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 重松清 『その日のまえに(文藝春秋、2005年)
 
 
 「涙!涙!!涙!!!今年読んだ最も感動的な小説だ。ぼくはベスト1に決めました!」という、TBS「王様のブランチ」で本のコーナーを担当している筑摩書房の松田哲夫による帯の言葉に惹かれて読んだ。この短評はこの作品の評価として間違っていると思うが、確かに素晴らしい作品である。

 この本は、様々な形で死を背負い、様々な形で死に関わる、様々な人間模様を静かに描いた7篇の“連作短編”からなる。(したがって、最後まで読まないと話は完結しない。)

 視点の中心に置かれているのは、死という“点”ではなく、死に至る“過程”である。そこで描写の対象とされるのは、子供時代や若い時代の懐古、親子関係、幼い子供から見た人の死、死を宣告された人の生など。

 しかし、この小説では、一貫して“死”を中心に据えながら“幸せ”を描いている。

 そんなわけで、死の過程から浮かび上がる幸せを静かに描いたこの作品は、「涙!涙!!涙!!!」なんていう、ビックリマークのついた勢いのある激しい涙を流すような話ではない。

 むしろ、涙を流すとしても、激しい感情を伴わない、静かに頬を流れ落ちる涙、例えば、「涙。涙。涙。」というような表現が適切であるような話である。

 この点では、多少ニュアンスは違うが、T.S.エリオットの詩「うつろな人間(The Hollow Men)」の一節と似た切なさを感じる。

これが世界の終わり方だ
 これが世界の終わり方だ
 これが世界の終わり方だ
 バンともいわずにしくしくと
 
(This is the way the world ends
 This is the way the world ends
 This is the way the world ends
 Not with a bang but a whimper)

 
 ところで、実際のところ、自分はこの小説の世界の中に入りきれなかった。その原因は筆者の描く登場人物の特徴にあるように思える。

 つまり、この作品に登場するのが、多くの人が頭の中で思い描く理想的なイメージの平均値のような人たちなのである。“明るく仲がいい若い夫婦と素直な子供たち”なんて特に、絵に描いたような設定だ。

 これが、登場人物から個性を消し去り、話からリアリティを奪っているように感じた。

 しかしながら、これがこの作品をきれいな作品にしている要因であるとも思うのだが。
 
 
 
 しかし、何はともあれ、最初は綿谷りさの「蹴りたい背中」のようなつまらなさを感じていたが、4篇目の「ヒア・カムズ・ザ・サン」以降は、見事な仕掛けがあったり、主題に直接的に迫ったり、テレビドラマのような安易な場面描写に異を唱えたり、と、なかなか味わい深い作品だった。
 
 
 人それぞれに、様々な生をいき、様々な死を背負っている。それでも、社会の中で共に生きていく。それが社会だ。

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 本多秋五 『物語 戦後文学史(上)(岩波現代文庫、2005年)
 
 
 戦後間もなく刊行された雑誌『近代文学』の創刊に、平野謙、埴谷雄高らと共に関わった文芸評論家による自伝的戦後日本文学史。1966年に単行本で出版されたものの再録。この上巻では、『近代文学』創刊、「政治と文学」論争、坂口安吾、野間宏、椎名麟三、福田恒存などが取り上げられている。筆者の直接見聞したことがふんだんに取り入れられているため、その内容は、対象とされた作家の人物像とその作品とを交差させる形で語られている。

 戦後文学の歴史を現代から眺めてみて一番感じることは、帯の宣伝文句の「活気にあふれ、元気だった 文学と文学者たち」という言葉が上手く表現していくれているように思う。ここで語られる一つ一つの作品に、その作家の時代認識とそれに基づく自己主張がある。そして、その主張を他の作家たちが批判や擁護し、その相互作用の繰り返しによって文学界が活気を呈しているのだ。

 その良し悪しは措いておいて現代の文学界を考えると、多くは、一人の人間の内面、あるいは、せいぜい生活圏内の少数の人々を扱い、それを読むのはある程度固定されたファンだけである。また、社会的なテーマを扱っても、先人たちの営みとの連続性がなかったり、想定される読者が結局また一部のファンのままであったりする。完全に「タコツボ」状態である。ただでさえ多くはない読書家がさらに細分化していたのでは文学界・出版会が盛り上がるわけがない。

 思うに、現代の文学や読書には作家や作品を批評するという行為があまりに欠落しすぎているのではないかという気がするのだ。読者は自分の好みの作家の作品だけを読んで満足し、自分のお気に入りの作家が批判されることを自分自身が攻撃されているように感じるために恐れ、そのお互いの暗黙の了解を守るために他の作家を批評することを控える。各作品を楽しむだけでなく、評価するという視点を持つようになれば、「好き/嫌い」「楽しい/つまらない」という感想だけのAmazonのレビューにも質の改善が望めるかもしれない。
 
 
 さて、本の話に戻るが、全体的な感想はもう特に思いつかない。そこで、いくつかおもしろいと思った文を引用しておこう。

 まずは、ここでも取り上げたことがある野間宏が自分の作品について、自分が思っていた感想と近いことを語っている文章が引用されていたから、さらに引用しておく。

「戦争が次第にはげしくなるにつれて、現代の日本文学のなかには、戦争の重みを支えきれるだけの文学がないということ・・・・・戦争がもたらす不安や苦しみや暗さを、うちから拭い取って、自分自身の歪みや汚れや醜さを正し、下から支えて生かしてくれるようなものが、現代の日本の文学にはひとつもないということ」(「自分の作品についてⅠ」)を感じたという。(p150)

 ただ、次のような文になると、さすがに作品を読んでも全く想像だにしなかった内容である。

「ジョイスやプルーストの方法を自分が採用しなければならなかったのは、これらの文学のもっている精密な意識追求の方法が、時代の弾圧と肉体の抑圧とによって、自分のなかにとじこめられた自分の意識内容を解放する方法であったからだと考える。」(「自分の作品についてⅡ」)(p150)

 
 
 次に、椎名麟三の作品の人を惹きつけるところについて書かれた箇所。

椎名麟三には、すこぶる難解なものがある。枯木のオブジェ、とでもいってみたいものがある。謎めいたものがある。それが戦後の一時期には、椎名麟三の魅力でもあったと思われる節がある。謎や空白に直面して、積極的に読者が想像力をはたらかせて読み込む、人生究極の難問題について、頭の血管を怒張させて読む、その緊張感が愛されたのだと思う。一読してただちに理解されるものしか受けつけぬ、泰平無事の今日では考えられぬことである。戦後なればこそ、であった。(p191)

 椎名麟三の魅力が伝わり是非とも読んでみたいと思うのは当然として、この文章では筆者の表現の豊かさも垣間見れる。「枯木のオブジェ」は難解で分かりにくいと思うが、「頭の血管を怒張」という表現や、その頭をフルにはたらかせて読むことの効果を「緊張感」に求めたりしているところである。
 
 
 さて、この種の文学史を扱った本を読むと、読んで見たい本がたくさん出てくる。なかなか文学に時間を割くわけにもいかないために逐一チェックはしておらず、結構忘れ去られたものもあると思うがいくつか挙げておこう。

 まずは、上でも書いた椎名麟三の「深夜の酒宴」。次は、筆者が大絶賛している福田恒存訳のD.H.ロレンス『黙示録論』。他には、独創性においては小林秀雄の『無常といふ事』を「足下に眺める」とまで激賞されている花田清輝『復興期の精神』。「悪運による希望の徹底的な破滅、その絶望からの出発を語る」(p91)と評価されている石川淳「焼跡のイエス」。

 今挙げられるのはこれくらいである。福田や花田のは文学ではないが、以前から読みたいと思っていただけにより一層意欲が増した。他の小説は、文学を集中的に摂取したい気分が訪れたときには是非とも取り掛かってみたい。

 中川翔子 『しょこたん☆ぶろぐ(ゴマブックス、2005年)
 
 
 真鍋かをりと共に日本のブログ界を牽引する中川翔子の「しょこたん☆ぶろぐ」の書籍化。全身明るいピンク色のカバーは買うのに若干の恥ずかしさを催すが、そんなことにひるむ年齢ではもはやない。

 さて、注目の内容。メインは、「日常」「お気に入り」「仲間たち」といった項目ごとに分けられたブログの記事。もちろん、全ての記事が掲載されているわけではなく、更新された記事の総数からすれば一部ということになる。ただ、1章の「しょこたんの日常&素顔」はカレンダー形式になっていて、毎日のアップされた記事の数が載っている。細かい心遣いが感じられる。

 他の内容は、まず冒頭に、「成分表」「人物相関図」「用語紹介」があり、アクセス数や更新数のデータ、登場人物、“しょこたん語”やマニアックな専門用語が紹介されている。これによって、「しょこたん☆ぶろぐ」の全体像および前提知識が把握できるようになっている。

 また、「特別企画」として、しょこたんが神と崇める楳図かずおとの対談が10ページにも渡って収録されている。自分の世界の言葉と自分の感覚で語る(語ろうとする)しょこたんと、そんなしょこたんの意図あるいは才能を少しでも言語化して誉めようとする楳図かずおとの、“半コミュニケーション”もいいのだが、会話の中に出てくるしょこたんの生い立ち・歴史の方が見所だったりする。

 他には、コスプレ姿の「グラビア」と「100問100答」と「さいごギザ――(※おわりに)」がある。また、付録として「シール」が付いている。「100問100答」は答えが一行で終わっている項目も結構あり、やや物足りない。ひとえに質問の芸のなさと単調さに原因があると思われる。

 以上で1300円(+税)。ちなみに、同じ値段の真鍋かをりのブログ本とは違って全ページ、カラーの作りになっている。
 
 
 
 この本を読んで改めて、中川翔子の頭の中にはかなり特異な世界が完全に形作られているということを感じた。ここまで変わった世界を、小倉優子とは違って、これだけ“天然に”持っているというのはとても貴重だ。

 そして、これだけ人とは違ったおもしろい世界を持ったしょこたんだからこそ、ブログの書籍化にも意味が出てくる。

 つまり、一つ一つの記事での常人には思いもよらない、意表を突いた、発言や言葉使いや感性の新鮮さを楽しむだけでなく、それら一つ一つの背後に存在する“中川翔子ワールド”を感じ、探し、考えてみるという知的な楽しみがあるのだ。そして、それは、一気にまとめてしょこたんの文章や発言を読むことによってより一層促進されるタイプの営みなのである。(この意味で、「しょこたん☆ぶろぐ」を読み解くという行為は知的な行為なのである!)

 この点、真鍋かをりのブログは一つ一つの記事がよく練られ、場合によっては「ひとつの言葉を選ぶのに何十分も」かけて書かれていて、“おもしろさ”や“完成度”という点では圧倒的でも、“その文章を純粋に読んで純粋に楽しむ”以上の楽しみは見出しにくい。深みがないと言ってもいいかもしれない。

 逆に、しょこたんの場合、「文章を打つ最中はだいたい何も考えてなくて、無意識で瞬間に脳ミソに思い浮かんだことをタレ流すのみ」であるがゆえに、“しょこたんワールド”を解明するという楽しみを生むことになっている。(もちろん、その世界がおもしろいからこそ成り立つのだが。)
 
 
 さて、そんなわけで、中川翔子のブログ本は価値のあるものになっているのだが、難点が一つある。それは、しょこたんの文章や絵のセンスが引くくらいに高いこと。そして、しょこたん自身、意識することなく全面的にそれに頼っていること。

 これは、しょこたんの文を読み応援する側の存在意義を低めることになる。言わば、「自分が応援しなくてもしょこたん自身のセンスでやっていける」と、感じさせるということだ。もちろん現時点では、ファンレターに返事を書いたり、イベントがあれば参加を促したり、はよくしている。ただ、この種のことがしょこたんの中で占める重要性はそこまで高くないように思えるだけに、今後いかに読者・ファンを巻き込むことができるかが生命線になるように思われる。
 
 
 
 さて最後に、「しょこたん☆ぶろぐ」の登場人物の中でも自分がとりわけ応援・期待している喜屋武ちあき小明のこの本での扱いについて。二人とも数ページを割かれて自身が登場した記事が集められている。そして、そこでは、それなりにそれぞれの特色が出た発言をしていたりする。ただ、やはり記事をそのまま転載しただけではこの本によって更なる飛躍を期待することは難しい。残念。ただ、「しょこたん☆ぶろぐ」によって知名度は間違いなく上がっているだけに、可能性は開かれている。二人がどこか主要6(5?)チャンネルのテレビに出る瞬間を想像するだけで胸が高鳴るのだが・・・。

 瀬名秀明 『デカルトの密室(新潮社、2005年)
 
 
 物語は、人工知能をもったロボット、それを作ったロボット工学者と心理学者、他者の心が理解できない天才科学者などによる論争と事件を通して進められていく。

 そこで問題とされる主題は、ロボットと人間との境界、より具体的に言えば、「ロボットは自我(=自由意思)を持つことが可能か?」、および、「人間は自我を超えることが可能か?」という二つに絞ることができると思う。もちろん、これらの問題を解くために様々な科学的、哲学的な下位の問いが発せられている。そして、その難問を解く過程では、科学と哲学における先人の研究が縦横無尽に参照される。また、映画『2001年宇宙の旅』や小説『指輪物語』といった名作もストーリーの中で重要な役割を果たしている。

 このように、問いの難しさに加えて、解法の難しさが加わり、自分はとても完全には理解できなかった。

 とはいえ、理解できたなりに書けることを書いておく。

 まず、物語全体に渡って重要なのはデカルトである。タイトルにもなっている「デカルトの密室」とは、「デカルト劇場」と呼ばれるものの中に閉じ込められることを表している。

(機械との比較で人間らしさとは何かを考える文脈で。)ぼくには自意識がある。自我がある。これはぼくが機械でない証拠なのかもしれない。専門的な言葉でいえばメタ意識、つまり自己参照の能力があるということだ。ぼくはいま、PCのモニタを見ている。その情報はぼくの目から入って視神経を刺激し、脳の神経細胞の活動を促す。だがそれだけではPCを見ていることを自覚できないのかもしれない。脳に入ってきた情報をどこかで追跡・監視し、これはPCだと認識する主観がなければならないのかもしれない。それはあたかも脳の中に小人(ホムンクルス)がいて、脳の中の劇場に映し出された情報を眺めているような状態だ。つまり私たちの脳には、外部から入ってきた知覚情報を統合するホムンクルスの役目がどこかで不可欠なのかもしれない。しかしこの考え方は一歩間違えると、哲学者ダニエル・C・デネットが名づけた「デカルト劇場」の迷宮へとぼくたちを引きずり込む。デカルトの心身二元論のように、身体と思考する実体を分離する考え方と表面的にはよく似ているからだ。(p60)

 
 
 他人の気持ちを全く想像できず、世界の全ての人は演技をしているようにしか思えない女性天才科学者は、(人間の自我はその個人の中だけに拘束されていてその個人から外に出ることはできないという)この「密室」から抜け出すために、自分の身体を殺し、そして、インターネット上にその自我を移植し拡大する。つまり、インターネットをひとつの巨大な脳神経ネットワークにしたということである。

 また、一方、この女性天才科学者と敵対的な立場である主人公のロボット工学者は、自分が作るロボットに自由意思を持たせようとする。しかし、これは女性天才科学者から言わせれば、ロボットの人工知能が行う「思考」(≒精神)を意図的に製作者が作る「密室」の中に閉じ込めることを意味することになる。

 この、ロボットを精神という面で人間に近づける営みの限界を突破するための、あるいは、ホムンクルスとデカルト劇場との無限退行を解決するための手がかりは、「信じる」という行為や、「物語」という概念に見出される。
 
 
 以上が、自分なりに考えたこの本の最も大きなレベルでの構図である。

 あまりに単純に考えられがちなロボットと人間の違いを、かなり具体的な場面の中で根源的に考え抜いていて、自分の中の固定観念を再考させられることが多かった。また、根源的に考え抜かれていることの当然の結果なのかもしれないが、科学と哲学が必然性をもって結び付いているのを実感できた。
 
 
 
 それにしても、直感的あるいは実感的には魅力的なデカルトの心身二元論の弱点はいかにして克服されることが可能なのか? この問題意識を検討するために本書では、「ロボットらしい人間」と「人間らしいロボット」が導入されたとも言えると思う。そこで、最後に改めて、純粋にデカルト哲学の問題点について書かれた箇所を引用しておこう。

私たち人類は、まず自我を発見した。スコラ哲学の呪縛から逃れて自分の頭で考えることは、自我というものを意識し、自分の人間性を意識することに他ならなかった。人間は神から自らを切り離すことで、自分らしさを、人間らしさを、人間性を確立してきた。だがそいつは同時に、〈私〉という自己意識を見つけ出し、それをデカルト劇場の中に押し込めてしまう契機でもあったのではないか。
 (中略)
 入力された感覚情報が、あたかも脳内のスクリーンでひとつにまとまって映し出され、それを自我の主体である小人(ホムンクルス)が眺めている――だがホムンクルス自身の脳はどうなっているのだ? そこにも小さなスクリーンが存在するのか? ホムンクルスを想定したら最後、自我は無限退行してゆくだけだ。(p196-197)

デカルトはまず、人間や動物の肉体が精密な機械であることを認めた。しかし人間を人間たらしめているものは理性的魂であり、それだけは神の領域であって、いかなる機械によっても再現することは不可能だと考えた。(スウェーデン王女)エリザベスはそこに極めて鋭利な疑問を突きつけたのだ。身体が物体でできているならば、それを動かす精神もまた実体を持つものでなければならないと。デカルトの返答は歯切れの悪いものだった。(中略)(彼は)やはり心と身体がどのように作用しあっているのか、きちんと科学的に示すことはできなかった(pp198-199)

 野間宏 『真空地帯(上)(下)(岩波文庫、1956年)
 
 
 戦後第一世代の代表的作家による代表作の一つ。先月、復刊された。第二次大戦中の日本軍兵営での様子が著者自身の軍隊体験も踏まえて描かれる。

 そこに存在するのは、自己中心主義、相互無理解、相互不信。自己中心主義、相互無理解、相互不信。自己中心主義、相互無理解、相互不信・・・。そして、この暗闇は同期の兵隊、家族、恋人にまで及んでおり、救いはどこにも見当たらない。

 そんな、肯定できるものは何もない全否定されるべき軍隊生活の現実を、著者は「真空地帯」と呼ぶ。軍隊内務書の綱領の文句を置き換えながら、それは以下のように述べられる。

兵営ハ条文ト柵ニトリマカレタ一丁四方ノ空間ニシテ、強力ナ圧力ニヨリツクラレタ抽象的社会デアル。人間ハコノナカニアッテ人間ノ要素ヲ取リ去ラレテ兵隊ニナル
 たしかに兵営には空気がないのだ、それは強力な力によってとりさられている、いやそれは真空管というよりも、むしろ真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会とをうばいとられて、ついには兵隊になる。(下巻 p14)

 そんな「真空地帯」での人間“兵隊”模様を淡々と、しかし、現実主義的な精密さをもって描いているのがこの作品である。

 したがって、戦後世代の人間が戦争における現実の一面を具体的イメージを持って理解するのに適している。特に、戦場とは異なる場での戦争の一面を明らかにしている点は稀有である。
 
 
 
 それにしても、今回の『真空地帯』もそうだが、この野間宏という作家の作品はどれも、読んでも、おもしろいとか、上手いとか、見事とか、そういう感想を全く持てないのだ。

 しかし、にもかかわらず、野間宏は自分の中で妙に気になる作家なのである。

 それは『暗い絵/顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫)で衝撃を受けて以来のことだ。

 その衝撃・気になる要因の核心とは、ひとえに、この作家の小説からしみ出てくる「戦争体験が落とす陰の“深さ”」によるものだ。野間作品を読むと、戦争の傷というものは、「ここまで深いのか――」と、ただただ驚嘆するばかりなのである。

 そんなわけで、野間宏の小説を読むときはいつも、「著者(や主人公)はどこかに救いを見出すことができているか」(逆に言えば「戦争による心の闇はどこまで深いか」)ということに注意を払っている。

 ちなみに、今回取り上げた『真空地帯』では、最後の最後にほんのささやかな「救い」が出かける。しかし、それが救いになっているかは話しの結果から見ても怪しいと言えるし、やはりそもそも、あまりにささやかすぎるのだ。

 そんな著者は、後年(でもない?)、親鸞・「歎異抄」に惹かれている。実際、親鸞・歎異抄関係の本を書いてもいる。「そこに救いを見出せたのか」、そうであるなら、「いかにしてか」、というのは興味があるところだ。(実は、そんな関心から岩波新書の『親鸞』を読み始めたことがあったのだが、途中で挫折し、そのままになっている・・・。)
 
 
 
 しかし、とにもかくにも、この小説は、日本が行った戦争というものの直視しなければいけない一面を伝え遺してくれる優れた作品ではないかと思う。

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