by ST25
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重松清 『ゼツメツ少年』 (新潮文庫、2016年)
重松清らしい、不完全で、しかしながら奥底に優しさを持った人間を登場させる小説だ。今回は特に「想像力」の大事さを強調している。
居場所のない追い込まれた少年少女たちにとって、もはや想像力だけが唯一の希望であり未来だ。ただの現実逃避とも言えるが仕方ない状況でもある。悲しくも彼らはそのことを認識している。
「 センセイ、僕は思うのです。人間には誰だって、どんなときだって、物語が必要なんじゃないか、って。特にキツいとき。自分がこのままだとゼツメツしそうなほどキツくて、苦しくて、たまらないとき、頭の中で物語をつくりあげて、そこに現実の自分を放り込むことで救われるのだと思うのです 」(p200-201)
「ゼツメツ」に追い込まれた少年たちは、様々な人との出会いや同じ境遇の少年少女との出会いを経て居場所を見つけていくが、その一方で、作家のセンセイの想像力の助けも借りながら話は進んでいく。
結局、作家のセンセイの想像力に頼るという現実逃避でしか苦境を抜け出せない、と自分は捉えた。
そもそも同じ境遇の少年少女たちが巡り合えたのは、一見、想像の世界とは違う現実なのではと思える。しかし、そんな追い込まれた同じ境遇の3人が出会うなんていう奇跡は、現実ではなかなか起こり得ない。所詮、作家の先生による物語なのだ。
そう考えると、この小説は徹頭徹尾、最初から最後まで想像力による物語に貫かれていると言える。
イジメなどで苦しんでいる人がいるのは現実だ。そんな人たちにとって、そんな想像だけの物語に意味があるのだろうか。それは分からない。人によって答えは違うかもしれないし。だけど、そんな居場所のない人が主人公となって生き生きと活躍するファンタジーであることには変わりはない。そして、それを読む楽しみを与えることはできているのではないかと思う。それは居場所がない人たちにとっても楽しめるものである。
イジメられている少年が主人公となると、つい生真面目に考えがちだ。しかし、登場人物と作者が対話をするかのような奇妙な構成を取っているこの小説は、そういう小説的な技巧の楽しみも含めて、ファンタジー的な小説として楽しめばいいのではないかと思った。話の楽しさはさすがは重松清と思えるクオリティーだし。
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高橋みなみ 『リーダー論』 (講談社AKB48新書、2016年)
提示されるリーダーとしての心得はこんな感じ。「手本を示す」、「相手の名前を呼ぶ」、「〝やまびこ”のコミュニケーション」、「悩んでいる子は答えより理解者を求めている」など。
どれも巷に溢れる古今の自己啓発系の本で言われてきたことばかり。むしろ、普段多少なりとも考えながら生きている人なら日常生活の中で習得しそうなことばかり。
それなら、これらが実際にAKB48というアイドルたちの中でどんな風に役立ったのかのエピソードが知りたいところなのだけど、それも極めて少ない。
「たかみな」になら多少の裏話を暴露されても怒るメンバーはいないだろうに。
そういう裏舞台までカメラを回して客に見せて、「過程」を楽しんでもらうというコンセプトのグループだったはずなのに。
人生経験も浅くて、いろいろな本を読んだりもしていない小学生・中学生くらいになら意義があるかも。
湊かなえ 『高校入試』 (角川文庫、2016年)
そんなミステリー。
まず、事件が進んでいく過程が読んでいてもあまりおもしろくない。入試事務を行う教師たちに緊張感がないし、不審なことが起こった後も彼らは自己保身と適当な推理ばかりで魅力的な人物でもない。また、「実際の入試はもっときちんとやってた気がするけど?」と突っ込みたくなるような教師たちの不手際が多すぎる。しかも、そこが犯行の肝になっていたりして「ミステリーとしてどうなの?」と思えてしまう。そういう緊張感もリアリティもない中で話が進んで行ってしまう。
それから、トリックも、「おっ!」と思わせるような独創的なものではない。拍子抜けしてしまうような結構単純なものだったりする。
犯人の動機はちょっと深くてちょっと感動的。そして、その動機を引き立たせるためのそれまでのつまらなさだったとも言えるのだけど、だからと言って、過程の退屈さが正当化されるわけではない。
そんなわけで、誰もが経験した「受験」という厳格に運営されているはずのものをテーマにして、今を時めく作家が書いたミステリーということで期待したけど、残念ながら期待値を上回ることはなかった。
村上春樹 『東京奇譚集』 (新潮文庫、2007年)
高層マンションから忽然と姿を消し、何事もなかったかのように帰ってくる男が出てくる「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。いつの間にか勝手に移動してしまう腎臓の形をした黒い石を描いた「日々移動する腎臓のかたちをした石」。名札に異様なこだわりを見せ、名札をコレクションしている紳士的な話し方をする猿が描かれる「品川猿」。他2編からなっている。
どれも日常の中に異質な、異様なものが実に自然に溶け込んでいる様子を描いている。この点では、『象の消滅』(新潮社)という短編集に収録されている村上春樹の代表的な短編たちと同じだ。
『海辺のカフカ』とか『1Q84』のようなメッセージ性の強いものなら感想も書きやすいけれど、この手の短編の感想は難しい。
とりあえず、異質なものが自然に溶け込んだ非現実的な世界を、劇画的に大げさに書くのとは逆に、とても落ち着いて静かに、さも当たり前であるかのように書いている。そのため、その別世界にすーっと入り込んで、その別世界にどっぷり浸かって味わうことができる。
結局、そんなに深いことは考えずに、軽いファンタジーを楽しむような楽しみ方でいいのではないのかなと思う。
こういう味わい方ができるのも作者の筆力が確かなものだからこそであるのは間違いないところだし。
奥田英朗 『沈黙の町で』 (朝日文庫、2016年)
「 北関東のある町で、中学二年生の名倉祐一が転落死した。事故か、自殺か、それとも・・・? やがて雄一が同級生からいじめを受けていたことが明らかになり、家族、学校、警察を巻き込んださざ波が町を包む・・・。地方都市の精神風土に迫る衝撃の問題作。 」
とのこと。おもしろおかしな小説で手腕をいかんなく発揮してきた筆者が、「地方都市でのいじめ」という言葉や表に現れない微妙なものを多々含む難しい題材をいかに描くのか興味をもち、読んでみた。
当然だけどおふざけは一切なく、至ってマジメなミステリーになっている。出てくるのは、自殺した中学生。その友達や同級生。その双方の親。学校の担任や校長。警察官と検察官。取材する新聞記者。つまり、関わりがありそうな人はほぼすべての人がしっかりと描写されている。
話は2つの主題を追っていきながら進んでいく。一つは転落死の真相。自殺なのか、脅迫による殺人なのか、事故なのか。もう一つはそれぞれの人物の描写。転落死に至るまでの中学生たちの微妙な人間関係も徐々に明らかになるし、転落死発覚後の動揺する関係者たちの描写もある。
最初に言った通りおふざけな話ではないけれど、だからといって勧善懲悪で一件落着してカタルシスを感じられる話でもない。何か一つのことに原因を帰すこともできないし、誰か一人だけが悪いわけでもない。そういう中で悲劇が起こってしまい、その悲劇の処理も一筋縄できれいに気持ちよくは終わらない。そこが逆に、実にリアルで、本当にあってもおかしくない一つの話が描かれていると感じさせる。
誰もが現実の複雑さ、割り切れなさは体験して知っている。にもかかわらず、ニュースを通じて知る遠くの別世界の出来事に関しては、なぜか勧善懲悪のヒーローもののドラマでも見ているかのように、誰かを悪者に仕立ててその悪者を徹底的に叩いて満足してしまう。ネットが普及した現代では匿名での批判が可能になり、その悪者叩きはより激しさを増している。
そんな現代の観客的立場の「自称ヒーロー/ヒロイン」たちに対して、真剣に問題提起しているのがこの作品だと思う。
この小説の登場人物たちは、皆、自分のことばかり考えている。それは友達を裏切りたくない正義感から出たものもあるし、我が子を信じたいという親心から出たものもあるし、自分の地位を守りたいという保身の心から出たものもある。
それを人間の弱さに端を発するもので仕方ないと考えるか、どんな状況であれ冷静な客観的な判断をするべきだと批判的に考えるかは、意見の分かれるところだろう。
ただ、断片的な情報だけで全てが分かったかのごとく善悪を判断し「悪者」を断罪している「自称ヒーロー/ヒロイン」も、自分と関係がない安全な場所に自らを置いて無責任に放言しているだけなら、実は、自分のことを絶対視している、つまり自分のことしか考えていないと言えなくもないのではないかと思う。
そんなわけで、至ってマジメに「いじめ」をめぐる微妙な人間関係、人間の心理や行動を描いているのがこの小説だ。ミステリー的に話に引き込まれてぐいぐい読み進められるけれど、(interesting的な意味での)面白さというようなものはあまりないかもしれない。