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キム・ステルレルニー 『ドーキンスvs.グールド』 (狩野秀之訳、ちくま学芸文庫、2004年)
本書は、生物の進化に関する2人の著名な生物学者の論争をまとめたものである。そこで扱われるドーキンスとグールドの対立は、本書の帯に書かれているように、「利己的な遺伝子か、断続平衡説か?」「進化は必然か、偶然か?」というものである。生物学素人の文系人間なりに本書を要約すると、ドーキンスは生物の進化を、遺伝子が自然淘汰によって徐々に環境に適応しながら、いわば必然的に前進してきたものだと考える。他方、グールドは生物が徐々に進化していることを認めつつも、偶然的な変異による急速な変形が重要だったと主張する。それぞれの主張に際しては、自己複製子やヴィークルや、大量絶滅といったキーワードを用いて説明がなされる。ただし、本文中や解説等で何度も戒められているように、両者の主張を単純化しすぎて、ドーキンスは遺伝子による決定論で、グールドは一瞬で生物が進化した、という様な解釈に陥ることは避けなければならない。
本書を読み進めていて感じたのは、筆者と同様、両者の主張は相容れないものではない、ということである。この手の大論争では普通、対立する両者の中間をとって混合や統合するのにも苦労するものだ。この点は、一つの事象に対して複数の解釈が元来可能である社会科学と、事実は唯一つである自然科学との差異が想起されるべきだ。これから単純に考えると、事実が一つである自然科学で二つの対立する解釈が存在しているのは不自然なように思える。したがって、まさに事実が一つだからこそ、極端な解釈は避けられるべきなのだ。つまり、ここでは「遺伝子が全ての進化を説明する」というようなものを排して両者を統合すべきなのだ。解釈が複数可能な社会科学では極端な解釈も事象のある一面を照らし出すという理由から受け入れられるのとは異なる。
さて、社会科学が出てきたところで、本書の議論を社会科学の文脈に置き直して考えてみる。そうすると、ドーキンスの議論は経済学的な合理的アクターを想定する議論と親和的だというのが分かる。他方、偶然性を重視するグールドの議論は、アクターの不合理な規範・慣習・信頼・利他性などを重視する議論と近い。以上のように、本書で扱われている生物学における大論争は社会科学で行われる合理的アクターや合理性仮定をめぐる論争と近似している。そして、社会科学ではこの種の議論は「科学」や「学問」をどう捉えるかという問題に収斂されてくる。したがって、驚くことではないが、本書の最後でもドーキンス・グールド両論陣の「科学」観が宗教問題とも関連付けられて紹介されている。ただ、本文中に簡単に紹介されているドーキンスの科学観は社会科学者には絶対に見られないほど絶対的でラディカルなもののようだった。これはおもしろそうだ。是非ともドーキンスの『利己的な遺伝子』、『悪魔に仕える牧師』は読んでみたい。