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 綿矢りさ 『蹴りたい背中』 (『文藝春秋・三月特別号』82巻4号、2004年:所収)

 2004年に起こった出来事の一つであり今だに話題になることもあるこの作品を、一年の最後に改めて読み直して総括し、きっちりと封印させてしまいたい。

 改めてこの作品を呼んでの感想は、やはり「・・・」「???」。「○○市・高校生作文コンクール」の入賞作だとしたら「なかなかおもしろい」ということになるのかもしれないが、芥川賞受賞作としてはあまりに完成度の低い作品ではないだろうか。(あるいは芥川賞なんてこの程度なのだろうか。)

 そんな訳で「この作品に対する肯定的な評価とはいかなるものか」について何か手掛かりが掴めるかと思い、小説の再読後、「芥川賞選評」をじっくり読んでみた。

 そこで、一人一人の評者の『蹴りたい背中』に対して書かれた部分を長くなるが一つ一つ検討していこうと思う。



 以下では一人一人の評者の文を引用し、その都度コメントを付していく。


 まずは宮本輝。彼は「蛇にピアス」を受賞作に推したと言うが「蹴りたい背中」にも触れている。
「『インストール』と今回の『蹴りたい背中』に至る短期間に、綿矢さんの世界は目をみはるほどに拡がっている。ディテールが拡がったという言い方が正しいかもしれない。それとともに文章力や構成力も身につけたのだ。驚くべき進歩である。」 
 ⇒しかし、個人の中でどれだけ進歩したかは賞の授与に全く関係のない話だ。その成長の結果としての現在の実力がどうかが問題なのだ。

「確かに十九歳の世界はまだまだ狭い。この作家にそれ以上の世界の広さを求めるのは、ないものねだりというものだ。だが、私は綿矢りささんの『蹴りたい背中』に伸びゆく力を感じた。伸びゆく世代であろうとなかろうと才能がなければ伸びてはいかない。」
 ⇒「伸びゆく力」とは一体何なのか?そしてそれをどこで感じたのか?全く言語化されておらず、これでは独りよがりな感想にすぎない。“選者”には個人的な感想ではなく、作品への客観的な評価・判断が求められるのではないだろうか。


 続いて古井由吉。
「「蹴りたい背中」とは乱暴な表題である。ところが読み終えてみれば、快哉をとなえたくなるほど、的中している。「私」の蹴りたくなるところの背中があらためて全篇から浮かぶ。最後に人を避けてベランダに横になり背を向けた男が振り返って、蹴りたい「私」の、足の指の、小さな爪を、少し見ている。何かがきわまりかけて、きわまらない。そんな戦慄を読後に伝える。読者の中へ伝播させる。」
 ⇒「何かがきわまりかけて、きわまらない。そんな戦慄を読後に伝える」というところは確かにそうだろう。しかしその「何か」がこの小説を通しての肝となっているところではないのか。(それに対して作者(=綿矢りさ)が明確な答えを見出していたかは怪しいと個人的には思っているが。)


 次は石原慎太郎。中村航と金原ひとみの作品についてコメントしていて、『蹴りたい背中』に対する言及はない。


 そして、黒井千次。
「『蹴りたい背中』は読み終わった時この風変わりな表題に深く納得した。新人の作でこれほど内容と題名の美事に結びつく例は稀だろう。高校生である男女が互いに向き合うのではなく、女子が男子の背中にしか接点を見出せぬ屈折した距離感が巧みに捉えられている。背中を蹴るという行為の中には、セックス以前であると同時にセックス以後をも予感させる広がりが隠れている。この感性にはどこか関西風の生理がひそんでいそうな気がする。」 
 ⇒題名と内容とに見事なつながりがあるというだけでその内実には言及がない。具体的にどこがどう結びつく(と解釈しているのか)分からない。
 果たして、作者(綿矢りさ)は「互いに向き合うのではなく、女子が男子の背中にしか接点を見出せぬ屈折した距離感」を言いたいのだろうか?しかし、これも一つの解釈としてありではある。
 それより、「背中を蹴るという行為の中には、セックス以前であると同時にセックス以後をも予感させる広がりが隠れている」って本当か!?
 さらに、「この感性にはどこか関西風の生理」ってまた適当な。しかも「気がする」って自信がないのか!?
 全くひどい選評だ。


 次は村上龍。彼は『蛇にピアス』を積極的に推している。が、『蹴りたい背中』にも言及がある。
「『蹴りたい背中』も破綻のない作品で、強く推すというよりも、受賞に反対する理由がないという感じだった。」
 ⇒「推す」のでなければ「受賞に反対する理由」になると思うのですが???


 次は池澤夏樹。
「『蹴りたい背中』ではまず高校における異物排除のメカニズムを正確に書く伎倆に感心した。」 
 ⇒この点は認めるが、その種のことを巧みに描く小説ならこの世に五万とあるだろう。

「警戒しながらも他者とのつながりを求める心の動きが、主人公のふるまいによって語られる。人と人の仲を書く。すなわち小説の王道ではないか。」
 ⇒だからどうした。小説の王道を行く作品は全て受賞に値するのか。


 続いて、山田詠美。
「「蹴りたい背中」。もどかしい気持、というのを言葉にするのは難しい。その難しいことに作品全体を使ってトライしているような健気さに心魅かれた。その健気さに安易な好感度のつけ入る隙がないからだ。でも、共感は呼ぶ。」 
 ⇒「もどかしい気持」というこの作品に対する表現は端的でかつ要を得た表現だろう。


 次は河野多恵子。
「彼等(「私」とにな川)はまさしく高校一年生である実感に満ち、同時にそれを越えて生活というものを実感させる。」 
 ⇒・・・意味分かりますか???

「〈蹴りたい背中〉とは、いとおしさと苛ら立たしさにかられて蹴りたくなる彼の背中のこと。」
 ⇒一解釈としては十分あり得る。


 そして、三浦哲郎。
 まず題名について、「そうか、こういう背中もあるわけだと気づかされた。」とある。その上で、
「けれども、この人の文章は書き出しから素直に頭に入ってこなかった。たとえば、「葉緑体?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。」という不可解な文章。私には幼さばかりが目につく作品であった。」 
 ⇒各人の表現や文章を「幼い」と評価するのはいいのだが、「不可解」というのは理解もできていないわけであり、選者としていかがなものか?評価するには理解するのが前提だろう。


 最後は、高樹のぶ子。『蹴りたい背中』が一番だと評価している。
「『蹴りたい背中』は、(中略)オタク少年への親近感と嫌悪が、微妙なニュアンスで描かれている。」 
 ⇒抽象的だが、無難な解釈の一つ。

「オリチャンというアイドルを「幼い人、上手に幼い人」と思う。このような醒めた認識が随所にあるのは、作者の目が高校生活という狭い範囲を捉えながらも決して幼くはないことを示していて信用が置ける。」 
 ⇒アイドルを「幼い人」と捉える醒めた子供なんて今では全然珍しくも何ともない。むしろ評者の世界が狭いのでは?

「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている。この姿勢があるかぎり、作者の文学は作者の成長と共に大きくなっていくに違いない。」
 ⇒だからどうした?受賞と関係あるのか?あったら問題だ。一読者の信念や価値観で決められても困る。


 さて、以上の選評は肯定的評価に関してあまり役に立たなかったが、逆にこの作品のダメな点に関して示唆を与えているように思える。そこで私自身の評価を書いていこう。

 この作品の良いところの一つはその文章体にあると思う。インターネットやケータイ世代を感じさせる軽快な文章はとても心地よい。特にその最大の見せ場は、三浦哲郎の評価とは逆に、冒頭の、
「葉緑体?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。」
という文章だと思う。

 もう一つの良い点は、最初の理科室での出来事から教室でのやり取りあたりまでに発揮されている人間関係への醒めた鋭い観察力だ。そして、その観察が作者の冷淡で軽快な文章とマッチしていて相乗効果が生み出されている。

 以上のように私はこの作品に対して始めの方だけを評価している。それ以降は、力尽きた感じだ。(実際、例えば中盤から後半において、主人公の癖である様々な事象の「例え」は、似たようなものの繰り返しで辟易してくる。)

 そこで、以下では批判点を述べていこう。なお、細かいところでの批判もあるが、ここでは全体的な大きな点に絞って述べていく。(細かい批判点の例としては、主人公や“オタク少年”にな川の高校生という設定・主人公とにな川の性格の一貫性の欠如(!)・にな川のオリチャンのいた場所への執着・にな川のネットオークションの利用等に関する金銭的現実性など)


 この作品の最大の主題はその題名に表されている「蹴りたい背中」なのだろう。私は「蹴りたい背中」という感情を、「分かり合いたいのに分かり合えないことに対する苛立ちやもどかしさ」や、「そもそも向き合ってくれないことに対する苛立ちやもどかしさ」を表現したものと解釈している。

 しかし、そうだとすると「蹴りたい背中」に象徴される主人公と「にな川」とのやり取りとその感情や主題は、あまりにありきたりで面白味に欠けている。おもしろくない。これがこの作品に対する評価の全てであり、これで終わりにしても良いくらいだ。もちろん評者たちと同様に、その種の感情を「蹴りたい背中」と表現したことの巧みさは見事だと思うが。(ただ、背中を蹴ることができる状況なんてあまり存在しないというツッコミもある。)

 しかしながら、実は、以上のものはそれでも善意的な解釈と評価なのだ。実際の小説では、上で述べたことさえもきちんと描かれておらず不完全なのだ。というのは、果たして主人公の「蹴りたい背中」という感情に関して一貫した展開になっているだろうか?あるいは、まとまらない気持ちをそのまま表現してしまってはいないだろうか? 要は、「そもそもなぜ主人公は分かり合ったり振り向かせたりしたいのか?」 

 私はこの点に疑問がある。つまり、にな川に対する主人公の感情として想定(あるいは散見)できるものが色々あるということだ。列挙していけば、クラスのノケモノ同士の親近感、ノケモノに対する認知や肯定、未知のものに対する好奇心、弱者に対する優越感情、単なる性的サディズム、そして、恋愛感情など。(最も簡単に考えられる「恋愛感情」だとするならあまりにあり得ない設定ではないだろうか?)ここが「作者が明示的な答えを持っていない」と述べた所以である。もちろん、複雑な感情が混ざっているということはあり得ることだ。しかし、複雑な感情を雑然とさせたままで終わるなら完成度の低い作品という評価は避けられない。

 結局、作者(綿矢りさ)は一つの主題さえも一貫してきっちりと描けていないということだ。


 こうして、私はこの作品に対してかなり否定的な評価を下す。しかし、私のような、この小説に対して真剣に考える人の存在によって、この作品に価値があることが逆に証明されているのかもしれない。

 ・・・そう考えると、私の否定的な評価というものは小説の主人公の「蹴りたい」気持ちと、もしかしたら同じなのかもしれない。どうだろうか???

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