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by ST25
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 デイヴィッド・プロッツ 『ノーベル賞受賞者の精子バンク(酒井泰介訳/ハヤカワ文庫NF、2007年)
 
 
 ノーベル賞受賞者精子バンクの歴史やそこに関わりのある人たち(創設者、ドナー、レシピエント(母)、その子供など)を取材して、その真実を描いたノンフィクション。

 文庫版の副題「天才の遺伝子は天才を生んだか」、あるいは、帯の宣伝文句「現代の優生学から誕生した200人以上の子供たちはいま?」という内容を期待して読むと落胆する。その話は全体の1割程度しか出てこない。( 編集者 and/or 早川書房はこの本の内容を理解できなかったのだろうか? and/or そんなにお金がほしいのだろうか? 2007年を象徴する一字は“偽”らしいけど・・・。)

 とはいえ、「 そういうのを使おうが/使うまいがすべて個人の自由だ 」と考える自由至上主義的な人以外にとっては、考えさせられる内容が多い。
 
 
 例えば、ノーベル賞受賞者のものであれそうでないものであれ、精子の提供は、子供を持ちたいけど持てない夫婦や女性のための、(例えて言えば、輸血みたいな)純粋な医療的措置だと想像していたが、そうなってはいない。そこには、“良いドナー”を求める以外にも、人間的な感情が入り込んでくる。

 母親は(いくつかの情報以外)匿名であるドナーのことを知りたく/会いたくなり、子供は精子を提供しただけの“父親”のことを知りたく/会いたくなり、精子を提供しただけのドナーは“子供”のことを知りたく/会いたくなる。( そして、この本では“夫婦”や“親子”が実際に会っている様子を伝えている。)

 父親とは誰か? 自分は何者なのか?(どこからきたのか?)

 そんな問いの答えが、意外にも「相対的であるかもしれない」と思わせる。
 
 究極的には、ここで出てくる問題は、主観的な見方と客観的(科学的)な見方とが分裂していること、に端を発しているように思う。

 “主観的に父親だと思ってた人”と、“客観的(科学的・生物学的)に父親である人”。

 どっちが“父親”だろうか? どっちも“父親”だろうか?

 あるいは、自然的感情であると思われている「親への愛情」は、血のつながりによって生まれるものなのだろうか? 主観的に親だと思っている人に対して生まれるものなのだろうか?

 「主観が重要」か、「客観(科学的事実)が重要」か?

 これは、(この本ではほとんど明らかにされていない、)「人間はどこまで遺伝子に規定されるのか?」(環境か遺伝子か?)、という永遠の論争テーマにもつながってくる。

 人間が遺伝子にある程度規定されているのは間違いない。でも、何がどこまで規定されるのか? 遺伝子は愛情の対象にも影響を与えるのか?

 ・・・などなど、疑問が尽きない。

 と、なんともまとまりのない感想ではあるけど、そんな難しい問題を考えるための、現実を知る1つの参考資料として、この本は有意義である。
 
 
 ところで、アメリカの精子バンクの顧客は、まず、不妊である夫婦、それから、未婚の女性や同性愛者の女性である。

 そして、この状況の想定される帰結として、(優秀な女性の)“卵子バンク”なるものまですでに登場してきているとのことである。

 朗報! これに代理出産をあわせれば、独身男性でも血のつながりのある自分の子供が持てる!!!

 男女、未婚既婚にかかわらず、人たるもの、すべからく子供を持つ権利を有しているのだ!!!

 あっ、でも、精子/卵子のドナーのプロフィールに偽りとか間違いがあったときにはクーリング・オフを認めてね♪
 
 
 ・・・カオス(特に自分の頭の中)。

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 越後島研一 『ル・コルビュジエを見る(中公新書、2007年)
 
 
 「20世紀最高の建築家」とも言われるル・コルビュジエの創造の足跡やその魅力や日本への影響を紹介している。

 ちょっと前に読んでた本(山崎正和『装飾とデザイン』)にル・コルビュジエの代表作「サヴォワ邸」がでてきて興味を持ってたところに、タイミングよくこの本が出たから読んでみた。
 
 
 代表作「サヴォワ邸」は、ガウディの「サグラダファミリア」とは対照的な、装飾のない“白い箱”のようなシンプルな住宅だ。

 ぱっと見、研究所とか実験棟とか(なんとなくサンシャイン60とかクラゲとか)を思い起こさせる。

 無機質だし、街中に溢れてる平凡な建物と似てて、いまいち魅力が分からない。

 この本を読んでも、時代の流れの中での意義は分かったんだけど、建物自体の魅力はよく分からないままだった。

 著者が一生懸命言葉で伝えようとしているのは分かるんだけど、建物の特徴が分かるだけで、どうしてもそれが魅力にまではつながらない。

 「白い箱」的な建物を見慣れすぎたからだろうか。うーむ。シンプル・ビューティは好きな方なんだけど・・・。

 ル・コルビュジエ生誕120年ということで、「ル・コルビュジエ展」をやってるから(9月24日まで)、観に行ってみようかな。リアルに感じればまた違うかもしれない。
 
 
 ところで、日本人は持ち家志向が強くて実際に自分で家を建てる人も多いんだから、建築学って、もっと馴染み深い学問であってもいいと思うんだけど、意外なほどにマイナーだ。

 テレビCMを見て初めてガウディを知る、都知事選に出て初めて黒川紀章の作品を知る、そういうレベルの人が多い。

 自分も同じようなもんだ。( かつては週末に入ってくるモデルハウスとかの大量の折り込み広告を片っ端から見る少年だったんだけど。)

 建築についての玄人的な視点を持った国民がもっと増えれば、雑多な街並みも、景観訴訟も、眠るだけの家も、いろいろ変わるかもしれない。

 でも、建築学に触れる機会というのはなかなかない。ちょっと興味を持ってもとっかかりがなかったりする。小中高はおろか、大学(文系)の教養科目にもないし。

 そんなわけで、文系の学ぶ意欲のある人たちのスタンダード、新書には頑張ってほしいなと思う。

 サイモン・シン 『暗号解読(上)(青木薫訳/新潮文庫、2007年)
 
 
 超おもしろい本『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)の著者が、古代ギリシャ以来の暗号(解読)の歴史をそこに伴っていた物語とともに活き活きと描き出している本の文庫版上巻。

 上巻では、初歩的な暗号の構造と、初期の素朴な暗号から一段ずつ複雑になっていき、第二次大戦頃の機械化されてその複雑さを一挙に増した暗号までの歴史が語られている。

 複雑で難しい暗号の仕組みを分かりやすく説明しながら、暗号にまつわる引き込まれるようなエピソードが入れられていて、相変わらず楽しい科学の読み物になっている。

 ただ、時代とともに複雑になっていく暗号の解読法の発見のされ方が、色々なところに存在している“パターンの抽出”ということで、毎回似通っているように思えて、もうお腹いっぱい、という感じがする。最新の暗号はちょっと気になるところだけど、まあ、「下巻はいいや」という気持ち。

 同じ著者なら、それよりは、古本屋で購入済みの『ビッグバン宇宙論(上・下)』(新潮社)を文庫化される前に読み終えておきたい(けど・・・)。

 山形浩生 『新教養としてのパソコン入門(アスキー新書、2007年)
 
 
 パソコンを自分である程度使いこなせる人と、簡単な機能しか使えなくてトラブルでも発生しようものなら完全にお手上げな人および全くのパソコン素人との間には、“感覚”や“パソコンというもののイメージ”において、お互い異世界に住んでいるかと思うほど隔絶の感がある。

 この隔たりを埋めようと、コンピュータ(=パソコン)が分からない人に“分かってる人”的なコンピュータのメカニズムの理解を与えようと書かれたのがこの本。

 説明に際しては、スタンレー・キューブリックの映画『2001年:宇宙の旅』とかスタニスワフ・レムの小説「GOLEM 14」(『虚数』国書刊行会・1998年、所収)とかいった(著者お得意の)SFを思い起こさせる、「コンピュータに気持ちがある」という想定で説明がなされている。

 この現状認識とその試みの方向性自体は素晴らしいけど、いかんせん、それが成功しているようには思えない。

 全体的に、説明が浅かったり無理な例え話で済まされていたりで、おそらく、“パソコン音痴”の人がこの本を読んでも、あまり理解できなくて「よく分からない」ままだと思われる。

 それに、パソコンが分からない人というのは女性と年配の男性に多いと思われるから、下ネタや罵倒が満載(?)の“山形節”はこの手の本には適してないと思う。
 
 
 ある程度コンピュータのことを分かっている方に入る(と自負している)自分には、過去におけるメーカー間の競争とその名残りの話とか昔のユーザーの苦労話とかの歴史のところは少しは楽しめた。

 それから何より、プロトコルの重要性の話のところで持ち出されているアヘン戦争に関する逸話(p142)に爆笑した。 (※出てくるのは「著者注」でなんだけど、この部分は著者のHPに掲載されている元の連載の全文には載ってない。)

 これで満足。

 ボビー・ヘンダーソン 『反★進化論講座(片岡夏実訳/築地書館、2006年)
 
 
 ブッシュ大統領などアメリカのキリスト教保守派によって強く主張されている生物の複雑さは進化論では説明できず、したがって、『なんらかの知的存在』(※神とは明言しない)がデザインしたのだとする説(訳者まえがき)であるインテリジェント・デザイン説(ID)のパロディ。 (IDについて詳しくは「インテリジェント・デザイン―Wikipedia」参照)

 IDの主張をそのまま援用して「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(Flying Spaghetti Monsterism)」を展開している。要は、「知的存在」として「空飛ぶスパゲッティ・モンスター」を置いている。IDが教育の場に持ち込まれようとしているのに対抗してこちらも教えられるべきだと陳情したりもしている。『利己的な遺伝子』のドーキンスもこの教団を支持している。 (詳しくは「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教―Wikipedia」)
 
 
 相手の主張をそのまま受け入れることでそのバカらしさを暴露する、おもしろい試みだと思う。

 ただ、日本ではIDの脅威はないから、実際的な効用より「どれだけ笑えるか」に期待して読んだのだけど、その点では正直いまいち。

 なんて気楽に思っていたら、アヤパンやナカミー、それから本田朋子も読んでいるだろう産経新聞がIDを肯定してるんだって!(前掲のIDに関するWikipedia参照)

 『産経新聞』を読まないで下さい。
 
 
 ちなみに、今の日本でホットなトンデモ科学といえば「水からの伝言」。

 「きれいな言葉」をかけ続けた水の結晶は「きれいな形」になって、「きたない言葉」をかけ続けた水の結晶は「きたない形」になる、っていうやつ。

 一部、学校現場で教材として使われているのが明らかになったため、良識人からの批判言説が盛んになった。(科学者による応答として「「水からの伝言」を信じないで下さい」参照)
 
 
 
 こんなトンデモないことを教えるくらいなら、詰め込み教育の方が何倍もましだ。

 というか、教育論議の前提として、とりあえず教えるべき内容についてコンセンサスを得ることが重要みたいだ。

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