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by ST25
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 米沢富美子 『人物で語る物理入門(上)(岩波新書、2005年)
 
 
 アリストテレス、ガリレイ、ニュートン、ホイヘンス、マクスウェル、ボルツマン、アインシュタインなど、タイトルの通り、人物を中心に物理の発展の歴史を追っている。

 「勉強になった」と言うと“高校卒業”の肩書きが疑われそうなレベルの内容だけれど、勉強になった。

 科学が人間の直感から始まって、肉眼では不可視なものや直感とは反するものを発見するまでの苦労が分かり、人間という高等な生き物がこれほどまでに進歩したその歩みが垣間見れる。そして、その進歩に寄与した天才たちの人生も少々知ることができる。

 
 
 月に慣性の法則が働いているなら、宇宙空間を月はまっすぐ進んで遠ざかってしまうはずなのに、地球の周りを離れないでいるのは、地球の重力によって月が「地球の方に落ち続けている」結果だ(p61)と考えたニュートン。

 そのニュートンが仮定した正しい時計さえ持っていれば、誰がどういう状況で測ろうとも、時間は同じになる(p197)という“絶対時間”を否定したアインシュタイン。

 このように、かつての大天才の主張を後の大天才が覆す。こんなことの繰り返しが進歩の歴史であるのだから、この本を読んでいると、最後に取り上げられているアインシュタインの主張を説明するためにそれまでの記述があったのではないかと思えてくる。(下巻の目次が書かれていないため、下巻でアインシュタインがどう扱われるのかは分からないが。)

 そんなこの本を読むと、特殊相対性理論の発見から100年、アインシュタイン没後50年の今年中に、アインシュタインおよび相対性理論について勉強したくなってくる。もちろん、理論をきちんと理解するのは無理だろうが。
 
 
 それにしても、物理学以外も含めた理系の学問というのは、高校までの勉強との連続性があるようだから羨ましい。文系の学問は、人文科学にしても社会科学にしても、高校までの勉強との乖離が大きすぎる。もっと、高校までの勉強を大学以降に学ぶ学問に近づけるように改革すべきだろう。手始めに、大学入試の問題は学問を職業にしている大学の先生が作成するわけだから、大学入試の問題を変えてみてはと思うのだが。

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 小松美彦 「「有機的統合性」概念の戦略的導入とその破綻」 (『思想』2005年9月号、No.977所収、岩波書店)

 今月号の『思想』の特集は「メタ・バイオエシックス」。全9本の論文中、脳死・臓器移植関連が4本、臨床における医療倫理関連が3本、ヒト胚研究と中絶が1本、生命倫理学が1本、という構成。

 構成を見ても分かるとおり、脳死・臓器移植が最重視されている。岩波書店が発行しているこの『思想』では、今年の5月にも「科学技術と民主主義」という特集を組み、脳死・臓器移植関連の論文・書評を載せている。

 ここでおもしろいのは、脳死・臓器移植問題(=「脳死」を「人の死」と認めて、臓器移植を可能とするか否か)では、岩波書店やTBSの「ニュース23」といった左寄りないしリベラル派が消極的な立場で、4大紙(読売、朝日、毎日、日経)の中で最も右寄りないし保守的である読売新聞がかなり積極的に推進する立場であることだ。

 保守的な人ほど科学技術を用いて社会を“改造”していくことに嫌悪感を持ちそうなものだ。日本の保守派の非保守性(=感情的右翼性?)が表れているのかもしれない。その一方で、左派が消極的であるのは、脳死・臓器移植の「人助け」の面より、命を絶つ面を重視しているからだろうか。
 
 
 さて、雑誌に戻ると、どの論文も得ることろがあったのだが、やはり小松美彦の「「有機的統合性」概念の戦略的導入とその破綻」が特に良かったので、この論文に絞って内容を見ていきたい。

 小松美彦と言えば、『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)の著者である。この本は、いかに脳死・臓器移植推進派が、ある種の“いかがわしさ”(その内容は明らかだが)を隠すために巧妙な戦略や無理な正当付けを行っているかを完膚なきまでに科学的に(そして、時に人間的に)暴き、論破した本である。自分もこの本を読んで脳死・臓器移植反対派に転向した。(転向すると、罪悪感や恥ずかしさを隠すためや、転向前に属した側の生ぬるさを知っているために過激になるのは今も昔も同じ避けられない現象だ。)

 この本に対しては、ネット書店Amazonのレビューを見ると、「偏っている」とか「一方的」という意見も一部に見られるが、今回の『思想』所収の論文に小松美彦自身が書いているように、

(『脳死・臓器移植の本当の話』の)上梓から一年以上経った今日、小著に対して正面から寄せられた反批判は皆無だといってよい(p24)

 という状況である。ちなみに、著者が理論面で全面的に依拠するUCLA医学部教授アラン・シューモンも推進派による正面からの批判は未だに受けていないとのことである。自分も、医学者ではない著者の言っている内容が全面的に正しいとは信じきれず、同書に対する批判があれば是非とも読みたいと思っていたのだが、この状況を見るに、この本に対して批判をしているのは、兎にも角にも臓器移植を進めたい医者と臓器のレシピエント関係者だけで、小松美彦の議論は正しかったと確定していいのではないかと思う。
 
 
 そして、今回の論文だが、『脳死・臓器移植の本当の話』では科学的な主張と感情に訴える脳死・臓器移植の現実の伝達との2つの軸から成っていたが、その内の科学的な主張の検討に絞って書かれている。したがって、個人の価値観や感情的な面を除いた上でなお、脳死・臓器移植が認められるべきではないことを科学的(及び歴史的)に証明しており、反対派の理論面での主張のエッセンスが分かりやすく学習できる。とはいえ、シューモンのその後の学説など、本には書かれていなかった内容もある。
 
 
 それでは、論文の内容を追ってみていく。

 世界的に見て脳死判定基準の端緒を開いたのは1968年の「ハーバード基準」と呼ばれるものだ。正式名称を「不可逆昏睡の定義――脳死の定義を検討するためのハーバード大学医学部特別委員会報告」という。ちなみに、不可逆昏睡とは脳死と同義である。この文書では、脳死を死の新基準とする理由として、蘇生・延命治療の発展による諸問題と、臓器の獲得の二つが挙げられている。そして、脳死状態の四特徴(無感覚と無反応、無体動ないしは無呼吸、無反射、平坦脳波)とその判定法が提示され、さらに、法的な死の定義は医学の判断に従うとされていること、ローマ法王の声明文を援用した正当化などが書かれている。

 この文書について筆者は5つの批判を行っている。この文書の問題点は後半で検討する文献の理解にとって重要であるので、やや詳細に見ていく。まず一つ目の批判は、脳死と人の死との関係について。

この基準によって判定されるのはあくまでも不可逆昏睡状態であり、そのままでは死の到来を判定できるわけではない。つまり、不可逆昏睡に陥ったことと死亡したということとは別次元の問題なのであり、なぜ不可逆昏睡に陥ると死んだことになるのかが論理的に語られなければならない。そのためには、まず死の概念を定義し、その上で定義された概念的な死の判定基準として不可逆昏睡状態が妥当であることが立証されなければならない。(p27)

 そして、二つ目として、定義しようとしたのが不可逆昏睡の特徴なのか、それとも、不可逆昏睡時の脳の特徴なのかがはっきりしないことを挙げている。

 三つ目として、何を不可逆昏睡の特徴として定義したのかが判然としないことを指摘する。

文書全体としては不可逆昏睡の者が既に死んでいることを印象づけようとするあまり、その根拠として意識や知性の永続的消失を繰り返し強調している。(しかし、)四特徴はいわば全脳死(大脳、小脳、脳幹の機能停止)の特徴に相当するのに対して、意識や知性の永続的な消失は大脳死(脳の三部分のうち大脳だけの機能停止)のそれに当たり、不可逆昏睡(脳死)の概念規定が揺らいでいる。「不可逆昏睡=大脳死」だとすると、その規定は本来の不可逆昏睡患者(脳死者)だけに留まらず、持続性植物状態の患者などにも当てはまることになるのだ。(p28)

 次に、四つ目の批判として、

死の基準を変更する理由が純粋な科学的探究によるのではなく、功利的な医療目的にあることを、本文書は宣揚しているために、人々の不信感を招きかねないものとなっている(p28)

 ことを述べている。

 最後に五番目として、前記の四つの問題を生み出す元凶でもある「死の階層構造」を理解できていないことを挙げている。死の階層構造とは、

基底から順に見ていくと、①まず、概念としての死がある。(中略)②次に、概念として定義された死が実際に到来したか否かを判定するための理念的な判定基準がある。例えば、脳死や心臓死がこれに当たる。(中略)③(次に)理念的な死の判定基準が実際に訪れたか否かを確認するためのより具体的な判定基準が必要になる。(ハーバード基準の場合、)四特徴がこれに当たる。④しかしながら、これらもまだ抽象的なものにすぎない。そこで、(中略)無反射を例にとれば、無反射を確認するために瞳孔反射、角膜反射、咽頭反射などのテストが挙げられているように、臨床現場で実際に行うべき判定テストが必要になる。(p28)

 
 
 さて、このような問題を含んでいた「ハーバード基準」は、発表から10年以上が経過した1981年に、その目的や理念では同じくしながらも様々な問題を総括的に乗り越えた上で、『米国大統領委員会報告――死を定義する』(以下、『死を定義する』と略記。)に取って代わられる。

 『死を定義する』での画期的な革新は、死体にはない生体の特徴の一つは、自身を有機的構成化し統御する能力を備えていることであることから、「有機的統合性」という概念を新たに導入し、有機的統合性が消失する「脳の死」を「人の死」とする論理構築を可能にしたことである。その論理構造は以下のものである。

①死とは有機的統合性(全体としての有機体)が崩壊した状態である。②全脳の機能が不可逆的に停止すれば、有機的統合性は崩壊する。③ゆえに、全脳の機能が不可逆的に停止した状態(全脳死)は死(の基準)である。(p33)

 また、『死を定義する』では、最重要器官説という説を採り死者を全脳死者に限定することで死の判定基準から植物状態などを排除した。また他にも、死の概念には脳死基準に対応するものと旧来の心肺基準に対応するものとの二つがあるわけではなく、そもそも死とは脳機能が不可逆的に消失することであり、心肺基準は実は脳機能の不可逆的消失を確認していたに他ならない(p35)と主張し、脳死と臓器移植とを切り離すことで、臓器移植のために死の基準を変更したという批判を回避しようとした。

 長々と書いてきたが、以上が現在の脳死・臓器移植推進論者が依って立つ理論である。ちなみに、日本が採用している全世界の趨勢でもある「有機的統合性-全脳」説はアメリカの論理を踏襲したものであり、国ごとに分けて論じる必要はない。それでは批判に移ろう。
 
 
 まず、シューモンの批判を紹介する前に筆者は、推進派の主張を支える「有機的統合性」の論理の問題点を指摘する。すなわち、有機的統合性の有無が人の死を決定するとすれば、有機的統合性がなぜそれほどに重要なのかが明らかにされなければならない。しかし、推進論者の主張はそれに対してしっかりとした答えを提示していない。その答えの一端が書かれているのは、『死を定義する』の中の「死体にはない生体の特徴の一つは、自身を有機的構成化し統御する能力を備えていることである」という前述の箇所である。しかし、有機的統合性は死体と生体とを分ける「特徴の一つ」でしかない。したがって、筆者は以下のように結論する。

「有機的統合性の崩壊」という死の概念的定義の設定は、全脳死基準を導入するという大目的から逆算してなされたものだと言わざるをえない。(p38)

 
 
 それでは次に、UCLA医学部教授アラン・シューモンによる批判の紹介に移る。シューモンは、元は理性・思考を司る大脳を重視する「高次脳説」論者だったが、実際の臨床例に触れて全脳説に転じ、さらに別の例に触れて全脳説を否定するに至ったという経歴の持ち主である。

 そんなシューモンの一つ目の批判は実際の臨床例を提示することによる反証だ。

脳死者は4,5日以内で確実に心停止をきたすと断言されてきたにもかかわらず、従来の約1万2000人の脳死者のうち175人が1週間以上生き続けたというのだ。一番長い者は、論文が出た時点で14.5年間に及んでいた。この脳死者は4歳の時に脳膜炎で脳死診断された男性だが、結局2004年1月に心停止するまで足かけ21年間脳死状態を持続した。
 4歳の脳死の少年が成年に達し、15㎏だった体重が60㎏に増え、身長も150cmになり、第二次性徴も迎えている。シューモンによると、こうした慢性脳死者は、急性期を克服すると次第に身体の状態が回復して安定し、人工呼吸器と簡単な治療だけで有機的統合性を維持する。脳死状態であるのに有機的統合性を維持しているということは、有機的統合性は脳からのトップダウン方式によるのではない、とシューモンは言明するのである。(p40)

 ちなみに、その21年間生きた脳死者の脳を死亡後に解剖したところ、実際に神経細胞や脳幹構造までもが失われており、ほんの少し残っていた脳の部分も岩のように石灰化していたとのことである。

 つまるところ、これらの事実は有機的統合性は脳には還元できないということを示しているのである。
 
 
 シューモンによる批判の二つ目は、そもそも脳が有機的統合性の一極的な中枢ではないことを二つの角度から明らかにすることである。

 第一に、内部環境の恒常性の維持や怪我の自然治癒や妊娠の持続など、有機的統合性の代表例とされるものは、すべて脳の直接支配を受けずに存立している。それは、先述した脳死の子供の成長や脳死者の中で胎児が成長する実例が示している。

 第二に、例えば、体温維持の中枢は間脳の視床下部にあるが、体温そのものを生み出しているのは全身の細胞のエネルギー代謝活動であることからも分かるとおり、脳は統合性の統御器官ではなく、調整機関に過ぎないとする。
 
 
 さらにシューモンは、脳死判定基準をも批判する。すなわち、既存の全ての脳死判定基準には全身の有機的統合性の有無をテストする項目は一切ないのである。
 
 
 他にも、まだある。脳死者と上部脊髄損傷患者との違いについてである。

通常、身体の有機的統合性の消失は本当にそれらの破壊によるのか、それとも脳との回路が遮断されて身体が脳から指令を受信できないためなのか、と問う。(p42)

 そして、脳死者と上部脊髄損傷患者との患者の取り扱われ方が違うことから、

(この)非対称性は、脳死者は死んでいるが上部脊髄損傷患者は生きているというアプリオリな信念にたぶん由来しており、それは生理学的には無根拠なダブルスタンダードに他ならない(p44)

 と断じる。
 
 
 以上が、シューモンによる批判である。見事なまでの論破であるように見える。

 もちろん、現在の通説である有機的統合性・全脳死説を論破したことは、脳死・臓器移植が永遠に葬り去られるべきだいう結論を導くものではない。これとは別の脳死を正当化する主張が登場する可能性があるからだ。しかし、これだけ決定的な批判があるにもかかわらず脳死・臓器移植を推進することは、拙速だと言わざるを得ないだろう。文字通り、人の生死に関わる問題であり、殺人かそうでないかの問題である。
 
 
 また、シューモンによる批判があまりに徹底的だったためか、「ポスト・シューモン時代の推進論理」が登場してきたという。“ギャグ”かと見まがう主張ではあるが、『日本移植学会雑誌 移植』という査読(レフェリー)制度のある権威ある雑誌に掲載された論文であるから紹介しておこう。

 この論文は松村外志張によるもので、そのモチーフは、臓器移植を推進し、さらに医療・産業が人体のあらゆる部分を多面利用しうる途を固めることにある。そして、その発展のためのルールの三大原則を提示する。

①身体の供与については死者の生前意思よりも遺族などの意思を重視すべきとする「生存者意志優先の原則」、③臓器移植は成功の可能性が高い者を優先して行うべきとする「命のつながり重視の原則」が挙げられており、これらは現行の「臓器移植法」やその精神を大きく変更するものであるが、それ以上に着目すべきなのは、②「特定条件における与死許容の原則」である。
 この点に関して松村は、(中略)遊牧民には移動不可能になった者を原野に置き去りにする習慣があったこと、軍隊・兵士には死ぬ機会が合法的に与えられていること、神風特攻隊にとって大切なことは敵艦を沈没させること以上に敵艦を発見できなくとも生還しないことであったこと、そして実際の存否はともかくとして姥捨て、これらを例として現代日本社会にも「死」と「殺」の間に「与死」という概念を導入することを提言する。ここで与死とは、「本人がその死を受け入れていることが条件であるという点で」殺人と異なり、「社会の規律によって与えられる死を本人が受容する形でなされる」点で、「死を選択するという本人の意志を尊重する」尊厳死とも相違する。(中略)
 松村は一方では「脳死体」という言葉を使いながらも、脳死者を「与死」の対象としている以上、そもそも脳死者が生きていることを認めていることになるだろう。つまり、脳死が死の基準たりえなくとも、脳死の判定基準を満たした者を死なせることは可能であり、その「殺意」は「非倫理的」ではないという訳だ。(pp46-47)

 ちなみに、この論文は編集後記で絶賛されているとのことである。いかに医者という人種(言うまでもなく全てではない)に法的感覚や人権概念というものが欠如しているかが分かる。しかし、彼らは真面目なのである。

 ところで、この松村外志張という人だが、YAHOO!で検索したところ、3年程前に文部科学省、経済産業省、厚生労働省による「ヒトゲノム倫理指針(案)3省関係者会議」のメンバーだったようだ。ある条件の下でなら国が人を殺していいと言っている人に「倫理」を語らせていいのだろうか、日本国政府は。(しかし、とりあえずはこの論文を自分で確認してみなければ。)
 
  
 さて、医者と同程度か、あるいはそれ以上に信用できないのが政治家とマスコミである。

日本では、シューモンの見解もそれを援用した筆者の批判もマスメディアに取り上げられることは極めて稀であり、脳死を一律に死と規定した「臓器移植法」改定案が国会に上程されようとしている。そしてその背景には、かかる批判に対する脳死・臓器移植推進論者や多くの生命倫理学者たちの沈黙がある。(p45)

 
 
 さて、いろいろ長々と書いてきたが、その背後にある究極の対立軸は単純明快である。

 「命には序列をつけられるか?」

 これに尽きる。

 もちろん、この問いを正面から肯定する人はほとんどいないであろう。しかし、脳死問題で言えば、推進論者が「いかに命の序列を否定しながら脳死・臓器移植を正当化するか」に腐心してあれこれ理論を作り上げているのは明らかであろう。そこでは、意識を消失した人、残りの命が長くない人を下位の人間(脳死の場合、死体)として位置付けている。デカルトちっくに永続的な意識の消失を以って「人の死」と主張するのであればそれはそれで一貫していて良いのだが、推進論者のほとんどはそうは言い切らない。推進論者の欺瞞・偽善性を表している。

 しかし、脳死・臓器移植に限らず、障害をもった胎児の選択的中絶やデザイナーズ・ベイビーなど、生命倫理に関わる問題の多くは、この問いに還元できると言っても過言ではないのではなかろうか。

 “正常な”理性や判断能力を持ち合わせ、四肢があり、各感覚器官がはたらく、そんな人間こそが“普通の”人間であり、それ以外は、“劣った”“価値のない”人間、あるいは、死体・物体として見る。

 “個人の好みのレベル”でそのような人たちをどのように見るかは自由であると、譲ってもいいだろう。

 しかし、社会的なルールがそのようなことを容認することに対しては断固として拒否する。

 医者が語るのはクールな装いの優生思想だ。 
 
 
[この論文を読んで興味を持った論文]
・松村外志張「臓器移植に思う――直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案」
・J.Korein「The Problem of Brain Death」
・A.Shewmon「Recovery from Brain Death」
・A.Shewmon「Chronic Brain Death」

 森岡正博 『生命学をひらく(トランスビュー、2005年)
 
 
 『無痛文明論』の著者による講演集。扱われているテーマは、「無痛文明」から愛、脳死、生命学まで、著者の守備範囲がほぼカバーされている(と思う)。著者の『無痛文明論』は興味があったのだけれどあまりの大部のため、手を出せずにいた。そのため、そのエッセンスを楽して知ろうと思い読んでみた。

 著者は、本書全体に渡って、生命倫理学とは異なる「生命学」の立場からあらゆる問題に対してアプローチする必要を訴え、それを実行している。その問題意識の端緒は以下のようなものだ。

私は、生命倫理に興味をもって、いままでやってきました。でも、生命倫理学というものには、ずっと違和感があったのです。なぜかというと、臓器移植や中絶などのむずかしい問題に対して、何か、自分を棚上げにしたままで議論をしているような気がしたからです。倫理の問題について、「これは善い、これは悪い」などと言っている人をたくさん見てくると、「じゃあ、あなたはいままでどういう人生を生きてきたのだ。どんな善いことをして、どんな悪いことをして、それで今どういうふうに生きようとしているのだ」と問いかけたくなってしまうのです。(p186)

 そうして、社会的なルールや法律とは別の次元の、個人個人の多様な「知恵」(≒価値観、選択、自己決定)を交換する場所を「生命学」として構築しようとする。つまり、

善いか悪いかを議論する生命倫理学ではなく。善も悪も含み込んだ人生の知恵を交換して、社会を変革していくような場所としての「生命学」が必要なのです。(p106)

 そして、その実践のために、「他者の到来」や「条件付き/なしの愛」や「パーソン論」といった概念を導入している。どの概念も自己の「いのち(観)」を見つめ直す「生命学」の実践にとっては有益だ。
(※パーソン論:「言葉でコミュニケーションできて、自分が自分であるということが分かっていて、算数くらいはできて、自分のことを自己決定できる人、そういう人がパーソンである」(p108)。逆に言えば、・・・。)
 
 
 ただ、「生命学」の威力が最もよく発揮されていると感じたのは、脳死と中絶を扱った7章の「死者」のいのちとの対話であった。そして、この章が一番おもしろかった。以下では、著者の主張にあまりこだわらず、自分の興味に沿って要約しながら考えを述べていく。

 さて、章題からも分かるとおり、ここでは、科学では一瞬にして否定される「脳死の人」との“対話”が可能だということを実例を紹介しながら論じている。

「脳死の人」が生きているか死んでいるかとは無関係に、「脳死の人」と家族がコミュニケーションできるケースが、じつはあるということを示しています。(pp126-127)

 そして、このような議論が現在の脳死論議には欠けていると指摘する。

現在の脳死の議論は、「脳死は人の死か、イエスかノーか、さあどっちだ」というようなレベルです。もちろん、そういうことも、法律を作るときにはとても大事です。
 けれども、「それがはっきりすれば、脳死の問題は解決される」と言う人がいましたし、今でもいますが、そんなことはないのであって、脳死の問題は非常に奥が深い。(p132)

 このことを、哲学者ジャンケレヴィッチの「死」の分類を用いてさらに分かりやすく説明している。

(ジャンケレヴィッチは)死には一人称の死と、二人称の死と、三人称の死があると言っています。
 一人称というのは「私が死ぬ」こと、二人称は「親しい誰かが死ぬ」こと、三人称は「どこの誰だかわからない人が死ぬ」こと、この三つはまったく違うという話を、彼は『死』(みすず書房)の中でしています。(中略)
 脳死もこれと同じだと思います。「脳死は人の死か」という聞き方が、じつは大雑把すぎるのです。ジャンケレヴィッチが言ったように、自分が脳死になる場合をどう考えるかという問題と、十九年間いろいろと関わってきた息子が脳死になる場合(二人称の人が脳死になる場合)と、昨日まで面識のなかったお医者さんが見る場合(三人称の人が脳死になる場合)と、三つに分けて考えないとだめなのです。(p122)

 これはとても分かりやすく、脳死についての自分の考えの深化及び一般の議論の混乱の解消に非常に役立つと感じた。

 しかし、その後にこの本に紹介されている2つの具体例は、自分の中でののぼせた満足感を一瞬にして打ち壊した。(フィクション小説ならここでお終いにするところだろうが、社会的問題についてのものであるから、長いし、この本の肝であるおもしろい話であるが紹介しよう。)
 
 
 一つは、1997年10月20日の朝日新聞大阪版朝刊の「ひととき」という欄への読者の投稿。

この方(投稿者の女性・渡辺さん)は、「もし自分が脳死になったら、自分の臓器を提供してほしい」と思っていた。そう思っていたところ、この方のお父さんが、病院で昏睡状態になってしまったのです。昏睡状態だから、呼びかけにも何の反応も示さないし、体を動かすこともない。(中略)
 ところが、渡辺さんは、こういう意識のないお父さんを目の前にしたとき、意識のない父の体に触ってその温かさを感じることが、現在唯一の対話であると言うのです。(中略)意識のない、目の前に横たわっている父との間に会話があるというのです。(中略)
 その結果、彼女がどうなったかというと、やっぱり自分が脳死になったときには臓器をあげたいという気持ちは変わらない。しかし、もし自分が脳死状態になったとき、家族が望むなら、自分の温かさを、一日でも一時間でも家族と分かち合う機会を与えることを許そうと思うようになった。(pp124-125)

 ここでは、二人称の死に直面したときと、一人称の死のときとで、脳死・臓器移植についての考えが異なっている。しかし、一人称の死のときは、2通りの選択を許している。脳死の問題は簡単に一筋縄ではないかないことがよく分かる。
 
 
 もう一つの例は、1999年の夏、ドナーカードを持っていた女子高生が交通事故で脳死のような状態になったケース。このケースは中日新聞がかなり詳しく取材しレポートしている。話は、かなり深くて重い。

十七歳の女の子は元気なときに、お父さんとお母さんに、「もし私が脳死になったら、臓器をあげてね」と話していたというのです。(中略)
 このお父さん、お母さんは、自分自身が引き裂かれていくのです。(中略)
 お父さんもお母さんも、一方においては、目の前で温かい血が流れている娘さんが死んでいるとは思えないし、その体にメスを入れて臓器を取り出すなんて、そんなことをとうてい許すわけにはいかないと思っている。と同時に、いちばん愛している娘さんの意思を、親として活かしてやりたいとも思うわけです。(中略)
 お母さんが、この苦しみは地獄の時間だったと言うんです。最終的にどうしたかというと、イエスのサインをしたのです。(中略)
 そのときサインしたのはお父さんです。サインするときに、「いのち」の炎をこの手で消したという自責の念を、一生背負っていくつもりでサインしたと言っています。サインすることはするけれども、それによって、目の前の温かい体は冷たくなってしまうし、生きている心臓を取り出すのだから、「私が殺したんだ」という自責の念を背負い続けていく、という覚悟を持ってサインしたのです。
 ところが、(中略)ここまで親の心を右往左往させておきながら、最終的には(事故の影響で)鼓膜が破れていたから、脳死判定はできませんでした。(pp135-138)

 この例は「自己決定」=“一人称の死の決定”の難しさを教えてくれる。それが自分だけの問題ではないと。
 
 
 これらの話は、脳死の議論が、二人称の死として、よりリアリティをもって考えましょうという並みの話ではないことを物語っている。自分の中での脳死に対する考えも、この2つの例を導入して再考することで揺らいでいる。社会的な脳死の是非も難しいが、そもそも自分について自己決定すること自体も難しい。特に、慎重で優柔不断な自分には。いずれにせよ、安易な自己決定権擁護論への一つの警鐘になる話ではある。
 
 
 とはいえ、自分は脳死・臓器移植にはやはり反対だ。特に重要な理由を一つだけ述べるなら、それは、カントの格言が(哲学上の解釈は置いておいて)適切に表してくれている。つまり「人間を手段として用いてはならない」と。「臓器移植をする“ために”脳死を人の死と認める」という“現在の議論の流れ”は、どんな目的のためであったとしても、人間を手段として用いていて、しかも殺している、と思うのだ。
 
 
 
 さて、こんな興味深い話・見方を与えてくれた本書ではあるが、大きな疑問もある。

 もちろん、著者も生命倫理学の深化・発展のために生命学を唱えているのであって生命倫理学を軽視しているわけではないのだろう。しかし、個人の中の判断・決定と社会のルール化・倫理化とは全く異なるタイプの決定である。例えば、出生前診断で障害をもつ子供だと分かったときに、どう対応するかを、一律に社会的なルールで決めるべきことかどうかは、難しい問題だ。他にも例えば、いくら自分が中絶反対であっても、社会全体に中絶禁止を強制することは、その当人にとって必ずしも必要なことではないし、個人の生命観・倫理観・宗教が人それぞれに異なっていることを考えても、簡単に判断できる問題ではない。

 こう考えると、個人が生命の問題についてどう考えるかよりも、生命の問題について“社会として”どう対応するか、の方がより難しさを孕んでいるとも言えるのだ。もちろん、これらは比べるべきものではないが、著者のように、「生命倫理学ではなく生命学」という主張をする場合には、こんな比較も、「安易に個人の領域に撤退してしまっている」という批判になり得るだろう。そして、確かに、読み進めている最中、個人の判断にとっては有益でも、社会的なルールや倫理を考える際には使えないのではないかという気持ちを持った箇所が少なくなかった。やはり、生命学の意義や成果をどのように生命倫理学に活かしていくかという視点が足りないのではないだろうか。

 志村史夫 『こわくない物理学―物質・宇宙・生命(新潮文庫、2005年)

 副題が示すように、この本は物質から生命から宇宙まで自然科学の基本的事項ではあるが知識なしに直感的に説明しようとしてもできないであろう現象について、幅広く説明されている。したがって、タイトルに入っている物理学に止まらず生物学、地学、化学の分野にまで対象は及んでいる。

 本文中に時折出てくるお決まりの文明・科学批判にはうんざりするが、高校レベルの理科(物理学・生物学・化学・地学)をしっかりと修めていない人には非常に分かりやすい内容になっている。

 具体的には、原子の構造やビッグバンや量子論などが説明されている。その中では筆者の関心に沿った物質や結晶の話や哲学的自然観なども盛り込まれている。

 自然界には素人目にも(だからこそ?)人類にとって重要だが不思議な未だ解明されていない現象が依然として多い。本書でも述べられている、量子論的粒子エネルギーの非連続性や、ビッグバン以前の世界などなど。

 このような人類の限界を直視するなら、確かに筆者が引用しているアインシュタインの言葉は理解できるところである。

「宗教なき科学は跛行的(≒不釣合い)であり、科学なき宗教は盲目である」(p251)

 もちろん、ここで使われている「宗教」とは人知を超える宗教的感覚のことであって「神が世界を創造した」系の宗教のことではない。

 ただ、科学者には人知を超える領域を前に「宗教的だ」と言ってひれ伏すのではなく、科学的態度を持って未知なる領域を何とか解明してほしいと思う。それが科学者に求められた使命であり倫理でもあると思うのだが。

 もちろん、現在において人知の及ばない領域がある現実は受け入れなければならないが。

  小室直樹 『数学を使わない数学の講義(WAC、2005年)
 
 
 老大家、小室直樹の最新刊。1981年に出版された『超常識の方法』を大幅に改訂・改題したもの。

 数学における本質的で基礎的な考えや論理を「存在問題」「集合」「十分・必要条件」「否定(仮説)」「数量化」という5つを中心に論じている。

 数学においては前提である思考法の要点を分かりやすく抽出し、さらにそれを他の領域(特に自然科学とは異なる社会科学)にダイナミックに適用する豪腕には相変わらず畏れ入る。

 そんな本書を読んでいると、使うのに高度な技術を要する武器(武術)を自由自在に使いこなしているような気分にさせてくれる。そして、その感覚は学問の魅力を体感することであり、学問への興味や更なる向上心をそそるものである。

 しかしながら、同じ筆者の他の著書で何度となく使われているネタの使いまわしや、新しい(といってもここ20年くらいの)議論をフォローしていないことや、例として出てくる逸話の(正しさについての)怪しさといった欠陥は相変わらずだ。

 例えば、この主張は正しいのだろうか?

 (日本とは正反対といっていい欧米諸国の政治家は)演説の途中でうまくジョークを混じえるのだが、それはホッと一息入れるということではなく、私は今必死になって演説していますが、これだって仮説にすぎないんですよ、ということを強調するためなのである。(pp236-237)

 本書で筆者が主張している方法に則り、この主張を「特称命題」の提示によって否定してみよう。

 「日本の政治家である小泉純一郎はジョークを多用している。」以上、証明終わり。

 また、「日本人は」とか「中国は」とか「ユダヤ教は」などというように過度に単純化した主語で語る内容も怪しい。(基本的に、国や文化の間の差異を強調しすぎで、一致について軽視しすぎている。)

 いくつか挙げると、「日本には科学的精神がない」(p230)、「ドイツ人は論理好きの国民」(p191)、「欧米諸国においては、ここからここまでは内面の問題、ここから先は外面の問題というふうに、内面と外面が、理念的にはビシッと二分されている」(p180)などなど、枚挙にいとまがない。

 これらについての反証(特称命題)はいちいち挙げるまでもないだろう。

 本書の中には、この種のトンデモ系の逸話や過度に単純化しすぎた主張があまりに多すぎてさすがに辟易する。

 もちろん、この本の内容からして、上で挙げたようなことを筆者が確信犯的に書いていることは十分に考えられる。

 もしそうであるなら、筆者の確信犯的に誤りのある主張に読者は注意を払うべきだろう。

 けれど、何事も「行うは難し」であって、本書の内容を身に付けて実際に適用・応用することは、この本に対してであっても難しいようだ。

 何せ、数多い小室直樹シンパで彼の主張を身に付けて、それを彼自身の本に対して実践している人は多いようには見受けられないのだから。

 つまり、小室直樹の主張を学び、かつ、それに忠実であると思われる人たち(小室直樹シンパ)でさえも、彼の主張を学んでいる最中(小室直樹本を読書中)であっても彼の主張を適用・使用していないということ。

 ただそれでも、本書の最重要ポイントである科学的方法や数学的思考(というより論理的思考と言った方が適切?)に関する内容は正しく、とても重要で、習得が必須なものであることに変わりはない。

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