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『キレイ ~神様と待ち合わせした女』 (作・演出:松尾スズキ、TBSDVD)
このDVDは、2000年6月13~30日に渋谷のBunkamuraシアターコクーンで上演されたミュージカルで、その内の6月21日に収録されたものだ。主なキャストは奥菜恵、南果歩、古田新、片桐はいり、秋山奈津子、宮藤官九郎、松尾スズキ、篠井英介である。ストーリーを相当大雑把に述べると以下のようなものである。まず、記憶を消した少女・ケガレ(奥菜恵/成人後:南果歩)が地下から民族紛争の続く日本に出てくる。そして、そこで珍奇な人々と出会い、その中で、ケガレの中の過去との葛藤が少女時代と成人後を並行させながら描かれていく。そうして複雑に時間・空間を越えながら進んでいくストーリーが最後には劇的な展開を見せる。テーマはタイトルから分かるように、(一般的な言葉としての)「キレイとケガレ、そして神様」であると思う。
チケットが見つからないため何時行ったかは分からないが、私はこの芝居を実際に生で観た。おそらく座席は1番前(違っても2番目)だったと思われる。そのため、どうしてもストーリー全体を意識するよりも個々の役者を注視していた。それでも、芝居全体としてはおもしろく感じた。
それから4年、最近DVDとサントラを購入した。そこで、今回はよりストーリーに焦点を当てて注意深く2回ほど短期間のうちに鑑賞した。2回というのは、1回観終わったとき、可能性のある解釈がいくつかあったため、その点を確かめるべくもう一度鑑賞したのだ。
内容に関して、まずこの作品の良い点を述べておく。
一つは、芝居を通じての雰囲気だ。戦争とケガレという同じように暗さやもの悲しさを持っているものに見事にマッチする雰囲気を音響、歌、舞台セット、演技で作り出し、観客を“現場”に引き込むことに成功している。
二つ目の良い点は、一つ目の点とも関連するが、音楽(歌)の良さだ。特に、「ケガレのテーマ(奥菜恵)」、「事実は事実(南果歩)」、「キレイ~Ending(奥菜恵)」が良い。(どれもサントラに収録されており歌詞を確認しながら何度も聴いた。)この3曲は同じメロディー(?)だが、歌詞やテンポを変えることで、ストーリー上、重要な役割を演じている。そして、それぞれがこの芝居の内容や雰囲気を見事に表現した曲と詩になっているのだ。(歌唱力の良さは言うまでもない。)したがって、これらの曲を聴くと舞台の映像や観ているときの感情が鮮明に蘇ってくる。
そして、3つ目の良い点は笑いを取るところでのセンスの良さだ。下品でも単純でもない“上品な”笑いとでも言いえるような確実な笑いが心地よく、芝居の流れに効果的にめり張りを付けている。この点はさすが、松尾スズキをはじめ、古田新、宮藤官九郎というメンツが揃っているだけのことはある。
さて、次にこの芝居について批判する。それはストーリーについてだ。確かにこの作品のエンディングでのトリッキーな展開は、「過去と現在」のような二項対立を単純に対比していくのとは異なるダイナミックさを有している。しかし、厳しく言えばそれだけなのだ。
まず確認しておきたいのだが、この作品にはメッセージ性があるわけではない。もちろん皆無だとは言わないが、ストーリーや笑いに対してより高いプライオリティーが置かれているため観る人を考えさせるような作りにはなっていない。そのため、より一層ストーリーが重要になってくる。
しかし、その生命線であるストーリーが、複雑ではあるが仕掛けが少なく、大掛かりな少数の仕掛けで安心してしまっているところがあるのだ。つまり、焦点となる人物に関しては丹念に構想されているのだが、それ以外の人物(その中には重要な役割を果たす者もいる)に関してはこの作品の中では全貌が解明されず、外生的に「元々そういう人物がいた」という程度で終わっているのだ。言い換えれば、大掛かりな少数の仕掛けが関係する射程範囲が狭いために、そこに組み込まれない登場人物がたくさん残ってしまうということだ。金融などで使われる言葉でいえば、仕掛けの“レバレッジ(てこ比)”が小さいのだ。そう考えれば、最後のトリッキーな仕掛けはそれ自体のインパクト(奥行き)は大きいが、それによって解明されること(横の拡がり)は少ないということだ。
そうして以下のようなことになる。この文章の初めの方で、「1回見終わったとき可能性のある解釈がいくつかあった」と書いた。もちろん、その解釈は2度目に観たときに否定された。それは、僭越ながらあえて言えば、「ストーリーをまだおもしろくする余地が複数あった」ということだ。(例えば、マジシャン=カネコ・ジョージという設定。)
もちろん、舞台は1回観るだけで理解させなければならないという制約があるのは承知している。しかし、仕掛けの射程を拡げて、作品内での内的完結性を高めることは可能である。また、観客がその場で理解できなくても作品全体への理解度や満足度に影響を与えない仕掛けをあらゆるところに仕込んでおくことは作品の完成度を高めようとしたら避けられないことのはずだ。
私は舞台作品の評論をほとんど読んだことがないため、どのような点から批判や評価がなされているか知らないが、以上が素人なりに考えた評価だ。是非ともこの作品に対する評論家のコメントを読んでみたいものだ。(果たしてどういうところに載っているのだろうか?)
最後に、「ケガレのテーマ」の歌詞の冒頭より引用。
「♪そうして一人私はソトで 二度目に生まれて大地を踏んだ」