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子供の頃、単純な勧善懲悪だと思っていたものの論理の一部が明確化した。
先日、宗田 理著『ぼくらの第二次七日間戦争』(徳間書店)を読んだ。この本は、映画化もされた『ぼくらの七日間戦争』に続く一連の「ぼくらシリーズ」の最新作だ。小学校高学年の頃、当時出版されていたこのシリーズを全て読破していたが、その後は、数冊を読んだ程度であった。それが、先日新聞の広告欄に同書の宣伝が掲載されており記念碑的な第1作の名を含むそのタイトルを見て、重要な新展開があるのかと興味を惹かれて読んでみた。
内容に関しては、ストーリーの展開が粗く、雑な印象を、以前は感じたことがなかったが初めて受けた。当初中学生だった主人公たちが年齢の上では完全に大人になっていて(高校卒業あたりまではフォローしていたが…)、今の中学生達と「悪い大人狩り」をするという内容なのだが、その流れが単調で、高齢になった著者が主人公たちの精神が新たな子供たちに引き継がれたことを兎にも角にも早急に表現しようとしたものなのか、とも考えてしまった。ただこの不満な点に関しては、読み手側が変化したからか、書き手側が変化したからか、どちらの可能性もある。
さて、そんな訳で内容的にはイマイチであったが、この本を読みながら昔、このシリーズを読んでいたときの気持ちを思い出した。それは抑圧的な教師に対して生理的に感じる反発。すなわち、“社会”に毒された大人の汚さやズル賢さや欺瞞や傲慢に対する怒りである。これらの「悪」を徹底的に抹殺する主人公たち(子供)に同じ子供である自分は共感し、同一化していたため面白く感じていたのだと思う。そのような気持ちになったのは純粋な社会正義信仰によるものだけではないように思える。つまり、このシリーズで描かれる子供の敵となる大人とは、スパルタ教師、教育ママ、援交オヤジなどであるが、こいつらの共通点は子供を一人の人格として見ないことである。これにより、子供は子供なりの尊厳を傷つけられるために反射的に反発を覚えるのである。人権という理念がこれ程まで浸透した現代社会において子供が同じ考えを持つのは当然のことだ。これら古い大人が考えるように、確かに子供は未発達で一人前ではない。しかしながら、それゆえにこそ子供の尊厳は簡単に傷つけられてしまうのである。
さて、この本に関しては、大人に立ち向かう子供と自分を同一化することも、また、相変わらず子供の心を持ち続けている大人になった主人公たちと同一化することもできなかった。しかしそれでも、反発する子供の気持ちを想像することはできた、あるいは思い出せたと思う。そしてそこから、激しい怒りをも生起させる子供の尊厳の重要性を再認識した。子供が成長して大人になるためには、未成熟な人として扱うのではなく、大人と同じ様に一人の人格として扱われることがなければ、(ある程度、論理必然的にも)不可能なのである。
と、書いた後で、どうしてもこの本の内容への物足りなさや疑問が消えなかったため、この『ぼくらの第二次七日間戦争』の前に出された未読の本(『ぼくらの悪魔教師』、『ぼくらの失格教師』)を読んでみた。すると、以前の刺激的なおもしろさは健在であった。どうやら自分が変わった訳でもなくただ単に失敗作(?)だっただけのようだ。こちらの本の感想は改めて書こうかと思う。