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野間宏 『真空地帯(上)・(下)』 (岩波文庫、1956年)
戦後第一世代の代表的作家による代表作の一つ。先月、復刊された。第二次大戦中の日本軍兵営での様子が著者自身の軍隊体験も踏まえて描かれる。
そこに存在するのは、自己中心主義、相互無理解、相互不信。自己中心主義、相互無理解、相互不信。自己中心主義、相互無理解、相互不信・・・。そして、この暗闇は同期の兵隊、家族、恋人にまで及んでおり、救いはどこにも見当たらない。
そんな、肯定できるものは何もない全否定されるべき軍隊生活の現実を、著者は「真空地帯」と呼ぶ。軍隊内務書の綱領の文句を置き換えながら、それは以下のように述べられる。
「兵営ハ条文ト柵ニトリマカレタ一丁四方ノ空間ニシテ、強力ナ圧力ニヨリツクラレタ抽象的社会デアル。人間ハコノナカニアッテ人間ノ要素ヲ取リ去ラレテ兵隊ニナル
たしかに兵営には空気がないのだ、それは強力な力によってとりさられている、いやそれは真空管というよりも、むしろ真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会とをうばいとられて、ついには兵隊になる。」(下巻 p14)
そんな「真空地帯」での人間“兵隊”模様を淡々と、しかし、現実主義的な精密さをもって描いているのがこの作品である。
したがって、戦後世代の人間が戦争における現実の一面を具体的イメージを持って理解するのに適している。特に、戦場とは異なる場での戦争の一面を明らかにしている点は稀有である。
それにしても、今回の『真空地帯』もそうだが、この野間宏という作家の作品はどれも、読んでも、おもしろいとか、上手いとか、見事とか、そういう感想を全く持てないのだ。
しかし、にもかかわらず、野間宏は自分の中で妙に気になる作家なのである。
それは『暗い絵/顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫)で衝撃を受けて以来のことだ。
その衝撃・気になる要因の核心とは、ひとえに、この作家の小説からしみ出てくる「戦争体験が落とす陰の“深さ”」によるものだ。野間作品を読むと、戦争の傷というものは、「ここまで深いのか――」と、ただただ驚嘆するばかりなのである。
そんなわけで、野間宏の小説を読むときはいつも、「著者(や主人公)はどこかに救いを見出すことができているか」(逆に言えば「戦争による心の闇はどこまで深いか」)ということに注意を払っている。
ちなみに、今回取り上げた『真空地帯』では、最後の最後にほんのささやかな「救い」が出かける。しかし、それが救いになっているかは話しの結果から見ても怪しいと言えるし、やはりそもそも、あまりにささやかすぎるのだ。
そんな著者は、後年(でもない?)、親鸞・「歎異抄」に惹かれている。実際、親鸞・歎異抄関係の本を書いてもいる。「そこに救いを見出せたのか」、そうであるなら、「いかにしてか」、というのは興味があるところだ。(実は、そんな関心から岩波新書の『親鸞』を読み始めたことがあったのだが、途中で挫折し、そのままになっている・・・。)
しかし、とにもかくにも、この小説は、日本が行った戦争というものの直視しなければいけない一面を伝え遺してくれる優れた作品ではないかと思う。