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 川西政明 『小説の終焉』 (岩波新書、2004年)

 前回の更新から随分開いてしまいました。「時間はないけど、更新もしなくては」というジレンマの中、30分制限で記事を書くことにしました。

 さて、本書は、「小説の終焉」をあらゆる事例を用いて証明している。具体的には「私」、「家」、「性」、「戦争」、「原爆」、「歴史」といった様々に小説で論じられてきたテーマと、「芥川龍之介」、「大江健三郎」、「村上春樹」といった日本の小説界の代表的作家が取り上げられている。そして、それぞれがどのように書かれてきたのか、あるいは、どのように書いてきたのかを紹介しながら、終焉へと導かれる。

 その証明の過程では様々な作品が取り上げられるため、“日本近代小説史入門”といった趣を呈する。これは、小説を“楽しむ”、あるいは、“感じる”と共に、小説を“理解する”、あるいは、“考える”ことに喜びを見出す者にとってはありがたい。本書を頼りに、読んでみたい小説がいくつも浮上してきた。

 しかしながら、本書の最大の意味はやはり、「今後の小説の行く末とは何か?」を考えることだろう。確かに、近代以降の小説なら古いもの(例えば夏目漱石)でも、生活風景が異なるくらいで、内面の描写に関しては現代でも十分通用する。そして、最近(数十年のこと)の小説はすでに書かれているテーマを扱うものが多く、主題の面での新鮮さは感じない。(あまり小説を読まない人間が言うのも僭越だが・・・)

 さてそれでは、これからの小説の主題として新たに主流になり得るものとして、どんなものが考えられるだろうか?

 さすがにこんな難問にすぐさま答えられるほど、小説について思考の蓄積はない。ただ、小説が社会の趨勢を反映するものだとしたら、野蛮化や原始化(生物としてのヒトという観点)とかか。ただ、これとて新しいとは言えないかもしれない。他には、思い浮かばない。やはり小説は終焉したのか。思えば、小説より事実の方がおもしろいことは確実だ。


〈追記〉
 トップページ下方の「リンク」の「YHの本棚」で感想文で取り上げた本の表紙の写真が見られます。ちょっと重くて表示に時間がかかることがありますが、視覚をより働かせて、このblogのイメージを膨らませることができると思います。

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 高橋誠、森恵子 『本の本音』 (生活情報センター、2004年)

 本書は2人の著者が行った10人の「論客」へのインタビューで構成されている。その10人というのは、山崎正和、西部邁、金子勝、島田裕巳、福田和也、森永卓郎、寺脇研、河上亮一、小田島雄志、田辺聖子である。インタビューでは各人の基本的な主張が簡潔に分かりやすく網羅されており、インタビュー・編集を行った2人の著者の見識と手腕の高さを示すと共に、現代の主な論点と、それに対する現在支持を受けている主張を、この1冊で知ることができるようになっている。また、各論客の著書5~10冊ほどが簡単に紹介されているのもありがたい。

 本書からの収穫を簡単に書いていこう。①山崎正和の時代を見抜く思考の鋭さはさすがだ。再認識。②西部邁の主張を知った。数理経済学もやっていたのに現代社会を分析するときには社会科学的方法の基礎や論理が怪しくなる。ただ、親米保守よりは一貫していて良い。『反米の作法』読んでみてもいい。③森永卓郎の「年収300万円時代を生き抜く」という主張は意外とまともで好感が持てる。自分の収入を明かして、それを実例に語る主張は説得力がある。④寺脇研は色々な人と激論をしているだけに、なかなかまともな主張に仕上がっている。ただ、何で一官僚がこんなに色々やってんだ?⑤中学校の先生である河上亮一は、“out of the question”。論理とか、特殊と一般とか、議論の基本を勉強し直してから出直して下さい。⑥田辺聖子はさすがに作家だけに一つ一つの言葉が綺麗で絶妙。作家かくあるべし。

子供の頃、単純な勧善懲悪だと思っていたものの論理の一部が明確化した。

 先日、宗田 理著『ぼくらの第二次七日間戦争』(徳間書店)を読んだ。この本は、映画化もされた『ぼくらの七日間戦争』に続く一連の「ぼくらシリーズ」の最新作だ。小学校高学年の頃、当時出版されていたこのシリーズを全て読破していたが、その後は、数冊を読んだ程度であった。それが、先日新聞の広告欄に同書の宣伝が掲載されており記念碑的な第1作の名を含むそのタイトルを見て、重要な新展開があるのかと興味を惹かれて読んでみた。

 内容に関しては、ストーリーの展開が粗く、雑な印象を、以前は感じたことがなかったが初めて受けた。当初中学生だった主人公たちが年齢の上では完全に大人になっていて(高校卒業あたりまではフォローしていたが…)、今の中学生達と「悪い大人狩り」をするという内容なのだが、その流れが単調で、高齢になった著者が主人公たちの精神が新たな子供たちに引き継がれたことを兎にも角にも早急に表現しようとしたものなのか、とも考えてしまった。ただこの不満な点に関しては、読み手側が変化したからか、書き手側が変化したからか、どちらの可能性もある。

 さて、そんな訳で内容的にはイマイチであったが、この本を読みながら昔、このシリーズを読んでいたときの気持ちを思い出した。それは抑圧的な教師に対して生理的に感じる反発。すなわち、“社会”に毒された大人の汚さやズル賢さや欺瞞や傲慢に対する怒りである。これらの「悪」を徹底的に抹殺する主人公たち(子供)に同じ子供である自分は共感し、同一化していたため面白く感じていたのだと思う。そのような気持ちになったのは純粋な社会正義信仰によるものだけではないように思える。つまり、このシリーズで描かれる子供の敵となる大人とは、スパルタ教師、教育ママ、援交オヤジなどであるが、こいつらの共通点は子供を一人の人格として見ないことである。これにより、子供は子供なりの尊厳を傷つけられるために反射的に反発を覚えるのである。人権という理念がこれ程まで浸透した現代社会において子供が同じ考えを持つのは当然のことだ。これら古い大人が考えるように、確かに子供は未発達で一人前ではない。しかしながら、それゆえにこそ子供の尊厳は簡単に傷つけられてしまうのである。

 さて、この本に関しては、大人に立ち向かう子供と自分を同一化することも、また、相変わらず子供の心を持ち続けている大人になった主人公たちと同一化することもできなかった。しかしそれでも、反発する子供の気持ちを想像することはできた、あるいは思い出せたと思う。そしてそこから、激しい怒りをも生起させる子供の尊厳の重要性を再認識した。子供が成長して大人になるためには、未成熟な人として扱うのではなく、大人と同じ様に一人の人格として扱われることがなければ、(ある程度、論理必然的にも)不可能なのである。

 と、書いた後で、どうしてもこの本の内容への物足りなさや疑問が消えなかったため、この『ぼくらの第二次七日間戦争』の前に出された未読の本(『ぼくらの悪魔教師』、『ぼくらの失格教師』)を読んでみた。すると、以前の刺激的なおもしろさは健在であった。どうやら自分が変わった訳でもなくただ単に失敗作(?)だっただけのようだ。こちらの本の感想は改めて書こうかと思う。

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