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 森岡正博 『生命学をひらく(トランスビュー、2005年)
 
 
 『無痛文明論』の著者による講演集。扱われているテーマは、「無痛文明」から愛、脳死、生命学まで、著者の守備範囲がほぼカバーされている(と思う)。著者の『無痛文明論』は興味があったのだけれどあまりの大部のため、手を出せずにいた。そのため、そのエッセンスを楽して知ろうと思い読んでみた。

 著者は、本書全体に渡って、生命倫理学とは異なる「生命学」の立場からあらゆる問題に対してアプローチする必要を訴え、それを実行している。その問題意識の端緒は以下のようなものだ。

私は、生命倫理に興味をもって、いままでやってきました。でも、生命倫理学というものには、ずっと違和感があったのです。なぜかというと、臓器移植や中絶などのむずかしい問題に対して、何か、自分を棚上げにしたままで議論をしているような気がしたからです。倫理の問題について、「これは善い、これは悪い」などと言っている人をたくさん見てくると、「じゃあ、あなたはいままでどういう人生を生きてきたのだ。どんな善いことをして、どんな悪いことをして、それで今どういうふうに生きようとしているのだ」と問いかけたくなってしまうのです。(p186)

 そうして、社会的なルールや法律とは別の次元の、個人個人の多様な「知恵」(≒価値観、選択、自己決定)を交換する場所を「生命学」として構築しようとする。つまり、

善いか悪いかを議論する生命倫理学ではなく。善も悪も含み込んだ人生の知恵を交換して、社会を変革していくような場所としての「生命学」が必要なのです。(p106)

 そして、その実践のために、「他者の到来」や「条件付き/なしの愛」や「パーソン論」といった概念を導入している。どの概念も自己の「いのち(観)」を見つめ直す「生命学」の実践にとっては有益だ。
(※パーソン論:「言葉でコミュニケーションできて、自分が自分であるということが分かっていて、算数くらいはできて、自分のことを自己決定できる人、そういう人がパーソンである」(p108)。逆に言えば、・・・。)
 
 
 ただ、「生命学」の威力が最もよく発揮されていると感じたのは、脳死と中絶を扱った7章の「死者」のいのちとの対話であった。そして、この章が一番おもしろかった。以下では、著者の主張にあまりこだわらず、自分の興味に沿って要約しながら考えを述べていく。

 さて、章題からも分かるとおり、ここでは、科学では一瞬にして否定される「脳死の人」との“対話”が可能だということを実例を紹介しながら論じている。

「脳死の人」が生きているか死んでいるかとは無関係に、「脳死の人」と家族がコミュニケーションできるケースが、じつはあるということを示しています。(pp126-127)

 そして、このような議論が現在の脳死論議には欠けていると指摘する。

現在の脳死の議論は、「脳死は人の死か、イエスかノーか、さあどっちだ」というようなレベルです。もちろん、そういうことも、法律を作るときにはとても大事です。
 けれども、「それがはっきりすれば、脳死の問題は解決される」と言う人がいましたし、今でもいますが、そんなことはないのであって、脳死の問題は非常に奥が深い。(p132)

 このことを、哲学者ジャンケレヴィッチの「死」の分類を用いてさらに分かりやすく説明している。

(ジャンケレヴィッチは)死には一人称の死と、二人称の死と、三人称の死があると言っています。
 一人称というのは「私が死ぬ」こと、二人称は「親しい誰かが死ぬ」こと、三人称は「どこの誰だかわからない人が死ぬ」こと、この三つはまったく違うという話を、彼は『死』(みすず書房)の中でしています。(中略)
 脳死もこれと同じだと思います。「脳死は人の死か」という聞き方が、じつは大雑把すぎるのです。ジャンケレヴィッチが言ったように、自分が脳死になる場合をどう考えるかという問題と、十九年間いろいろと関わってきた息子が脳死になる場合(二人称の人が脳死になる場合)と、昨日まで面識のなかったお医者さんが見る場合(三人称の人が脳死になる場合)と、三つに分けて考えないとだめなのです。(p122)

 これはとても分かりやすく、脳死についての自分の考えの深化及び一般の議論の混乱の解消に非常に役立つと感じた。

 しかし、その後にこの本に紹介されている2つの具体例は、自分の中でののぼせた満足感を一瞬にして打ち壊した。(フィクション小説ならここでお終いにするところだろうが、社会的問題についてのものであるから、長いし、この本の肝であるおもしろい話であるが紹介しよう。)
 
 
 一つは、1997年10月20日の朝日新聞大阪版朝刊の「ひととき」という欄への読者の投稿。

この方(投稿者の女性・渡辺さん)は、「もし自分が脳死になったら、自分の臓器を提供してほしい」と思っていた。そう思っていたところ、この方のお父さんが、病院で昏睡状態になってしまったのです。昏睡状態だから、呼びかけにも何の反応も示さないし、体を動かすこともない。(中略)
 ところが、渡辺さんは、こういう意識のないお父さんを目の前にしたとき、意識のない父の体に触ってその温かさを感じることが、現在唯一の対話であると言うのです。(中略)意識のない、目の前に横たわっている父との間に会話があるというのです。(中略)
 その結果、彼女がどうなったかというと、やっぱり自分が脳死になったときには臓器をあげたいという気持ちは変わらない。しかし、もし自分が脳死状態になったとき、家族が望むなら、自分の温かさを、一日でも一時間でも家族と分かち合う機会を与えることを許そうと思うようになった。(pp124-125)

 ここでは、二人称の死に直面したときと、一人称の死のときとで、脳死・臓器移植についての考えが異なっている。しかし、一人称の死のときは、2通りの選択を許している。脳死の問題は簡単に一筋縄ではないかないことがよく分かる。
 
 
 もう一つの例は、1999年の夏、ドナーカードを持っていた女子高生が交通事故で脳死のような状態になったケース。このケースは中日新聞がかなり詳しく取材しレポートしている。話は、かなり深くて重い。

十七歳の女の子は元気なときに、お父さんとお母さんに、「もし私が脳死になったら、臓器をあげてね」と話していたというのです。(中略)
 このお父さん、お母さんは、自分自身が引き裂かれていくのです。(中略)
 お父さんもお母さんも、一方においては、目の前で温かい血が流れている娘さんが死んでいるとは思えないし、その体にメスを入れて臓器を取り出すなんて、そんなことをとうてい許すわけにはいかないと思っている。と同時に、いちばん愛している娘さんの意思を、親として活かしてやりたいとも思うわけです。(中略)
 お母さんが、この苦しみは地獄の時間だったと言うんです。最終的にどうしたかというと、イエスのサインをしたのです。(中略)
 そのときサインしたのはお父さんです。サインするときに、「いのち」の炎をこの手で消したという自責の念を、一生背負っていくつもりでサインしたと言っています。サインすることはするけれども、それによって、目の前の温かい体は冷たくなってしまうし、生きている心臓を取り出すのだから、「私が殺したんだ」という自責の念を背負い続けていく、という覚悟を持ってサインしたのです。
 ところが、(中略)ここまで親の心を右往左往させておきながら、最終的には(事故の影響で)鼓膜が破れていたから、脳死判定はできませんでした。(pp135-138)

 この例は「自己決定」=“一人称の死の決定”の難しさを教えてくれる。それが自分だけの問題ではないと。
 
 
 これらの話は、脳死の議論が、二人称の死として、よりリアリティをもって考えましょうという並みの話ではないことを物語っている。自分の中での脳死に対する考えも、この2つの例を導入して再考することで揺らいでいる。社会的な脳死の是非も難しいが、そもそも自分について自己決定すること自体も難しい。特に、慎重で優柔不断な自分には。いずれにせよ、安易な自己決定権擁護論への一つの警鐘になる話ではある。
 
 
 とはいえ、自分は脳死・臓器移植にはやはり反対だ。特に重要な理由を一つだけ述べるなら、それは、カントの格言が(哲学上の解釈は置いておいて)適切に表してくれている。つまり「人間を手段として用いてはならない」と。「臓器移植をする“ために”脳死を人の死と認める」という“現在の議論の流れ”は、どんな目的のためであったとしても、人間を手段として用いていて、しかも殺している、と思うのだ。
 
 
 
 さて、こんな興味深い話・見方を与えてくれた本書ではあるが、大きな疑問もある。

 もちろん、著者も生命倫理学の深化・発展のために生命学を唱えているのであって生命倫理学を軽視しているわけではないのだろう。しかし、個人の中の判断・決定と社会のルール化・倫理化とは全く異なるタイプの決定である。例えば、出生前診断で障害をもつ子供だと分かったときに、どう対応するかを、一律に社会的なルールで決めるべきことかどうかは、難しい問題だ。他にも例えば、いくら自分が中絶反対であっても、社会全体に中絶禁止を強制することは、その当人にとって必ずしも必要なことではないし、個人の生命観・倫理観・宗教が人それぞれに異なっていることを考えても、簡単に判断できる問題ではない。

 こう考えると、個人が生命の問題についてどう考えるかよりも、生命の問題について“社会として”どう対応するか、の方がより難しさを孕んでいるとも言えるのだ。もちろん、これらは比べるべきものではないが、著者のように、「生命倫理学ではなく生命学」という主張をする場合には、こんな比較も、「安易に個人の領域に撤退してしまっている」という批判になり得るだろう。そして、確かに、読み進めている最中、個人の判断にとっては有益でも、社会的なルールや倫理を考える際には使えないのではないかという気持ちを持った箇所が少なくなかった。やはり、生命学の意義や成果をどのように生命倫理学に活かしていくかという視点が足りないのではないだろうか。

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