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 戸田山和久 『科学哲学の冒険』 (NHKブックス、2005年)


 科学哲学というのは科学という営みを哲学的に考える学問分野だ。ここでいう科学とは大抵の場合、物理学や生物学などの理系の学問(自然科学)を念頭に置いている。この科学哲学というやや傍流に位置する学問では、科学的実在論(人間の認識活動とは独立に世界の存在と秩序があり、人間は科学によってその秩序について知り得るとする考え)と社会構成主義(世界の秩序は科学者集団の社会的活動によって世界の側に押し付けられるものだとする考え)という二極を両端にしてその間に様々な説が存在している。筆者の用語に従えば、反実在論、対象実在論、構成的経験主義など。しかも、それぞれの主張の間の違いを説明するためにたくさんの用語が導入される。知識テーゼと独立性テーゼ、操作主義と道具主義、意味論など。

 このように盛りだくさんな本書の内容全てを一回で理解し、習得するのは困難である。しかし、本書は帰納と演繹から始められ、その後の展開も順を追って一歩ずつ説明されているため科学哲学の全体像を把握するのにはかなり役立つものとなっている。


 先にも書いたように科学哲学の対象は自然科学だが、社会科学においても類似の議論がなされることが当然ある。自然科学と比べれば、曲りなりに“科学”を主張する社会科学の方が断然問題は大きいし、より科学的実在論からは離れて社会構成主義の方へ近づくことは避けられない。それでも“科学的”方法論を採用する傾向に社会科学があるのも事実である。そして、私もこの傾向は望ましいことだと考える。こう考える自分を正当化するために、以前から科学哲学的議論には接してきた。というよりは、学問を始めるに当たってこの正当化から始めた。さらに言い換えれば、この正当化をある程度成し遂げてから学問を始めたとさえ言える。


 そんな訳で自分にとっての学問の基礎であり、常に頭の片隅に留めてある科学哲学的な観点であるが、当初は科学哲学には向かわなかった。社会科学ということでやはり最初は、ウェーバー、マンハイムあたりだった。その後に、トーマス・クーン、村上陽一郎などに向かい、科学哲学(というよりサイエンス・スタディーズと言った方が適切か)に触れた。


 しかし、極端な主張が多いのが問題であった。その点では本書は幅広く主張をカバーしていて、思考に役立つ道具が豊富に扱われている。社会科学(方法論)における“科学性”の問題はあまりに難しくてすぐに答えは出そうにない。本書を土台に末永く考えていくことにしよう。


 最後に、社会科学の側から本書を読んでの感想を一つ。それは、本書を読んで感じた科学哲学が到達した地点と、現時点での社会科学が依って立っている方法論は意外に近いということだ。社会科学では科学哲学的な基礎付けは活発ではなく、意識的に科学哲学の成果を吸収したとは言いがたいにもかかわらずである。

 具体的には、特に、意味論的な考えを科学的実在論に適用するというところであり、そこから引き出される「科学の目的」についての捉え方は社会科学でも近似性がある。つまり、「科学の目的とは、実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ることである」(p254)と。

 これはなかなか嬉しい事実である。もちろん密度の違いはあるけど。

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 キム・ステルレルニー 『ドーキンスvs.グールド』 (狩野秀之訳、ちくま学芸文庫、2004年)

 本書は、生物の進化に関する2人の著名な生物学者の論争をまとめたものである。そこで扱われるドーキンスとグールドの対立は、本書の帯に書かれているように、「利己的な遺伝子か、断続平衡説か?」「進化は必然か、偶然か?」というものである。生物学素人の文系人間なりに本書を要約すると、ドーキンスは生物の進化を、遺伝子が自然淘汰によって徐々に環境に適応しながら、いわば必然的に前進してきたものだと考える。他方、グールドは生物が徐々に進化していることを認めつつも、偶然的な変異による急速な変形が重要だったと主張する。それぞれの主張に際しては、自己複製子やヴィークルや、大量絶滅といったキーワードを用いて説明がなされる。ただし、本文中や解説等で何度も戒められているように、両者の主張を単純化しすぎて、ドーキンスは遺伝子による決定論で、グールドは一瞬で生物が進化した、という様な解釈に陥ることは避けなければならない。

 本書を読み進めていて感じたのは、筆者と同様、両者の主張は相容れないものではない、ということである。この手の大論争では普通、対立する両者の中間をとって混合や統合するのにも苦労するものだ。この点は、一つの事象に対して複数の解釈が元来可能である社会科学と、事実は唯一つである自然科学との差異が想起されるべきだ。これから単純に考えると、事実が一つである自然科学で二つの対立する解釈が存在しているのは不自然なように思える。したがって、まさに事実が一つだからこそ、極端な解釈は避けられるべきなのだ。つまり、ここでは「遺伝子が全ての進化を説明する」というようなものを排して両者を統合すべきなのだ。解釈が複数可能な社会科学では極端な解釈も事象のある一面を照らし出すという理由から受け入れられるのとは異なる。
 さて、社会科学が出てきたところで、本書の議論を社会科学の文脈に置き直して考えてみる。そうすると、ドーキンスの議論は経済学的な合理的アクターを想定する議論と親和的だというのが分かる。他方、偶然性を重視するグールドの議論は、アクターの不合理な規範・慣習・信頼・利他性などを重視する議論と近い。以上のように、本書で扱われている生物学における大論争は社会科学で行われる合理的アクターや合理性仮定をめぐる論争と近似している。そして、社会科学ではこの種の議論は「科学」や「学問」をどう捉えるかという問題に収斂されてくる。したがって、驚くことではないが、本書の最後でもドーキンス・グールド両論陣の「科学」観が宗教問題とも関連付けられて紹介されている。ただ、本文中に簡単に紹介されているドーキンスの科学観は社会科学者には絶対に見られないほど絶対的でラディカルなもののようだった。これはおもしろそうだ。是非ともドーキンスの『利己的な遺伝子』、『悪魔に仕える牧師』は読んでみたい。

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