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by ST25
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 早野透(インタビュー) 『政治家の本棚』 (朝日新聞社、2002年)


 本書は読書家向けの雑誌「一冊の本」で連載されていたものの中から選び出された43人の政治家へのインタビューが所収されている。その43人には中曽根康弘や竹下登など一時代前の政治家から、小泉純一郎、岡田克也といった現在活躍している政治家、そして、石原伸晃、志位和夫、枝野幸男という将来が期待される政治家まで、時代も党派もまたいで様々な人が包括されている。しかし、本書はただ著名政治家を集めてまとめたのではなく、43人を生まれの古い順に並べ、かつ、それを3つの時代で区切っている。そして、それぞれの時代の時代潮流と読書傾向についてインタビュアーの解説が付されている。

 本書ではまず、インタビュアーの読書・関心の幅広さがインタビューの中で垣間見える。そして、3つの時代の初めに付された解説では、自己の青春時代以外でも全く変わることのないインタビュアーの時代を追い続ける観察力・洞察力がいかんなく発揮されている。

 このため、本書を最初から最後まで読むことによって、日本の書物史・社会史・政治史を概観することができるようになっている。つまり、一冊の本にまとめた効果によっておもしろさが引き出されているのだ。

 以下では、個々の政治家の中で特に印象に残った二人についての感想と全体的な感想を書いていきたい。

 まず一人目。加藤紘一のインタビューは好感が持てた。学生の頃は安保闘争が正しいのかどうか真剣に悩み、マルクスを読み、新安保条約を読み・・・、と右往左往する。また、読書は「読みながら考えちゃうほう」で「頭の中は、お雑煮状態」だと。他のほとんどの政治家があまりに自己に引き付けて本を読んで自己満足している中にあって、常に留保をつけながら真剣に納得いくまで考えよう(読もう)とする姿勢は貴重だ。例えば、中曽根康弘のカントとヘーゲルの理解なんて特にひどい。彼は「カントとかヘーゲル。耽読しました」と述べ、カントと自分の政治の骨格との同一性を主張する。少々長いが引用しよう。

 「限りない空を仰いで、しびれるような感動を覚えるものは、天の星と我が内なる道徳律だ、カントはそう言っていますね。
 我が内なる道徳律というのは、これは相対主義を超えた、普遍性を持ったものを言っている。~それが新保守自由主義になっているわけです、政治家として。」(p31)

 こんなことを一般の人が言っていたら「危ない人」に思われそうだがそれはさて置き、そして、カントの理解はとりあえずこれで正しいとして、単純な一点を指摘したい。すなわち、「ヘーゲルはどこへ行ったのか?」と。カントが誰もが到達可能な“普遍的道徳”の存在をあまりにお気楽に前提としたことに対して、ヘーゲルは自覚的でありそれを(今からすればそれでも不十分だが)批判したはずである。中曽根康弘は自分に都合の良いカントの思考方法だけを切り取って、ヘーゲルの主張は全く組み入れず、そして、カントで言うところの“普遍的な道徳”を自分の都合の良いように(つまり、自分の道徳)勝手に解釈してしまっているのだ。少なくとも現代のほとんどの子どもたちは、自分の価値観を絶対視して他人の気持ちを想像できない人は「ジャイアン」や「独裁者」みたいな幼稚な人だと教わっているだろう。

 結論は明らかだ。確かに加藤紘一の決断力のなさは問題だが、ジャイアンはもっと問題であり、加藤紘一の慎重さは賞賛に値する、ということだ。



 さて、もう一人の印象に残った政治家として小泉純一郎を取り上げたい。ここでは、

 「いやなことがあると、じゃ、あす特攻隊で飛び立つのとどっちがいいかと較べてみるんです。」(p268)

 「戦争は二度としちゃいかんという思いは強いですよ。戦争するぐらいなら、どんな我慢もできるんじゃないか。」(p269)

 という発言は無視しておく。

 さて、ここで問題にしたいのは小泉純一郎の読書内容について。司馬遼太郎など歴史物について散々話を聴いた後、インタビュアーが「大学時代は、ほかに?」という質問を投げかける。それに対する応えは「だから時代小説。」というもの。また、「慶応大学卒業後はロンドンに留学したのでしたね?」という質問には、「この時期、読まなかった。むしろ音楽のほうだったね。コンサートに通って青春を謳歌した。」と・・・。本書に収められてる43人の政治家の中でここまで社会派・学問系の本が出てこないのは彼ぐらいだ。今話題の『男子の本懐』(城山三郎)で自分を浜口雄幸に見立てるなら、「もっと勉強しなさい」と親が子に思うような気持ちで切に思ってしまう。



 最後に、政治家の読書について全体的な感想を一つ。それは司馬遼太郎ばかり読んでないで学問もやったらどうだということ。学問系で結構名前の出てくる人を挙げると、マルクス、カント、丸山真男、松下圭一くらい。他に影響力の大きそうな人を挙げれば、ウォルフレン、ヴォーゲル。なんとも微妙だ。また、インタビューでは人によっては大学院で学んだときの話も出てくるが、ほぼ全てが“古き良き時代”の大学院。学問はしていない。


 この状況を、勉強をしなくても社会で何とかなると見るか、それとも、やっぱりどうにもならないと見るか―――。

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 吉井怜 『神様、何するの・・・ ――白血病と闘ったアイドルの手記』 (幻冬社文庫、2003年)


 本書は副題の通り、「白血病と闘ったアイドルの手記」だ。そのアイドルである吉井怜がデビューして活躍し始めた頃を雑誌などで見て知っていただけに一般の人よりは身近に感じ、興味も惹かれた。

 さて、本書は入院する前の状況から入院後の治療や生活など、結構詳しく記述されている。そのため、想像力をかき立てられ、読み始めると本の中の世界に引き込まれてしまう。

 そして、読んでまず感じるのは、数え切れないくらいの注射、無菌室での孤独、抜け落ちる髪の毛、不妊の体、記憶が飛ぶくらいの苦しみなどなど、あまたの辛い体験を耐え抜いた人間に対する敬意だ。

 しかしながら、敬意は払いつつも著者吉井怜に対して苛立たしく感じる点もある。



 本書では著者の二つの側面が現れている。その片方の側面が現れる場面はとても感動的であり涙を誘う。しかし、もう片方の側面が現れる場面では軽蔑や怒りがこみ上げてくる。

 まず前者の感動的な場面に分類されるものから述べていこう。こちらの中で一番感動したのは、「子どもを産めない体」という節だ。ここでは放射線治療を受けて不妊の体になった後に書かれた日記の中の詩的な文章が出てくる。その冒頭は以下のようなものだ。

  二〇〇一年七月十日
 〈まだ出会っていない、未来の赤ちゃんへ〉
 お腹に宿すことも、できなくてゴメンネ。
 いろんな空の色や周りの景色を見せることができなくて、ゴメンネ。
 生まれてくるとしたら何人きょうだいだったのかな?
                             (167頁)

 この後も、自分の赤ちゃんとの会話と自分の赤ちゃんに対する自責の想いの告白が淡々と表現された詩が続く。

 この他の感動的な場面は、骨髄移植をした母や不器用な方法で愛情を表す父など家族とのやり取りの中に多い。


 次に、もう一方の、怒りを感じる場面について述べる。こちらには、病気を治すより仕事の復帰を考えることや、後遺症を恐れてより生存率の高い骨髄移植を拒否することや、点滴などで普段の2倍くらいにふくれ上がった顔を看護婦に見せながら「ブサイク」と自虐的な冗談を言う場面や、自分の境遇を神様に向かって嘆く場面などがある。


 さて、上の感動と怒りとを分けるのはいったい何か? それは、そのときの吉井怜の属性によっていると思われる。つまり、前者の感動的なところでは「一人の人間としての吉井怜」であり、後者の怒りを感じさせるところでは「アイドルとしての吉井怜」なのである。

 赤ちゃんとの会話や家族とのやり取りはまさに、アイドルであることとは全く無縁な内容であり、人間としての性質が現れる場面である。

 一方、「アイドルとしての吉井怜」のときには、本人は無自覚なのであろうが、前面に本人の幼さ・醜さが現れてくる。つまり、「タレントじゃなければ、私じゃない」とか「実力も知名度も一流になる」とか、(他人からの評価が重要な)タレントという仕事によってしか自己の人生を肯定できない幼稚な精神性が表出されているだ。ここでは、自分の命・人生が「誰かのために」というような崇高な精神のためにではなく、「タレントとしての自分」という自己の外面的な側面のために使われているのだ。

 この点をさらに続けて考えていくと、怒りを喚起する場面と、「アイドルとしての吉井怜」というアイデンティティーの二つから、さらに問題点が見えてくる。つまり、自分の容姿に対する優越感と絶対化だ。入院中に、治療の影響で変わってしまった自分の容姿へのしつこいくらいの執着や、終始一貫したタレント業へのこだわりはそれを端的に表している。言い換えれば、「カワイクない自分は自分ではない」という意識だ。ここでも、自己を外見でしか肯定できない精神性が見えている。

 最後に、上で述べた点とも関連するが、もう一つの問題点を指摘する。それは、自己を「辛さナンバー・ワン」化していることだ。つまり、アイドルとしての仕事が上昇しかけていたときにこんな病になってしまい苦しい治療を受けた不幸を、あたかも「世界で一番辛い経験をした」と無意識のうちに前提とされている感じを受けるのだ。上で述べた「自分はカワイイ」前提もまさにそうだが、これらは結局、世界の狭さ、あるいは、想像力の乏しさによるものだ。世間にはカワイクない人はいっぱいいるし、カワイクなくて白血病になる人もいるし、白血病になっても自分を世話してくれる家族がいない人もいるし、病気が順調に回復しない人もいるし・・・というあり得る状況への想像が全く働いていないのだ。自分の人生や境遇などを相対化した形跡が微塵も見られない。なんと自己中心的で傲慢な人間なのだろうか。(そんな吉井怜にはたくさんの読書とニュースをリアリティーをもって見ることを勧めたい)


 以上では、かなり根源的に吉井怜の頭の中を批判してきた。その帰結として当然、吉井怜を積極的には応援できない。しかしながら、これだけの辛い経験を言い訳や自己弁護に使うことを断固として拒否している姿勢や、「白血病になったのが私で良かった」と治癒後に思えるほどの強さには共感を持てる。(ただ、この強さが行き過ぎているために先に批判したようなことになるのではあるが・・・)したがって、他の中途半端なアイドルよりは応援しようと思う。



 蛇足。本書には最後に「解説」と称して、本書のドラマ化を手がけた某民放のディレクター(武内英樹)の文章が載っている。しかし、読んでいるこちらが恥ずかしくなるくらいの稚拙で浅薄でつまらない、中学生が書いたような文章なのである。これでは、せっかくの感動的で重い物語の読後感を台無しにしてしまう。まったくもって犯罪的行為だ。心から削除願いたい。

 綿矢りさ 『蹴りたい背中』 (『文藝春秋・三月特別号』82巻4号、2004年:所収)

 2004年に起こった出来事の一つであり今だに話題になることもあるこの作品を、一年の最後に改めて読み直して総括し、きっちりと封印させてしまいたい。

 改めてこの作品を呼んでの感想は、やはり「・・・」「???」。「○○市・高校生作文コンクール」の入賞作だとしたら「なかなかおもしろい」ということになるのかもしれないが、芥川賞受賞作としてはあまりに完成度の低い作品ではないだろうか。(あるいは芥川賞なんてこの程度なのだろうか。)

 そんな訳で「この作品に対する肯定的な評価とはいかなるものか」について何か手掛かりが掴めるかと思い、小説の再読後、「芥川賞選評」をじっくり読んでみた。

 そこで、一人一人の評者の『蹴りたい背中』に対して書かれた部分を長くなるが一つ一つ検討していこうと思う。



 以下では一人一人の評者の文を引用し、その都度コメントを付していく。


 まずは宮本輝。彼は「蛇にピアス」を受賞作に推したと言うが「蹴りたい背中」にも触れている。
「『インストール』と今回の『蹴りたい背中』に至る短期間に、綿矢さんの世界は目をみはるほどに拡がっている。ディテールが拡がったという言い方が正しいかもしれない。それとともに文章力や構成力も身につけたのだ。驚くべき進歩である。」 
 ⇒しかし、個人の中でどれだけ進歩したかは賞の授与に全く関係のない話だ。その成長の結果としての現在の実力がどうかが問題なのだ。

「確かに十九歳の世界はまだまだ狭い。この作家にそれ以上の世界の広さを求めるのは、ないものねだりというものだ。だが、私は綿矢りささんの『蹴りたい背中』に伸びゆく力を感じた。伸びゆく世代であろうとなかろうと才能がなければ伸びてはいかない。」
 ⇒「伸びゆく力」とは一体何なのか?そしてそれをどこで感じたのか?全く言語化されておらず、これでは独りよがりな感想にすぎない。“選者”には個人的な感想ではなく、作品への客観的な評価・判断が求められるのではないだろうか。


 続いて古井由吉。
「「蹴りたい背中」とは乱暴な表題である。ところが読み終えてみれば、快哉をとなえたくなるほど、的中している。「私」の蹴りたくなるところの背中があらためて全篇から浮かぶ。最後に人を避けてベランダに横になり背を向けた男が振り返って、蹴りたい「私」の、足の指の、小さな爪を、少し見ている。何かがきわまりかけて、きわまらない。そんな戦慄を読後に伝える。読者の中へ伝播させる。」
 ⇒「何かがきわまりかけて、きわまらない。そんな戦慄を読後に伝える」というところは確かにそうだろう。しかしその「何か」がこの小説を通しての肝となっているところではないのか。(それに対して作者(=綿矢りさ)が明確な答えを見出していたかは怪しいと個人的には思っているが。)


 次は石原慎太郎。中村航と金原ひとみの作品についてコメントしていて、『蹴りたい背中』に対する言及はない。


 そして、黒井千次。
「『蹴りたい背中』は読み終わった時この風変わりな表題に深く納得した。新人の作でこれほど内容と題名の美事に結びつく例は稀だろう。高校生である男女が互いに向き合うのではなく、女子が男子の背中にしか接点を見出せぬ屈折した距離感が巧みに捉えられている。背中を蹴るという行為の中には、セックス以前であると同時にセックス以後をも予感させる広がりが隠れている。この感性にはどこか関西風の生理がひそんでいそうな気がする。」 
 ⇒題名と内容とに見事なつながりがあるというだけでその内実には言及がない。具体的にどこがどう結びつく(と解釈しているのか)分からない。
 果たして、作者(綿矢りさ)は「互いに向き合うのではなく、女子が男子の背中にしか接点を見出せぬ屈折した距離感」を言いたいのだろうか?しかし、これも一つの解釈としてありではある。
 それより、「背中を蹴るという行為の中には、セックス以前であると同時にセックス以後をも予感させる広がりが隠れている」って本当か!?
 さらに、「この感性にはどこか関西風の生理」ってまた適当な。しかも「気がする」って自信がないのか!?
 全くひどい選評だ。


 次は村上龍。彼は『蛇にピアス』を積極的に推している。が、『蹴りたい背中』にも言及がある。
「『蹴りたい背中』も破綻のない作品で、強く推すというよりも、受賞に反対する理由がないという感じだった。」
 ⇒「推す」のでなければ「受賞に反対する理由」になると思うのですが???


 次は池澤夏樹。
「『蹴りたい背中』ではまず高校における異物排除のメカニズムを正確に書く伎倆に感心した。」 
 ⇒この点は認めるが、その種のことを巧みに描く小説ならこの世に五万とあるだろう。

「警戒しながらも他者とのつながりを求める心の動きが、主人公のふるまいによって語られる。人と人の仲を書く。すなわち小説の王道ではないか。」
 ⇒だからどうした。小説の王道を行く作品は全て受賞に値するのか。


 続いて、山田詠美。
「「蹴りたい背中」。もどかしい気持、というのを言葉にするのは難しい。その難しいことに作品全体を使ってトライしているような健気さに心魅かれた。その健気さに安易な好感度のつけ入る隙がないからだ。でも、共感は呼ぶ。」 
 ⇒「もどかしい気持」というこの作品に対する表現は端的でかつ要を得た表現だろう。


 次は河野多恵子。
「彼等(「私」とにな川)はまさしく高校一年生である実感に満ち、同時にそれを越えて生活というものを実感させる。」 
 ⇒・・・意味分かりますか???

「〈蹴りたい背中〉とは、いとおしさと苛ら立たしさにかられて蹴りたくなる彼の背中のこと。」
 ⇒一解釈としては十分あり得る。


 そして、三浦哲郎。
 まず題名について、「そうか、こういう背中もあるわけだと気づかされた。」とある。その上で、
「けれども、この人の文章は書き出しから素直に頭に入ってこなかった。たとえば、「葉緑体?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。」という不可解な文章。私には幼さばかりが目につく作品であった。」 
 ⇒各人の表現や文章を「幼い」と評価するのはいいのだが、「不可解」というのは理解もできていないわけであり、選者としていかがなものか?評価するには理解するのが前提だろう。


 最後は、高樹のぶ子。『蹴りたい背中』が一番だと評価している。
「『蹴りたい背中』は、(中略)オタク少年への親近感と嫌悪が、微妙なニュアンスで描かれている。」 
 ⇒抽象的だが、無難な解釈の一つ。

「オリチャンというアイドルを「幼い人、上手に幼い人」と思う。このような醒めた認識が随所にあるのは、作者の目が高校生活という狭い範囲を捉えながらも決して幼くはないことを示していて信用が置ける。」 
 ⇒アイドルを「幼い人」と捉える醒めた子供なんて今では全然珍しくも何ともない。むしろ評者の世界が狭いのでは?

「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている。この姿勢があるかぎり、作者の文学は作者の成長と共に大きくなっていくに違いない。」
 ⇒だからどうした?受賞と関係あるのか?あったら問題だ。一読者の信念や価値観で決められても困る。


 さて、以上の選評は肯定的評価に関してあまり役に立たなかったが、逆にこの作品のダメな点に関して示唆を与えているように思える。そこで私自身の評価を書いていこう。

 この作品の良いところの一つはその文章体にあると思う。インターネットやケータイ世代を感じさせる軽快な文章はとても心地よい。特にその最大の見せ場は、三浦哲郎の評価とは逆に、冒頭の、
「葉緑体?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。」
という文章だと思う。

 もう一つの良い点は、最初の理科室での出来事から教室でのやり取りあたりまでに発揮されている人間関係への醒めた鋭い観察力だ。そして、その観察が作者の冷淡で軽快な文章とマッチしていて相乗効果が生み出されている。

 以上のように私はこの作品に対して始めの方だけを評価している。それ以降は、力尽きた感じだ。(実際、例えば中盤から後半において、主人公の癖である様々な事象の「例え」は、似たようなものの繰り返しで辟易してくる。)

 そこで、以下では批判点を述べていこう。なお、細かいところでの批判もあるが、ここでは全体的な大きな点に絞って述べていく。(細かい批判点の例としては、主人公や“オタク少年”にな川の高校生という設定・主人公とにな川の性格の一貫性の欠如(!)・にな川のオリチャンのいた場所への執着・にな川のネットオークションの利用等に関する金銭的現実性など)


 この作品の最大の主題はその題名に表されている「蹴りたい背中」なのだろう。私は「蹴りたい背中」という感情を、「分かり合いたいのに分かり合えないことに対する苛立ちやもどかしさ」や、「そもそも向き合ってくれないことに対する苛立ちやもどかしさ」を表現したものと解釈している。

 しかし、そうだとすると「蹴りたい背中」に象徴される主人公と「にな川」とのやり取りとその感情や主題は、あまりにありきたりで面白味に欠けている。おもしろくない。これがこの作品に対する評価の全てであり、これで終わりにしても良いくらいだ。もちろん評者たちと同様に、その種の感情を「蹴りたい背中」と表現したことの巧みさは見事だと思うが。(ただ、背中を蹴ることができる状況なんてあまり存在しないというツッコミもある。)

 しかしながら、実は、以上のものはそれでも善意的な解釈と評価なのだ。実際の小説では、上で述べたことさえもきちんと描かれておらず不完全なのだ。というのは、果たして主人公の「蹴りたい背中」という感情に関して一貫した展開になっているだろうか?あるいは、まとまらない気持ちをそのまま表現してしまってはいないだろうか? 要は、「そもそもなぜ主人公は分かり合ったり振り向かせたりしたいのか?」 

 私はこの点に疑問がある。つまり、にな川に対する主人公の感情として想定(あるいは散見)できるものが色々あるということだ。列挙していけば、クラスのノケモノ同士の親近感、ノケモノに対する認知や肯定、未知のものに対する好奇心、弱者に対する優越感情、単なる性的サディズム、そして、恋愛感情など。(最も簡単に考えられる「恋愛感情」だとするならあまりにあり得ない設定ではないだろうか?)ここが「作者が明示的な答えを持っていない」と述べた所以である。もちろん、複雑な感情が混ざっているということはあり得ることだ。しかし、複雑な感情を雑然とさせたままで終わるなら完成度の低い作品という評価は避けられない。

 結局、作者(綿矢りさ)は一つの主題さえも一貫してきっちりと描けていないということだ。


 こうして、私はこの作品に対してかなり否定的な評価を下す。しかし、私のような、この小説に対して真剣に考える人の存在によって、この作品に価値があることが逆に証明されているのかもしれない。

 ・・・そう考えると、私の否定的な評価というものは小説の主人公の「蹴りたい」気持ちと、もしかしたら同じなのかもしれない。どうだろうか???

 立松和平 『光の雨』 (新潮文庫、2001年)

 本書は、内部で14人の同志が殺された、実際の連合赤軍事件を元に小説化されたフィクションである。

 設定は、事件から60年がたち80歳になった主要メンバーの一人である玉井潔が、カップルの若者に当時のことを語るというものだ。そして、その際には殺された者も含む他のメンバーが玉井に乗り移って語っていく。ここに、筆者の意図がいくつか込められているように思われる。簡単に列挙すると、60年間生き延びた者の内的葛藤(あるいは殺した者との対話)、生き延びた者としての歴史の継承、当時と今との時代状況の差異と一致などである。これらはこれらで興味を惹く点ではあるが、以下では、革命を目指す若者たちに関する重要な一つの問いについて考察していく。なお、本書で主に対象とされているのは「山岳拠点」での生活である。したがって、それ以前の学生運動や浅間山荘事件はプロローグやエピローグとして簡単に述べられるに留まっている。

 まずは全体の流れから。
 暴力装置である権力を倒す革命のためには武器を手に入れなければならない、という考えから彼らは銃砲店を襲撃して銃を手に入れる。しかし、革命のための銃は「崇拝の対象としての神のよう」になって、「銃を守るために全身全霊を打ち込まねばならなくなり、逃亡生活を余儀なくされ」てしまう。そうして、「革命戦士」になるべく、あるいは革命の際の山岳拠点として、山小屋にこもることになる。そして、そこで総括の名のもとに10人以上が殺されたのだ。なお、以下の内容はあくまで小説から考えられることであって、(実際に起きた事実をよく知らないため)実際の事件においても妥当するかは分からない。


 さて、「そもそも、そこまで彼らを駆り立てたものは一体何だったのか?」この問いこそが最大にして唯一のテーマであろう。

 結論から先に述べれば、結局のところ、彼らの行動原理は序列化された3つの選好によって理解できると思われる。すなわち、①生への意志(執着) ②異性への感情 ③抽象的概念としての革命への“憧れ”の3つである。革命を除けばあまりに平凡な人間である。しかも、革命とは言ってもそのプライオリティーは所詮3番目である。
 
 それぞれの選好がどのように現れたかについて簡単に例を述べておこう。まず、「生への意志」は、自己保存のために同志を殺すというところに端的に現れている。それは、常に自分が殺されるかもしれない極限状況がより明確に現してくれる。次に、「異性への感情」は、特に女性兵士において明らかだ。真の革命戦士になるためには性という旧弊は乗り越えなければならないとされる。そして、それを率先して実践し、実践させようとする中央委員会の指導的立場の女性メンバーは、女性兵士に対して特に厳しく指導する。しかし、そこに最も性を意識していることが明らかになる。3つ目に関しては以下で別に論じられる。

 さて、このような利己的で普通の人間を凄惨な事件へと導いたのは、①と②の選好の存在を前提とした上での③の選好の特質だと思われる。③の「抽象的概念としての革命への“憧れ”」からは2つの特徴が見て取れる。一つは彼らが目指した「革命」が抽象的概念に過ぎなかったこと。もう一つは革命があくまで「憧れ」に過ぎなかったこと、である。これらがどのように事件へと至るかというと以下のようになる。

 憧れを抱く夢や理想を実現するために多少の苦労が伴うことは彼らにも認識できており、その覚悟もしていた。しかし、その夢は抽象的で内実の無いものであったため、向かうべきゴールが元々存在していなかった。それでも彼らは一歩を踏み出してしまった。そうすると、苦痛の覚悟もある彼らはゴールのない道を彷徨いながら進むしかなくなる。しかもその過程で個人は、その都度恣意的に描かれる理想的行動を求められるのだ。そうして悲劇が生まれた。



 本書を読み進めているとき恐怖心を感じた。それは、彼らが、行き先も無いままにあまりに危険な航海に旅立ってしまい、“死”以外に逃げ道のない究極的に追い込まれたという彼らの状況に、自分の心情を投影したからであろう。雪の積もる山奥の山小屋というシチュエーションもまたその情感を効果的に高めている。

 公共的な大きな理想を掲げていても付いてまわる利己的な自己の強さや、手段の目的化や、理想を実現する主体の存在しにくさ等々、現代においても本書から得られる教訓は多いように思われる。しかし、その教訓を引き出すためには自己に対して謙虚になる必要がありそうだ。なぜなら、彼らのしたことは理想を追求しようとする人ならば、少なからず行なうことであるからだ。

 小谷野敦 『評論家入門』 (平凡社新書、2004年)

 本書は評論・評論家とは何かを学問との対比をうまく使いながら、明らかにしていく。その過程で、小林秀雄、江藤淳、柄谷行人、河合隼雄など様々な有名評論家が俎上に載せられ、斬り捨てられていく。その斬り口は爽快でおもしろい。が、ただ、おもしろおかしく書いている訳ではなく、とてもまっとうで重要な観点から批判がなされているのである。

 筆者が本書で評論を評価するのに用いるのは、「学問8割、はみ出し2割」という基準だ。具体的には、論理であり、主張の論証に用いる証拠の内容であり、引用の仕方といったものである。つまりこれらは、いわば最低限のルールだ。

 これを聞く限り当然だと思われる、これらの観点から有名評論を再評価するとき、そのひどさには驚かされる。例えば、筆者は小林秀雄について様々に批判する。まずは34才のときの梅原猛の文章を引用して小林秀雄の非論理性を批判する。

「小林氏はベルグソンの笑いの分析の「精妙さ」に驚き入り、その「天才」に専ら感心しているらしい。(中略)
 彼はベルグソンの笑いの分析に感心するばかりで、笑いがどういう現象であるか己の頭で考えようとはしないばかりか、ベルグソンの笑いの分析が正しいかどうかさえ、一度も疑って見ようとはしていないかのようである。(「梅原猛著作集1 闇のパトス」)」(p67)

 また、彼の求道者的評論について以下のように批判する。

「「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」。いかにも深遠なことを言っていそうで、その実、何のことだか分からない。まさに、政治家や商人の言葉である。」(p70)

 なるほど、確かにこれでは評論なんていう高等なものではなく、『聞く人の心に残るスピーチ集』系のハウツー本と一緒に分類されるべきものだ。

 私は、かねてから上に名前を挙げたような人たちの本はあまり読んでこなかった。それは、漠然とした“胡散臭さ”が読むことを避けさせていたからだ。今回本書を読んで、その漠然とした気持ちの理由が分かるとともに、その正しさを確証することができた。また、この「評論を論理的に読解する」という作業は自分でいずれはしなくてはいけないと考えていたので、これを著者が行ってくれてとてもありがたいと感じた。

 もちろん、著者と同様に、私も「閃きの評論、地を這う論文」であって、評論と学問とは異なるから、完全な論理や論証は必要ではないと考えている。しかし、偉そうに何かを評価するということを言葉を用いて行う限りにおいては、最低限の基準は満たされるべきだ。例えば、学問のような厳密な論証が行えない性質の主張なら、仮説的に主張するとか、少なくても自己の主張の不完全さは自覚しておくとか。そうでなければ、議論はおろか、基本的なコミュニケーションすら行えない。

 これらは、いわば評論の世界の、“法の支配”ならぬ、“論理の支配”といったものであり、評論の世界もようやく「前近代から近代へ」という問題意識が芽生え始めたようだ。

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