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村上春樹 『象の消滅 短篇選集1980-1991』 (新潮社、2005年)
初めて村上春樹を読破した。実は以前一度だけ長編に挑んだことがあったが、途中(といってもかなり最初の方)で止めてしまったのだ。
昔から、夏目漱石や大江健三郎のように人間の深奥をえぐり出すものこそが「良い小説」だと思い込み、その線に沿って読書を実践してきた。そして、その線の小説が好きでもあった。
そのような自分が今回初めて村上春樹を読んだ。結果、新しい「良い小説」を発見することができた。
元々この本はアメリカで出版された短篇集であり、いわば“逆輸入版”とでも呼べる本である。ここに収録されている17の短篇が村上春樹の作品群の中でどういう位置付けを与えられているかは(初期の短篇であること以外)分からないが、なかなか一般的な人気のあるものが収められているようだ。収録作品は具体的には、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「パン屋再襲撃」、「眠り」、「ファミリー・アフェア」、「中国行きのスロウ・ボート」、「沈黙」、「象の消滅」など。
さて、本題である本の感想に入る前に、ここで一つ言っておきたいことがある。それは、大手ネット書店「アマゾン」の読者レビュー(書評)についてだ。アマゾンのレビューは一般読者が自由に書き込むことができ、そのレビューを一般読者が自由に評価することができるという「自律的な市民社会」の理想像を思わせるような空間である。そして、本を購入する際の手掛かりとして大いに役立つものである。
今回、村上春樹作品を初めて読んでみて、村上春樹の評価を知りたくなったためアマゾンの読者レビューを読んでみた。しかし、そこで気になることがあった。先に言っておくが、それはアマゾンのレビューのシステムやその意義や役割とは全く無関係であり、トレードオフの関係にあるものでもない。関係あるのはレビュアー(書評者)である。
どういうことかと言うと、レビューであまりにも感覚に頼りすぎる「感想」が多いことである。もちろん、小説を「楽しい」「つまらない」と感じるのは感性の問題であり、それをそのまま楽しむなり、レビューに書くといった楽しみ方を否定するものではない。(この点は誤解されやすいと思われるため強く強調しておきたい。)
その上で、しかしながら、自分の感想や感動をより多くの人に伝えたいと思うならば、その感性で感じたものを言語化する努力をするべきではないだろうか? また、その作品を非難する場合にはその理由を言語化する道義的必要はより高まるのではないだろうか?(しつこく繰り返すが、言語化せずに楽しむ方法を全く否定するつもりはないし、むしろ、肯定している。自分も全ての作品の感想を言語化しようとするわけではない。)
そして、何より、自分の持った感想を言語化しようとする「過程」が読書の楽しみを増大させてくれるというのが重要だ。すなわち、第一により深くじっくり作品を味わおうとするようになる。第二に、言語化するために自己の感覚(感想)をじっくり内省する必要があるため自己に対する理解が一層深まる。
この読書の楽しみの第2工程(第1工程は感性で楽しむ)は読書の楽しみを2倍にしてくれる。お薦めだ。
さて長くなったが、以上のような考えに基づき、以下では本書の感想を“できるだけ”言語化(全てを言語化するのは困難)して述べていきたいと思う。ただ、後に説明するように、個々の作品より村上作品全体への感想が多くを占める。
初期作品というのはその作家のエッセンスが詰まっていると言われる。そして、短篇というのは長篇のための“仕掛け”の実験的性質を帯びると言われる。ゆえに初期短篇集である本書は村上春樹を知るのにうってつけであるように思われる。
以上のような考えのもと、あたかも村上作品を多く読んでいるかのようなスタンスで感想を書いていく。
本書に収録されている短篇は、一つの共通点を持っている。それは、扱われている題材がどれも、“普段は意識もされずに通り過ぎてしまっている日常の中の一断片”であることだ。
この点では、戦後派である野間宏や大江健三郎が戦争という非日常的な状況下での心の闇を描いたのとは対照的である。また、同じ日常であっても野間や大江と同様に実存の苦悩を描いた夏目漱石や芥川龍之介とも異なっている。
しかしながら、それにもかかわらず村上春樹の小説に“浅い”という印象は受けない。それはただ日常を描くのではなく、日常の中の見過ごされがちな、“あり得たかもしれないもう一つの日常”を(ときに非現実的に、ときに象徴的に)描いているために、哲学的な“深み”が出てくるからだと思われる。したがって、村上作品を端的に表す適切な表現は“軽くて深い”である。
この“深み”によって村上作品は二度三度と読み返したくなる。あるいは、一つ一つの作品を丁寧に深く読み込みたくなる。
そんなわけで、ここで一つ一つの作品の解釈と感想を書いていくわけには行かない。そこで、本書に収録されている17の短篇の中で個人的に気に入った作品を挙げて一言述べるにとどめる。(いつか気が向いたらこのブログで個々の作品についての感想を書いてみたい。)
それで、気に入った作品は、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「眠り」、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアンの蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」、「TVピープル」。
この中で「一番」を強いてあげれば、本書のトップを飾っている「ねじまき鳥と火曜日の女たち」。後に長篇にもなった作品である。この作品には、村上春樹作品に共通する“一つの”重要な視点が、登場人物の女性の発言の中に出てきている。そして、それはこの小説を貫くテーマでもある。
「「あなたそれほど自分の能力に自信が持てるの? あなたの頭の中のどこかに致命的な死角があるとは思わないの?」」(p40)
キーワードは「死角」である。そして、この女性の問いかけに対して主人公である「僕」が考える。
「死角、と僕は思った。たしかにこの女の言うとおりかもしれない。僕の頭の、体の、そして存在そのもののどこかには失われた地底世界のようなものがあって、それが僕の生き方を微妙に狂わせているのかもしれない。
いや違うな、微妙にじゃない。大幅にだ。収拾不可能なほどにだ。」(p40)
「死角」の存在を明示的に主人公(あるいは読者)に気付かせる。“終りなき日常”に、画期的で新鮮な別の視点を与えているのだ。これによって読者は新しい視点を手に入れることができ、今までとは違う“生”(あるいは日常)を生きることができる。ちなみに、これと似た仕掛けは、個人的に気に入っている作品の一つである「ローマ帝国の崩壊~」にもある。すなわち、歴史的大事件と日常の類似性を描くことで、日常を大きく捉え直すとともに、歴史的大事件を小さく捉え直させているのだ。
ここで、ついでにもう一つ、村上作品の“一つの”重要な視点であると思われる一節を他の作品から引用しておく。それは「象の消滅」という本全体のタイトルにもなっていて、本書の最後を飾っている作品に出てくる。
「ときどきまわりの事物がその本来の正当なバランスを失ってしまっているように、僕には感じられる。」(p425)
「本来の正当なバランスを失う」というのも日常に新しい息吹を送る視点であり、その視点から小説は展開している。この文章から読者の中では、「本来のバランス?」、「正当なバランス?」、「バランスを失う?」といった(主に日常についての)疑問への(哲学的)思考がスタートすることになるのだ。そして、この視点から日常を切り取るという手法も、本書の中の他の小説で使われている。(例えば、「踊る小人」)
一方、17の短篇の中で異質に感じた作品が一つある。それは「沈黙」である。なぜなら、メッセージが社会的であり、また、若者の実存的悩みに対して直接的に応えているからだ。だからといって、この作品は嫌いではないのだ。何せ、社会的なメッセージというのが前近代的な「日本社会」への批判ともなっているように感じられるからだ。(そして、このテーマは大江健三郎の初期の作品に近いと思われる。)
さて、以上、村上作品の中の一般的特徴(と、その例外)を中心に論じてきた。しかしながら、村上春樹の持つ題材や技術の引き出しはとても多い。それはこの短篇集を読んだだけでも十分感じることができる。したがって、実際はほとんどの作品が、村上作品に通底する共通性を有しつつも、その作品特殊のテーマやメッセージを持っているのだ。
これは村上春樹をさらに読み進めることを強いる。時間という限りない資源をいかに配分するか、難しい問題だ。