を受け入れてしまっている点、判決後にドナーカードを破り捨てることが簡単にできる点、被告が死刑判決を受けた場合、臓器移植をするために死刑の実施が早められる可能性がある点などである。

 裁判官がこれでは、世も末である。
 
 
 さて、臓器移植法の改正案がすでに国会に提出されるくらいの段階に至っている。改正に主導的な役割を果たしているのが自民党の河野太郎である。彼が出した「河野案」はウルトラC級の案である。すなわち、以下のような案である。

 (民法上、自己決定の主体になれない)15歳未満の人からの臓器提供も可能にするために、15歳未満の人の場合、家族の同意だけで臓器提供できることにする。しかし、これだけでは本人の意思表示が必要な15歳以上の人と非対称になってしまう。そこで、15歳以上の人も、あらかじめ臓器提供を拒否する意思表示をしている人以外は、臓器提供の意思ありと見なし、本人の明示的な同意がなくても家族の同意だけで臓器提供を行えるようにする

 もしこの法律が成立したら、まさに日本の法システムのパラダイム転換である。なぜなら、あらゆる法律の前提である個人の“自己決定”を否定しているからである。ここで前提とされている論理は、「拒否の意思表示が無いならば、臓器提供したいと考えているものと見なす」というものである。ここでも生物学者の著者が適切に指摘しているように、臓器提供した後に、拒否の意思表示カードが見つかったらどうするのだろうか? (間違いなく殺人罪になるだろう。)

 ちなみに、公明党の斎藤鉄夫が出しているより穏健な案でも、臓器提供の意思表示ができる年齢を12歳に引き下げるというものであり、人の死期という重要かつ難しい問題で民法を(より緩める方向に)はみ出した規定を設けるというのは、あまりに脳死推進派やドナー側の身勝手な思惑である。

 法律学者、法曹関係者から強い批判の声が上がることを期待したい。

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