by ST25
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道尾秀介 『向日葵の咲かない夏』 (新潮文庫、2009年)
その点、この小説はおもしろい。
普通のミステリーかと思いきや、いつの間にか現実から離れた別世界へと導かれている。 話が別世界に行っても、その書き方は正常な世界を描いているかのようなとても平然とした書かれ方がされているところも上手い。
首を吊って死んでいたクラスメイトが昆虫になってしまうことなんてほんの小さな仕掛けに過ぎない。
そして、物語的な仕掛けはただエンターテインメントのためだけのものではない。 そこには人間の精神の特質を表現するという意図が込められている。 アマゾンのレビューでは「気持ち悪い作品」といった印象論が理由づけもなく語られている。 人間は自分の理解できないものに遭遇すると、それを自分流の物語や解釈の中に無理やり押し込んでしまう弱さを持っている。 同時多発テロの陰謀論なんかもその種の現象だろうと思われる。
人間が自分の思考の中でしか生きられない以上、あらゆることを主観的に自分なりに判断や解釈するしかないところはある。 しかし、様々な意見や作品を経験することで相対化したり、根拠を求めるロジカルな思考を心がけたりすることで多少なりともその短所を和らげることができるだろう。
独善的な、自分作の物語や自分流の解釈なんて火をつけて燃やしてしまえばいいのだ。
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重松清 『星のかけら』 (新潮文庫、2013年)
「去る者は日々に疎し」の言葉のとおり、いなくなってしまった人は、最初は強く心に刻まれて事あるごとに思い出されるものだが、時が経つにつれてその存在感は希薄になってくる。 それは避けがたいことであるし、「忘却」こそ人間に備わっている重要な機能だと唱える論者までいる。 あらゆる強烈な感情とともに生きることは到底不可能だからだ。
とはいえ、ふとした瞬間に気付くその「忘却」が寂しかったりするのも事実だ。 この小説では、その寂しい「忘却」を、「忘却」される側の者の登場によって拭い去ってくれる。 天へと昇りし者もまた「忘却」は寂しいのかもしれない。
交通事故により小学生で命を落とした文(フミ)の登場により、地上において不甲斐なく生きることしかできていない少年たちは変わり始める。
であるのだが、この小説のおもしろいところは、不甲斐ない者を大きく前進させてくれる他界した文(フミ)が登場するためには、生ける者が(ほんのちょっとであっても)前へと進む行動を起こさないといけないところだ。 それはまるで、「どうせ忘れることになるのだから自分の力でしっかり生きて行って」という天から見守るものによる温かくも厳しいメッセージであるかのようだ。
確かに、仲良く私立中学に通うユウキとヤノに、「星のかけら」が登場する隙はないだろう。 奇妙なことだが、この小説のメッセージは、タイトルにもなっている「星のかけら」は必要ない(必要とするべきではない)ということであるかのように思える。
村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』 (文春文庫、2010年)
どのようにランナーとしての日々の鍛練を行っているのかとか、走ることが小説家としての自分にどのような影響を与えているのかとか、フルマラソン中どのような気持ちなのかとかいった、「走る」ということから外れることなく、そのことだけを中心に色々なことを書いている。 その中で、なぜ小説を書くようになったかのエピソードも出てくる。
村上春樹らしく、辛さとかストイックな自分とかをアピールするという意識が微塵もなく、気持ちよく読める。
そんなわけで、村上春樹ないしは走ることのどちらかに興味があればスムーズに読めるエッセイ。
青柳碧人 『浜村渚の計算ノート』 (講談社文庫、2011年)
「心を伸ばす教育」のため、芸術科目や道徳が重んじられ、数学などの理系科目がほとんど教えられなくなった日本。 そんな状況に不満をもった数学者が連続殺人を起こしながら数学の地位向上を図っていく。 それに対抗して、一人の数学の天才である女子中学生が警察に協力しながら事件を解決していく。
と、何とも気持ちいいくらいに破天荒な設定の、気持ちいいくらい軽く読み進められるミステリー。
犯人の側も、真実に迫る中学生の側も数学を愛する者であり、どちらの側にも数学の論理を尊重し、数学に対する敬意がある。
そして、フィボナッチ数列や円周率や四色問題といった数学がとてもわかりやすい形で駆使される。
読んでいる間、難しいイメージの強い数学を手近で楽しいものに感じさせてくれる。 ただ、トリックとかは軽いものでミステリーとして期待するべき小説ではない。
立花隆 『立花隆の書棚』 (中央公論新社、2013年)
テレビで解説者として話す立花隆におもしろみを感じたことは正直ないけれど、この本の中で自らの蔵書を前に話す立花隆は、脳科学、キリスト教、哲学、絵画、外国、政治、文学、性などあらゆる分野について生き生きと語っていてとてもおもしろい。 そんなわけで、写真も入れて600ページを超える大部の作品だけどすらすらと読み進められる。
必要に迫られての読書や買書から離れて、ひと時の精神的な余裕や楽しみを得られ、またその方向での欲を掻き立てられる(それがまた心地よかったりする)本だった。