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小川洋子 『博士の本棚』 (新潮文庫、2010年)
『博士の愛した数式』の著者が、本や生活などについて書いたエッセーを集めたもの。
ところどころに「さすが作家」と思わせる華麗な表現も散見されるけれど、内容自体はそれほど刺激的なものではない。つまり、エッセーや書評の成否を決する視点の独創性や鋭さはそれほどではない。ただ、著者のファンであれば著者の普段の生活なんかも書かれていて楽しめるかもしれない。
とはいえ、この本をきっけけに興味を持った本もあって、一冊は、宿命な人格により深い自己嫌悪に陥り、深い底から出発へと向かうらしい、ケイニン『宮殿泥棒』。もう一冊は、美しい日本語で何の無理もなく異世界へと連れて行ってくれるらしい、梨木香歩『家守奇譚』。おもしろそう。
重松清 『カカシの夏休み』 (文春文庫、2003年)
学校を舞台にした中編3作品。
安定の重松作品で、さくさくと読み進めたくなり楽しめる。
表題作、「カカシの夏休み」。授業中、急に立ち歩いたり叫んだりする問題児童のカズをめぐる周囲の大人たち・子供たちの姿を描いている。どのようにカズが立ち直るのか、興味深く読み進めていたのだけど・・・、あまりに呆気なく治ってしまって、不完全燃焼かつ「こんなに簡単なものか?」という不満が沸いてきた。
「ライオン先生」。たてがみをなびかせていた熱血先生が今ではかつらをかぶり、無気力な生徒に手こずっている。先生本人には実に深刻な悩みだろうけれど、社会性はなく、どうしても軽く感じて軽く感じたまま読み終わってしまった。
「未来」。いじめ自殺が発生し、遺書に書かれていた男の子が「ハンニン」扱いされる。また、男子生徒が自殺直前に大して仲が良くもない女子生徒に電話していて、その女子生徒が「ハンニン」扱いされる。はたして誰が悪いのか?いじめた側か自殺した側か?それはとりあえず措いておいて、事実や善悪の全てを知っているかのように、アカの他人が「死ね」だとか「おまえのせいだ」とか言うことが悪いというのは確かなことだろう。そして、人が死んだことに対して、「誰のせいか?」よりも先に「悲しい」という気持ちが湧いてきているのか?それこそが大事ということだ。
大江健三郎 『読む人間』 (集英社文庫、2011年)
大江健三郎がこれまでの人生で実践してきた読書の仕方とそれを執筆につなげる仕方について語った講演を書籍化したもの。
大江健三郎の落ち着いた語り口と相俟って、人生を読書にかけてきた悠々自適な(もちろん実際はそんなことないだろうけど)人生を感じ取れる。
「2年(だっけ?)で一人の作家を集中的に読む」といった長期的な読書なんてものができたら、じっくり自分というものを成熟させていけるのだろうなぁと思う。けれど、現実の時間的制約の中では実践困難であり、どうしても「効率的な読書術」的なものに魅かれてしまう。
そんなわけで、ちょっと別世界を眺めるような感覚で読んだ。
取り上げられている本自体は、これまでの各種エッセイや小説の中やらで見たことのあるものが多い。渡辺一夫、ダンテ、ブレイク、サイードといった。
マルカム・ラウリーの『火山の下』が出てきてた。積ん読中だけど読んでみたくなった。
中川右介 『第九――ベートーヴェン最大の交響曲の神話』 (幻冬舎新書、2011年)
ベートーヴェンの「第九」の誕生から現代までの歴史を、様々なエピソードを交えながら辿っている本。
軽い読み物としては良くできていて、最後まで退屈することなく楽しめた。
「第九」が、たった一つの曲にすぎないにもかかわらず、ベルリンの壁崩壊、ナチス政権、民主化革命など、これほどまで歴史的な大事件と関わっていることに改めて驚愕した。そして、それだけ人々の感性に訴えかけ、人々の感情を喚起し、歴史的な場面に立ち会った人々の興奮にさえ負けずに寄り添えるこの曲のパワーにも改めて圧倒される思いがした。
また、フルトヴェングラーやカラヤンやバーンスタインといった世界的な指揮者たちがこの曲をどう捉え、どう関わってきたのかというのも興味深かった。自分の持ってるCDで指揮をしている者がどういう考えを持ち、どういう状況でタクトを振っているのかという物語性が付与されるのは面白い。
こういった様々な知識や物語性の付与は、「第九」を聴く楽しみにますます深みを与えてくれるものだ。
太宰治 『斜陽』 (新潮文庫、1950年)
母、息子、娘の3人からなる旧上流階級一家のそれぞれの滅び方と、上流とは対極な生活をし貴族を嫌う流行作家の人生を描いた小説。
かつての貴族流の振る舞いを頑なに守る母。偽悪的に貴族的な道徳を消そうと麻薬やアルコールや女に溺れるが、その実、そのような生き方に楽しみを見出せない息子。古い道徳が廃れた後は革命と恋が新たな道徳になるとお上品なお勉強から学ぶが、革命も恋もいまいち上手くは行えない娘。嫉みからか貴族的なものをけなし、あえて堕落した生活を送るが、そのくせ思想や文学にやたらと通じている作家。
そんな精神的な依りどころのない4人がついには破滅へと至る。
この小説が書かれたのは戦争が終わって2年後で、その頃であれば、支配的なイデオロギーの急変という人々を不安定にさせる要因が切実なものであったのかもしれない。
ただ、支配的な思想や道徳のない現在に生まれ育った身としては、そんなどこかから与えられるような道徳にすがろうとも思わないし、そもそもそんなものがあること自体も想像しにくい。
そんなわけで、一つの話としてその意図するところは頭では分かるけれど、いまいち切実さをもって読むことができない小説だった。
(もちろん、現在とは時代状況が違うものでも、その書き方によっては切実さを伴って読めることもあり得るけれど、この小説ではできなかった。)