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仲谷明香 『非選抜アイドル』 (小学館101新書、2012年)
学校や日常生活では無気力。声優という夢だけは持っていた。しかし、兄弟とともに母に育てられ、経済的理由で声優養成所を辞めざるを得なくなるという苦しみを味わうこともあった。そんな中、前田敦子と同級生だったことでAKBや芸能界を近くに感じることができ芸能界への敷居をまたぐことになった。
そうして入った芸能界で、「選抜」にもなれなかった。そんな中での彼女の姿勢はこのようなものだった。
「 特に私は、もともとかわいいというわけでもないので、努力をしなければ人気を得られないのは明らかだったが、しかしそれでも、どうしてもそれに真っ直ぐ取り組むことができなかった。私には、一面にはとても頑固なところがあって、やらなければならないことでも、心がその気にならなければどうしてもやることができないのだ。」(p62)
「 私のもう一つの性質として「何事も引きずらない」というのがある。何か嫌なことがあっても、しばらく経つと忘れてしまうのだ。例えば人気獲得といった「どうしてもできないこと」があると、「できないものはしょうがない」と、すぐに諦めてしまうのだ。このことと頑固さの同居しているところが、我ながら不思議なのだが、こればっかりは生まれ持った性質で、努力してこうなったのでもなければ、変えようと思ってもなかなか変えられないところだった。」(p86)
そんなこんなで、劇場公演での「便利屋」として働き、声優の仕事もいくつかもらえるようになった。
迷惑がかかったりして難しいのかもしれないけれど、もう少し具体的なエピソードを書いてほしかった。メンバーの個人名もあまり書いてないのだけど、具体性がほしかった。
太田光 『マボロシの鳥』 (新潮社、2010年)
爆笑問題の太田光が書いた最初の小説。
舞台や登場人物は全く異なるけれど、ファンタジックな世界や、そこでの出来事を通して伝えたいメッセージは共通している9つの短篇からなっている。
伝えたいメッセージのあまりの純粋さはいかにも太田光らしい。「世界は繋がっている」とか「神様を超えるもの」とか「本当の愛」とか。
それが、凡庸さとなっている面もあるけれど、そのありきたりのことを伝えるために創られた9つの話は、それぞれが自由で豊かな想像力に裏付けられた、小説的な面白みに満ちていて、同じ作者とは思えないくらい多様で楽しめるものになっている。
本格的なメッセージ性を求めるなら純文学を読めばよいし、小説ならではの想像力をもっと追求したければハードSFを読めばよい。けれど、ドストエフスキーだとか大江健三郎だとか野間宏だとかは気軽に手には取れない。イーガンだとかベスターだとかもなかなか手ごわそう。
そんな人やそんな気分の時にちょうどいいのがこの小説だと思う。
梨木香歩 『家守綺譚』 (新潮文庫、2006年)
家主の替わりに家を守ることになった物書きの男を取り巻く、のどかで豊かな自然にまつわる、とっても奇妙な出来事を静かに描いている短編集。
心をもったサルスベリ、屏風から出てくる今は亡き旧友、人をだます狐狸、カッパなどなど、ファンタジックなものがたくさん出てくる。けれど、それらが実に見事に溶け込んだ世界を創り上げることに成功している。
そこで描かれる山村は、現実離れしているけれど、日本人に「故郷」や「懐かしさ」を思い起こすようなほのぼのした田舎の風景になっていて、読んでいるととても心地良い。
人の持つ想像力の豊かさ、フィクションである小説のおもしろさを味わうことができる秀逸な作品だった。
吉村昭 『生麦事件(上・下)』 (新潮文庫、2002年)
生麦事件を一つの契機に「攘夷から倒幕へ」と変化し、そして、大政奉還へと至る幕末の激動の時を描いた歴史小説。
1862年、神奈川の生麦村で薩摩藩の大名行列に立ち入ったイギリス人を薩摩藩士が斬殺した生麦事件。それをきっかけとして起こった薩英戦争。時を同じくして欧米の4か国連合艦隊に砲撃を受けた長州藩。外国艦隊との軍事力の差に攘夷を不可と見なすようになる藩士たち。そして、同盟、倒幕、大政奉還へ。
一応、長州藩への連合艦隊による砲撃や薩長同盟や大政奉還へ至るところも描かれてはいるけれど、この辺は駆け足に経過を辿っただけになっている。あくまで、メインは生麦事件から薩英戦争までのところで、ここは結構詳細に描かれている。
血気盛んに燃え上がる攘夷への情熱の中、攘夷が無理なことを悟り、裏切り者として殺される危険性をも秘めながら、薩摩藩の有力者たちがイギリスとの和議へと至る過程は、なかなか緊張感があっておもしろかった。
「攘夷から倒幕へ」という変化がいかにして生じたのかという興味から読んでみたのだけど、この点に関してはいまいち明確な答えは得られなかった。確かに薩英戦争で軍事力の差は明らかになるのだけど、小説ではけっこう薩摩藩側も健闘していたりする。結局、攘夷を捨てたのは、第一に、薩英戦争の際にイギリスとの軍備の差を冷静に見抜けた有力者がいたこと、第二に、欧米へ視察や留学した経験を持つ者が数人いたこと、が理由であるように思えた。
実際、そうなのかもしれないけれど、何か決定的な出来事や人物があるわけでなく、なんとなくいつの間にか変わっていったという印象が残った。
庄司薫 『赤頭巾ちゃん気をつけて』 (新潮文庫、2012年)
青春小説の傑作が、「あわや半世紀のあとがき」を新たに収めて新潮文庫で刊行された。中公文庫のものも今でも手に入るのに「どうしてまた?」と不思議な気持ちではあるけど、かなり好きな小説の一つなだけに新聞広告を見て素直に嬉しく思った。そして、買って、久しぶりに読んでみた。
以前も一度感想を書いたけど、さまざまな理想と現実、あるいは、本音と建前との間で葛藤しながらも、「だから何なの?」、「それに何か意味があるの?」と開き直ることなく理想や建前をがんばって守り抜こうとする男の子を描いている。
「最新の」フランス思想を語れたらカッコイイ。けど、「ぼく」はシェークスピアだの『椿姫』だのといった古典的なロマンスで涙してしまう。 あるいは、受験に向けての勉強に少しでも時間を費やすのが賢い。けど、「ぼく」は「自主性」の大義のもとに授業や担任の先生を選ぶのに丸一日を費やす日比谷高校の仕組みに愛着を持っている。 また、自分を誘っていると思われる美人な女医さんを前に強姦魔になりたいと頭の中では強く思う。けど、「ぼく」は黙って目を閉じる。
そんな情けない「ぼく」だけど、ものすごい痛みを伴いながらも小さな女の子にやさしくされたというささいな出来事に、とってもとってもうれしく感じる。
そして、覚悟を決める。理想を捨てずに理想を実現しようと。「 のびやかで力強い素直な森のような男になろう。 (中略) この大きな世界の戦場で戦いに疲れ傷つきふと何もかも空しくなった人たちが、何故とはなしにぼくのことをふっと思いうかべたりして、そしてなんとはなしに微笑んだりおしゃべりしたり散歩したりしたくなるような、そんな、そんな男になろう・・・・・」(pp178-179)と。
人は、成長するにつれ、色々なことを知るにつれ、様々な現実を知るようになる。その真っただ中で苦しむのは若者たちだ。そんな若者たちを励ましてくれる小説。 そんな苦しみがもはやなくなった大人たちには、理想と現実の葛藤をいかにして乗り越えてきたのか(または、いかにして捨て去ってきたのか)を問いかける小説。