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 奥田英朗 『サウスバウンド(角川書店、2005年)
 
 元過激派の活動家である破天荒な父を持つ小学6年生の男の子が主人公の小説。

 この元過激派の父は、警察から学校教育までありとあらゆる「官」を嫌い、納税を拒否し、生まれた瞬間から自分の意思とは無関係に国民として国家に包摂されることに疑義を呈するという、過激な主張の持ち主。家庭訪問に来た若い女性教師に天皇制の議論を振り、自宅に年金を取り立てに来た公務員には、

「体制に雇われたイヌなどと話す用意はない。おれは官が虫より嫌いなんだ。租税のおこぼれで生きていこうなんて根性が気に入らん。やつらはな、もっともタチの悪い搾取する側なんだ」(p12)

 と発言する。

 そんなアナーキストっぽいが、しかし共同体主義的な趣向も持ち合わせている人間が、現代という時代に存在することの滑稽さが全篇を通して爆笑を誘う。しかしながら、そんな過激な人物の存在を通して描かれる現代社会の滑稽さもまたおもしろい。主人公の少年・二郎はそんな状況を客観的に観察しつつも、いろいろな事件の当事者ともなってしまう、そんな設定で物語は進む。

 話は大きく2部に分かれている。1部では東京の中野を舞台に二郎の学校生活と二郎の家族をめぐる話が中心である。2部では舞台を沖縄の西表島に移して、そこでの東京とは対照的な生活と、そんな生活とは対照的な「東京的」紛争とが描かれる。

 設定が元過激派の親だったり、舞台が西表島での自給的生活と紛争だったりとするために社会派的要素を有する小説であることは否定できない。しかし、笑いあり、感動ありの堅苦しくない小説としても十分に楽しめる内容である。

 社会的メッセージについては一貫して何かを訴えるというよりは、様々な主張や状況や矛盾を描くことによって多様なメッセージや問いかけを読者に投げかけているように思える。

 したがって、以上をまとめると、この小説は途切れることなく盛り込まれている笑い、多種多様な社会的問いかけ、それに感動のストーリーが加わり、楽しみ盛りだくさんの軽快な長篇小説となっている。

 ただ、元過激派でいまだに極端な主張を持っている父の発言のおもしろさや滑稽さはその種の前提知識なしにどれだけ理解し、笑うことができるのかは分からない。例えば、こんな発言。

「あんた、どこのセクトだ。(中略)市ヶ谷か、早稲田か」(p433)

 
 もちろん、知識がなくても楽しめることに変わりはないのだろうが、少なくともそれなりの前提知識があった方が何倍も笑えることは間違いない。
 
 
 しかし、何はともあれ、この本は作者のエンターテイメントのセンスの高さを感じさせる小説である。
 
 
 
 また、全くもって蛇足だが、沖縄の「ユイマール」的な生活とはいかなるものかを知ることもできた。ユイマール自体では貨幣経済とは馴染まないことも。

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 高杉良 『小説 ザ・ゼネコン(角川文庫、2005年)
 
 
 2003年に出版された単行本の文庫化。

 時は1980年代後半、首相・竹山正登とつながりの深い社長を擁する中堅ゼネコン・東和建設を舞台に、上司にも遠慮なくものを申す将来を渇望される中堅エリートであり、メインバンクから東和建設への出向者である山本泰世が、出向し、出向解除されるまでの東和建設の社長やその他の役員とのやり取りを中心に描いた小説。

 「竹山正登」や「曽根田内閣」、「西北鉄道の筒井会長」といった名前や、竹山首相の「与党の幹部はみんな大丈夫だわな」といった言葉使いからも分かるとおり、(ある程度)事実に基づいて小説化された作品。

 ただ、この中途半端な名前には笑いを禁じえない・・・。

 また、この事実の追及の中途半端さは内容にも及んでいる。もちろん、談合や、「政治銘柄」と呼ばれるゼネコンの躍進など、帯の宣伝文句である「建設業界の暗部に迫」っている面もなくはないが、この面での出来や掘り下げは物足りない。

 ただ、そんな中でも個人的におもしろかった(知らなかった)逸話は、新宿の新都庁舎の建設・設計に際しての建築家・丹野健二(言うまでもなく先日逝去した丹下健三を表していると思われる)も絡んだ設計コンペの段階からの談合・癒着の話。

 しかし、本書のおもしろさは、ゼネコン、政界、銀行、暴力団などを巡る問題構造の抽出といった、いわば“マクロな”内容にあるのではない。おもしろさは、組織に毒された個人と組織から自由な(振舞いができる)個人との関係を通して、「組織と個人」との関係を“読者にとって気持ち良く”描いている“ミクロな”やり取り(会話)にこそある。

 組織圧力や上司の専制など、組織の不快な面というのは日常生活において不可避である。そんな組織(化された人)を相手に堂々と、しかも、完全に「社会」から逸脱することなく敢然と立ち向かっている主人公の言語能力、状況判断能力には舌を巻く。そして何より、カタルシスを感じることができる。

 これは“高杉小説”を通して見られる特徴だ。(ただ本書の主人公は組織化されている程度が比較的大きい感じがしなくもない)

 そんなわけで、“高杉小説”は読んで爽快であるとともに、「社会」での立居振舞の勉強にもなる。

 しかし、その一方で「やはり組織(会社)なんて」と組織(会社)一般に対して嫌悪を抱くのも間違いないが。

 中村元 『水族館の通になる(祥伝社新書、2005年)
 
 
 生まれ変わったらクジラになりたい。

 あの巨大さにロマンを感じる。

 マンボウも好きだ。

 あの大きさであの形。これまたロマンだ。

 しかし、自分には、来世のことを自分で決められないばかりか、海でこれらの生き物を見ることも不可能だ。

 そんな欲求不満を満たしてくれるのが水族館だ。水族館には巨大なジンベイザメもいるし、マンボウもいる。他にも、デンキウナギ、カブトガニ、ピラニアもいる。その一方で、きれいな熱帯魚もラッコもいる。

 水族館は心躍らせる空間であるとともに、心を落ち着かせる空間でもある。

 そんな水族館の奥深さや更なる楽しみを提供してくれるのが本書だ。

 本書では全てを通して知的好奇心をそそる視点によって水族館についての知識が分かりやすく書かれている。

 例えば、巨大回遊水槽を可能にした日本の技術力や、水槽の“ガラス”の構造や、海水の調達方法や、ピラニア水槽の大胆な掃除方法や、アシカのショーの覚えさせ方や、魚を自分で捕獲に行く飼育員などなど。

 これらの知識は、実践(=水族館見学)でこそ生きてくるものばかりだ。

 この本こそが、まさに「水族館を100倍楽しむ方法」という題名でもおかしくないと思わせる本だろう。

 またそして、水族館で働く筆者の生き物への愛情に満ちた文章からは安心感を感じることができる。というのも、水族館に行ったときに、官僚的飼育員や、観察・研究対象として生き物を見る飼育員が育てている魚だと思ったら見る気が失せるからだ。

 それにしても、人類(生物)はひたすら祖先を辿っていけば海の中に行き着く。

 そう考えると、国家なんていう人工物に愛着を感じることのなんと倒錯していることか。そんなのアキバ系のオタクと変わりない。(※ただ、私はアキバ系のオタクを多くの人たちのように全く否定的に見ていないので念のため。)

 求められるのは、「ナショナリズムからナチュラリズムへ」だ!?

 村上春樹 『象の消滅 短篇選集1980-1991』 (新潮社、2005年)
 
 
 初めて村上春樹を読破した。実は以前一度だけ長編に挑んだことがあったが、途中(といってもかなり最初の方)で止めてしまったのだ。
 
 昔から、夏目漱石や大江健三郎のように人間の深奥をえぐり出すものこそが「良い小説」だと思い込み、その線に沿って読書を実践してきた。そして、その線の小説が好きでもあった。
 
 そのような自分が今回初めて村上春樹を読んだ。結果、新しい「良い小説」を発見することができた。
 
 
 
 元々この本はアメリカで出版された短篇集であり、いわば“逆輸入版”とでも呼べる本である。ここに収録されている17の短篇が村上春樹の作品群の中でどういう位置付けを与えられているかは(初期の短篇であること以外)分からないが、なかなか一般的な人気のあるものが収められているようだ。収録作品は具体的には、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「パン屋再襲撃」、「眠り」、「ファミリー・アフェア」、「中国行きのスロウ・ボート」、「沈黙」、「象の消滅」など。
 

 さて、本題である本の感想に入る前に、ここで一つ言っておきたいことがある。それは、大手ネット書店「アマゾン」の読者レビュー(書評)についてだ。アマゾンのレビューは一般読者が自由に書き込むことができ、そのレビューを一般読者が自由に評価することができるという「自律的な市民社会」の理想像を思わせるような空間である。そして、本を購入する際の手掛かりとして大いに役立つものである。

 今回、村上春樹作品を初めて読んでみて、村上春樹の評価を知りたくなったためアマゾンの読者レビューを読んでみた。しかし、そこで気になることがあった。先に言っておくが、それはアマゾンのレビューのシステムやその意義や役割とは全く無関係であり、トレードオフの関係にあるものでもない。関係あるのはレビュアー(書評者)である。

 どういうことかと言うと、レビューであまりにも感覚に頼りすぎる「感想」が多いことである。もちろん、小説を「楽しい」「つまらない」と感じるのは感性の問題であり、それをそのまま楽しむなり、レビューに書くといった楽しみ方を否定するものではない。(この点は誤解されやすいと思われるため強く強調しておきたい。)

 その上で、しかしながら、自分の感想や感動をより多くの人に伝えたいと思うならば、その感性で感じたものを言語化する努力をするべきではないだろうか? また、その作品を非難する場合にはその理由を言語化する道義的必要はより高まるのではないだろうか?(しつこく繰り返すが、言語化せずに楽しむ方法を全く否定するつもりはないし、むしろ、肯定している。自分も全ての作品の感想を言語化しようとするわけではない。)

 そして、何より、自分の持った感想を言語化しようとする「過程」が読書の楽しみを増大させてくれるというのが重要だ。すなわち、第一により深くじっくり作品を味わおうとするようになる。第二に、言語化するために自己の感覚(感想)をじっくり内省する必要があるため自己に対する理解が一層深まる。

 この読書の楽しみの第2工程(第1工程は感性で楽しむ)は読書の楽しみを2倍にしてくれる。お薦めだ。
 
 
 さて長くなったが、以上のような考えに基づき、以下では本書の感想を“できるだけ”言語化(全てを言語化するのは困難)して述べていきたいと思う。ただ、後に説明するように、個々の作品より村上作品全体への感想が多くを占める。
 
 

 初期作品というのはその作家のエッセンスが詰まっていると言われる。そして、短篇というのは長篇のための“仕掛け”の実験的性質を帯びると言われる。ゆえに初期短篇集である本書は村上春樹を知るのにうってつけであるように思われる。
 
 以上のような考えのもと、あたかも村上作品を多く読んでいるかのようなスタンスで感想を書いていく。
 
 
  
 本書に収録されている短篇は、一つの共通点を持っている。それは、扱われている題材がどれも、“普段は意識もされずに通り過ぎてしまっている日常の中の一断片”であることだ。

 この点では、戦後派である野間宏や大江健三郎が戦争という非日常的な状況下での心の闇を描いたのとは対照的である。また、同じ日常であっても野間や大江と同様に実存の苦悩を描いた夏目漱石や芥川龍之介とも異なっている。

 しかしながら、それにもかかわらず村上春樹の小説に“浅い”という印象は受けない。それはただ日常を描くのではなく、日常の中の見過ごされがちな、“あり得たかもしれないもう一つの日常”を(ときに非現実的に、ときに象徴的に)描いているために、哲学的な“深み”が出てくるからだと思われる。したがって、村上作品を端的に表す適切な表現は“軽くて深い”である。

 この“深み”によって村上作品は二度三度と読み返したくなる。あるいは、一つ一つの作品を丁寧に深く読み込みたくなる。

 そんなわけで、ここで一つ一つの作品の解釈と感想を書いていくわけには行かない。そこで、本書に収録されている17の短篇の中で個人的に気に入った作品を挙げて一言述べるにとどめる。(いつか気が向いたらこのブログで個々の作品についての感想を書いてみたい。)
 
 
 それで、気に入った作品は、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「眠り」、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアンの蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」、「TVピープル」。

 この中で「一番」を強いてあげれば、本書のトップを飾っている「ねじまき鳥と火曜日の女たち」。後に長篇にもなった作品である。この作品には、村上春樹作品に共通する“一つの”重要な視点が、登場人物の女性の発言の中に出てきている。そして、それはこの小説を貫くテーマでもある。
 

 「あなたそれほど自分の能力に自信が持てるの? あなたの頭の中のどこかに致命的な死角があるとは思わないの?」(p40)

 キーワードは「死角」である。そして、この女性の問いかけに対して主人公である「僕」が考える。

 死角、と僕は思った。たしかにこの女の言うとおりかもしれない。僕の頭の、体の、そして存在そのもののどこかには失われた地底世界のようなものがあって、それが僕の生き方を微妙に狂わせているのかもしれない。
 いや違うな、微妙にじゃない。大幅にだ。収拾不可能なほどにだ。(p40)

 「死角」の存在を明示的に主人公(あるいは読者)に気付かせる。“終りなき日常”に、画期的で新鮮な別の視点を与えているのだ。これによって読者は新しい視点を手に入れることができ、今までとは違う“生”(あるいは日常)を生きることができる。ちなみに、これと似た仕掛けは、個人的に気に入っている作品の一つである「ローマ帝国の崩壊~」にもある。すなわち、歴史的大事件と日常の類似性を描くことで、日常を大きく捉え直すとともに、歴史的大事件を小さく捉え直させているのだ。 
 
 
 ここで、ついでにもう一つ、村上作品の“一つの”重要な視点であると思われる一節を他の作品から引用しておく。それは「象の消滅」という本全体のタイトルにもなっていて、本書の最後を飾っている作品に出てくる。

 ときどきまわりの事物がその本来の正当なバランスを失ってしまっているように、僕には感じられる。(p425)

 「本来の正当なバランスを失う」というのも日常に新しい息吹を送る視点であり、その視点から小説は展開している。この文章から読者の中では、「本来のバランス?」、「正当なバランス?」、「バランスを失う?」といった(主に日常についての)疑問への(哲学的)思考がスタートすることになるのだ。そして、この視点から日常を切り取るという手法も、本書の中の他の小説で使われている。(例えば、「踊る小人」)
 
 
 一方、17の短篇の中で異質に感じた作品が一つある。それは「沈黙」である。なぜなら、メッセージが社会的であり、また、若者の実存的悩みに対して直接的に応えているからだ。だからといって、この作品は嫌いではないのだ。何せ、社会的なメッセージというのが前近代的な「日本社会」への批判ともなっているように感じられるからだ。(そして、このテーマは大江健三郎の初期の作品に近いと思われる。)
 
 
 さて、以上、村上作品の中の一般的特徴(と、その例外)を中心に論じてきた。しかしながら、村上春樹の持つ題材や技術の引き出しはとても多い。それはこの短篇集を読んだだけでも十分感じることができる。したがって、実際はほとんどの作品が、村上作品に通底する共通性を有しつつも、その作品特殊のテーマやメッセージを持っているのだ。
 
 これは村上春樹をさらに読み進めることを強いる。時間という限りない資源をいかに配分するか、難しい問題だ。
 

 幸福輝 『ピーテル・ブリューゲル――ロマニズムとの共生』 (ありな書房、2005年)
 
 
 本書は、「十六世紀フランドル絵画を代表する画家」であるピーテル・ブリューゲルを当時の2つの美術思潮の交差という視点から論じている。2つの美術思潮とは、当時隆盛を誇っていたロマニズム(=ローマ主義,ルネサンス期イタリア文化)と伝統的なフランドル絵画である。人文主義的教養を重視し人物像(肉体美)や古代神話などを描く前者に対して、後者は風景画を得意とした。
 
 
 ヨーロッパの周縁であるフランドル(現在のほぼベルギー)においてさえ当時の主流はイタリア文化であった。そして、多くの画家はイタリア留学をしていた。ブリューゲルも例外ではなかった。にもかかわらず、ブリューゲルは伝統的な風景画や民衆画を帰国後も題材に選んでいる。そのためブリューゲルの留学体験は「隠蔽」され、イタリア文化とネーデルラント文化を二項対立的に捉えて、反イタリア主義者としてのブリューゲル評(「農民ブリューゲル」など)が多数を占めている。
 
 
 しかし、筆者はここに異議を唱える。ブリューゲルはイタリア文化を間違いなく学んだ「人文主義者ブリューゲル」であると。そして、イタリア人文主義文化とネーデルラント民衆文化は単純に対立的・相互排他的に捉えられるべきではないと。その論証がいくつかの点からなされる。

 まず、ブリューゲルのイタリア体験を跡付ける。また、ブリューゲルの代表作の一つである《十字架を運ぶキリスト》をイタリア文化が浸透してくる中で自国の文化の価値を再構築しようとして描いた“ネーデルラント絵画の集大成”としての解釈を示す。さらに、ブリューゲルの作品の熱心な収集家であったヨンゲリンクの、ブリューゲル以外の作品を含めたコレクション全体の内容を検討する。
 
 
 こうして本書で示されるブリューゲル像は、筆者の意図の通り、近年のブリューゲル研究の主流である図像学などによる一枚一枚の絵画の主題の分析や解釈とは異なる新鮮なものである。つまり、一枚の絵画の解釈では困難であり、また反イタリア主義という消極的定義でも難しい、ブリューゲルを美術史の流れの(ある意味では)“主流”の中(少なくとも主流との関係の中)に位置付ける作業が行われているのである。
 
 
 この本は筆者も述べている通り専門家向けというよりは一般向けに書かれている。そこで以下では、美術史などの学問的な素養のない自分の(一般人的な)立場から本書の意義を述べてみたい。
 
 
 ブリューゲルについて書かれた(あるいは、触れられている)一般向けの本を挙げれば、中野孝次『ブリューゲルへの旅』(文春文庫)や、野間宏「暗い絵」(『暗い絵/顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫)所収)が代表的なものであろう。しかし、これらはどちらもブリューゲルがその絵を描いた時代とは切り離してブリューゲル絵画を扱っている。これは、ブリューゲルの絵が時代を超えて人々の心を掴むが故のことであるだろう。しかし、「ブリューゲルの偏愛」が唯一の絵画界とのつながりである自分のような人間にとっては、それらの本ではブリューゲル(への関心)から“美術の世界”への横への拡がりがなく、飽き足りない思いをしていた。そのような(個人的)状況での本書の登場は、自分の絵画芸術への興味・関心を切り開いてくれるものであった。
 
 
 この観点からしておもしろい点を本書の中から一つ書いておこう。それは本書の「おわりに」で触れられているブリューゲルと他の有名画家との比較である。すなわち、ブリューゲルはイタリア人文主義を知った上でフランドルの民衆文化を選択した。これとは対照的に、ブリューゲルと同じ北方の画家であるルーベンスは脱フランドル文化を標榜してイタリア美術を継承したのである。また、ブリューゲルから1世紀ほど後のオランダの画家であるレンブラントは、ブリューゲルと同様、イタリア文化を学びながらもそれとは距離をおいた受容をしたのだ。
 
 
 この3者における例だけから単純に抽出するなら、自分は非イタリア文化的な絵画が好きなようだ。大学受験の際の「世界史」という科目でただ暗記の対象であった画家たちだったのだが、その中で唯一好きになったのがブリューゲルであった。そして、ブリューゲルには及ばないまでも、他に印象に残っているのがレンブラント(の《夜警》など)とドラクロワ(の《民衆を導く自由の女神》だけ)だったのだ。
 

  
 さて、最後に本書を読んでの私的な感想を書いておく。本書を読んでいる最中、美術史や絵画のおもしろさを何度となく実感し、更なる興味をひかれるものがいっぱい出てきた。そうして思ったのが、「世の中にはまだまだおもしろいことがいっぱいある」ということだ。自分が興味を持っていてもまだ足を踏み入れていないものだけでも、まだまだたくさんある。これに今後新たに興味を持つものを加えると、とてつもないほど多くの楽しみが世の中には存在するということになる。ここに至って、人生や社会の制約を嘆きたくならずにはいられなかった。
 
 
 それ以来、限られた人生の有効な利用のために、階段の上り下りはすばやく行うようにしている。
 

[追記]
 以下のサイトでブリューゲルの絵が見られます。
 →「Web Gallery of Art
 なお、ブリューゲルの中の「BRUEGEL, Pieter the Elder」。つまり父ということ。子供たちも画家だから。
 ちなみに、風景画、民衆画から初期の風刺画(?)までどれも好き。

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