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小谷野敦 『評論家入門』 (平凡社新書、2004年)
本書は評論・評論家とは何かを学問との対比をうまく使いながら、明らかにしていく。その過程で、小林秀雄、江藤淳、柄谷行人、河合隼雄など様々な有名評論家が俎上に載せられ、斬り捨てられていく。その斬り口は爽快でおもしろい。が、ただ、おもしろおかしく書いている訳ではなく、とてもまっとうで重要な観点から批判がなされているのである。
筆者が本書で評論を評価するのに用いるのは、「学問8割、はみ出し2割」という基準だ。具体的には、論理であり、主張の論証に用いる証拠の内容であり、引用の仕方といったものである。つまりこれらは、いわば最低限のルールだ。
これを聞く限り当然だと思われる、これらの観点から有名評論を再評価するとき、そのひどさには驚かされる。例えば、筆者は小林秀雄について様々に批判する。まずは34才のときの梅原猛の文章を引用して小林秀雄の非論理性を批判する。
「小林氏はベルグソンの笑いの分析の「精妙さ」に驚き入り、その「天才」に専ら感心しているらしい。(中略)
彼はベルグソンの笑いの分析に感心するばかりで、笑いがどういう現象であるか己の頭で考えようとはしないばかりか、ベルグソンの笑いの分析が正しいかどうかさえ、一度も疑って見ようとはしていないかのようである。(「梅原猛著作集1 闇のパトス」)」(p67)
また、彼の求道者的評論について以下のように批判する。
「「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」。いかにも深遠なことを言っていそうで、その実、何のことだか分からない。まさに、政治家や商人の言葉である。」(p70)
なるほど、確かにこれでは評論なんていう高等なものではなく、『聞く人の心に残るスピーチ集』系のハウツー本と一緒に分類されるべきものだ。
私は、かねてから上に名前を挙げたような人たちの本はあまり読んでこなかった。それは、漠然とした“胡散臭さ”が読むことを避けさせていたからだ。今回本書を読んで、その漠然とした気持ちの理由が分かるとともに、その正しさを確証することができた。また、この「評論を論理的に読解する」という作業は自分でいずれはしなくてはいけないと考えていたので、これを著者が行ってくれてとてもありがたいと感じた。
もちろん、著者と同様に、私も「閃きの評論、地を這う論文」であって、評論と学問とは異なるから、完全な論理や論証は必要ではないと考えている。しかし、偉そうに何かを評価するということを言葉を用いて行う限りにおいては、最低限の基準は満たされるべきだ。例えば、学問のような厳密な論証が行えない性質の主張なら、仮説的に主張するとか、少なくても自己の主張の不完全さは自覚しておくとか。そうでなければ、議論はおろか、基本的なコミュニケーションすら行えない。
これらは、いわば評論の世界の、“法の支配”ならぬ、“論理の支配”といったものであり、評論の世界もようやく「前近代から近代へ」という問題意識が芽生え始めたようだ。