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 濱野智史 『前田敦子はキリストを超えた(ちくま新書、2012年)

 

 「AKB」というだけで異様なほどの嫌悪感を抱く人がいるのに、その上、この刺激的なタイトル。 冷静に読める人なんていないのではとさえ思わせるような(それだけ人々を引き付ける)本。


 読んでみると、学者畑出身の批評家である著者が今まさにAKBに熱狂して高揚している様がひしひしと伝わってくる。

 その気持ち、高揚感、わかる。 かつてアイドルに入れ込んでいた時期のある自分にもそういう気持ちになった経験がある。 何か、応援しているアイドルが異様に崇高で素晴らしいものに思えて、大学やら独学やらで学んで知っていた高等な学術用語やらでそれを語っても何ら言葉が過ぎることもないし、むしろその高等な言葉でこそ語るべきものだと感じられてくる、という。

 その点、著者の言葉は当人の本当の実感から出てきたもので、そして、著者のみに特有の感情でなくそれなりの普遍性もあることは間違いない。

 ただ、(少なくとも)アイドルを応援する者に共通するものなら、AKBだけが有する特徴ではないとも言えるわけで、その点、著者には相対化する視点が欠けている。 (おそらく著者が今まで見下し見向きもしなかった)アイドル界において連綿と存在し続けていたものを、著者がAKBで初めて経験したというだけのことにすぎない。 ちなみに、AKB批判としてよくなされる握手をエサにしたCDの複数枚買いも、それ以前からアイドル界では普通に行われていたものだ。 そもそもAKB=秋葉原という名前の時点からして、秋葉原に多数生息していたマイナーアイドルの一つとして自己定義して出発したのがAKBだった。


 それから、タイトルに関連する本書の内容について。 宗教としてAKBを捉えるということで著者がやっていることは、聖書などの断片を恣意的にもってきて、そこがAKBと同じ!とこじつけるだけのことだ。 例えば、キリストがゴルゴダの丘で磔刑を受けた時、自らを犠牲にする者の利他性に満ちた言葉 (p36)を言ったことと、前田敦子が選抜総選挙の時、私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!という利他的な言葉を言ったこととをこじつけて、前田敦子はキリストだ!と主張する。 それなら、世の中キリストだらけになってしまう。

 万事がこの調子なのだ。 学問を習得したものとしての最低限の良心やら冷静さはどこへいってしまったのか・・・。


 過度に祭り上げるのも過度に貶めるのもおかしい。 AKBは個人の趣味の領域のものであり、好きなら好きでいいし、嫌いなら嫌いでいい。 そして、個人が何が好きだろうが他人に優越感を抱いたり他人を見下したりするべきものではない。 公と私の区別ができない人は本当に面倒だ。





 
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 有川浩 『三匹のおっさん(文春文庫、2012年)

 

 還暦を迎えた幼馴染の3人組のおっさんが、身の回りの問題を痛快に解決していくお話。

 解決の方法を楽しむというよりは、個性的な登場人物たちの会話や行動を楽しむのがメイン。 この3人のおっさんたちは、必要なら手も出すといったおっさんらしい古い考えを持っていながら、ファッションに気を遣ったりという若い心も持ち合わせている。 それが説教がましくなりすぎず、厭味ったらしくなくていい。

 主人公の孫である、まさに「今どきの若者」の存在によっても説教臭さは消されている。 そして、そんな現代っ子で敬語も使えないその孫が、女の子に対してはドギマギしていたりするあたりがまた絶妙なさじ加減でもある。

 個人的には、この孫と育ちの良い女の子との微妙な距離感の恋物語が一番おもしろいポイントだった。

 ありきたりと言えばありきたりではあるけれど、楽しく読める読み物だった。




 

 大江健三郎 『定義集(朝日新聞出版、2012年)

 

 朝日新聞で月に1回連載されていたエッセーをまとめたもの。 扱われる話題は、原発のような時事ネタ、クンデラやサイードなどの作家や作品の話、20代の頃の筆者の経験など、幅広い。 それがバラエティに富んでいて飽きさせずにおもしろいというところもあるけれど、どちらかというと、一つ一つの話の掘り下げが浅くて物足りなさを感じさせる面の方が強い。

 筆者のスタンスとして一貫しているのは、相変わらずの、ひたすらな、真面目さ。 短いエッセーをまとめたこの本では、類似した話題も出てくるため、平和関連ネタでの最終的には「人間の道義・倫理」や「民衆の声」に訴えるだけの堅物さが、殊にワンパターンで気に障る。 本当に自分の主張を実現したいのなら、いかに非賛同者を説得させるか、あるいは、いかにそれを実現させるか、という観点から色々とアプローチを変えてみたりするものではないのだろうか? そう考えると、筆者の書くものは、所詮、内輪向けの自己満足のものなのではないのか、と思ってしまう。

 それから、多岐な話題に渡るこの本を読んで、ふと思いついたのが、筆者が書くものの背後にある筆者が持つ問題意識について。 これまで大江健三郎が書いてきたものは、3つの問題意識から書かれているように思える。 すなわち、「若者の実存」(初期の傑作の結実したけれど、もう筆者の中で消えてしまっている)、「太平洋戦争」(今現在の戦争や核の話をするにも、60年以上前のことからしか話や考えが引き出せない)、「障害をもった子供」(作品としての成否は別として一つのリアルではあるのだろう)の3つだ。

 これでは、大江健三郎の作品(小説もエッセーも)が、古臭くて、リアリティを感じられないのも納得だ。 戦後以降を生きる、あるいは、今を生きる人たち(つまりは、筆者が寄り添っているつもりの庶民たち)が経験してきた現実や苦しみとは別の世界からしか作品を創れていないのだ。 「若者の実存」は普遍的だから今でも初期の小説群は評価が高い。 また、今の現実が関係ないから作家論や作品論や音楽論のところは楽しく読むことができる。

 この『定義集』もそうであるから、作家論とか作品論とかの知的遊戯の部分は楽しく読めるけれど、それ以外の時事ネタなどの部分は気持ち・意識の共有ができてなく、言葉が響かないし、面白く感じられない。




 貴志祐介 『悪の教典(上・下)(文春文庫、2012年)


 『新世界より』の濃密で創造的な物語に感銘を受けた作者による小説。

 鋭い知能を持ち、生徒からの人気も高いが、感情を全く持たないという欠陥を抱える高校教師が引き起こす猟奇殺人を描いたミステリー。

 上巻では、ハーレムの建設と思われる「目的」を達成すべく、着々と冷酷かつ綿密に人を殺していく様が描かれている。 そのため、考えこまれたトリック、魅力的な主人公のキャラクター、そして築き上げようとしている世界はどんな世界なのだろうというワクワク感、そういったものが詰め込まれていてとても楽しく読めた。

 それが、下巻になると、あそこまで完全無欠だった主人公が急にちょくちょく隙を見せるようになり、それがため悪循環に陥り、ついに学校で大量殺人をせざるを得ない状況に追い込まれる。 そして、次々と生徒たちを殺していくのだが、そのやり方も前半の緻密さとは打って変わった行き当たりばったりのものが多くなる。 前半の関心事の一つだった「目的」がそもそも何なのかについてもほとんど書かれることなく終わってしまう。


 前半がおもしろかっただけに、尻すぼみになってしまっているのが残念だった。 とはいえ、後半も他の作者の小説と比べると十分におもしろかったとは思う。 ただ、やはり、もっと長くなってもいいから前半の丁寧さを最後まで続けてほしかった。 




 

 村上春樹 『1Q84 〈BOOK1~3〉(新潮文庫、2012年)


 単行本出版当初、内容も大して明らかになっていないし、当然評判も何もなかったのにやたらと売れに売れた小説。 いくらノーベル文学賞に一番近い日本人と言われ、一般にも人気がある作家とはいえ、あの熱狂は一体何だったのだろうか。 あの時、真っ先に手に入れた人たちはちゃんと読んだのだろうか。(それなら何の文句もないけど、その人たちの半分も読んでないと思うとなんかなぁ・・・。)


 さて、村上春樹も好きでオーウェルの『1984年』も大好きだから、とても期待して読み始めた。

 「1984年」の現実の世界に生きていた主人公たちが、不思議な少女が書いた小説の世界「1Q84年」に入り込んでしまう。 その「1Q84年」の世界では、オーウェルの小説に描かれた「ビッグブラザー」なんていうものは誰もが警戒してしまって存在に効果はない。 しかし、それに代わって、「リトルピープル」なるものが幅を利かせている。 

 なんていう話が語られ(BOOK1後編p193)、かつてのスターリンのような一人の独裁者による全体主義のシステムはもはや過去の遺物となり、代わりに個々の一人一人が群衆になることで独裁者のような威力を発揮するポピュリズムの話であるかと匂わせる。

 そして、そのリトルピープルが出てくる「1Q84年」がもともと小説の世界であり、現実の世界とは別の世界であることへの注意が払われる。(BOOK1後編p356) まさに、権力をもった大衆がその暴力的な感情的な力を発揮するとき、その被害者(被告人)となる対象は自分たちが生きる世界や自分たち自身とは別の世界や人間であるかのように傍若無人に振る舞うこととの関連性を伺わせる。

 さらに、物語が進行していく中で『カラマーゾフの兄弟』が持ち出され、「善悪は絶対的なものではなく、時や場所により変動する」ことが言われる。(BOOK2前編p312) 感情的になった大衆が悪者として祭り上げ懲らしめた悪者や悪事も、いつの間にか、あるいは、もっと楽しげな出来事をきっかけに、すっかり忘れられ何事もなかったようになることが多々ある。

 と、長い小説のこれからの展開に期待しながら読んでいたら、だんだん、主人公の男と女が数々の優秀な邪魔者たちをくぐり抜け、いかに久しぶりの再会を成し遂げるか、というただのミステリーに堕していってしまった。 ただ惰性だけで( かなり興味を失ってもとりあえず話は追わせる筆力はさすがはノーベル賞に近い作家だ )最後まで読んだが、やはり何の展開も解決も深まりもなくあっさり終わってしまった。

 そんなわけで、期待はずれなただのミステリー小説だった。


 

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