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by ST25
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 大江健三郎 『私という小説家の作り方(新潮文庫、2001年)
 
 
 「小説家」という視点から1996~1997年に書かれた“小説家・大江健三郎”の自伝。したがって、今に至るまで影響のある子供の頃の体験や読書体験が中心に書かれている。他にも「小説中の「僕」とは誰か?」や「なぜ引用を多用するのか?」といったことも書かれていて、大江作品を読むのに役立つ前提的な知識が得られる。ちなみに、前々回取り上げた野間宏の自伝『鏡に挟まれて』と、その自己内省の姿勢といい、問題意識といい、読書法といい、小説(方法論)観といい、結構似ている。(最近、両者の共通点と相違点とを掴むことが自分の中の一つの関心事。)

 さて、この本の中で一番興味を惹いたのは、小説の方法論を獲得した経験が書かれている箇所。著者は「方法論がないと小説家として長く生きていくことはできない」として、方法論にかなり自覚的である。小説を読むときもこの点が気になってしまうと書いている。そして、「小説の方法論だとはっきり思えるもの」は、ロシア・フォルマリズムを中心に、ミハイル・バフチン、文化人類学者山口昌男が「お互いに照射しながら」視野に入ってきたという。

 特に、ロシア・フォルマリズムは具体的な視点を提示している。これについてはシクロフスキーの定義が引用されている。

《そこで生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかす必要があるためである。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義をもたないのである。》(p87、本文中の強調点は省略した)

 このロシア・フォルマリズムの「明視すること」と「異化」という方法の如何は分からないが、小説を文学的な作品として書く場合には、やはり、方法論や題材や視点の文学上における位置付けとその意義を自覚できるくらいであってほしいものだ。最近「よく売れる」小説は(いくら文学的な評価を得たはずの芥川賞を獲っていても)この点での意識が弱いために、時間が経つとともに消えてしまう可能性が高そうなものが多いのではなかろうか。

 もちろん、文学的に評価の高い作品が売れる必要はないけれど、「純文学」と一般向けの「エンターテイメント」とをしっかりとジャンル分けする必要はあるのではないだろうか。
 
 
 いずれにせよ、ノーベル賞まで手にした人がここまで率直に自分の内面や過去から、自分の小説の書き方までを吐露しているのは気持ちがいい。これも、真摯に人間を掘り下げることを小説家の倫理としてきたこと(明言はしてないが本書を読めば分かる)と、その結果得られたものの唯一性への自信から来る余裕がなせる業という気がする。

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 千住博、野地秩嘉 『ニューヨーク美術案内(光文社新書、2005年)
 
 
 画家による美術館の楽しみ方の指南と、ノンフィクション作家によるその実践。ゴッホやミレーといったポピュラーな画家の作品だけでなく、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に所蔵されている抽象的な現代美術も題材として扱われているのがありがたい。

 指南と実践という構成からも分かる通り、最近の新書の一つの潮流である、「課外授業 ようこそ先輩」(NHK)や「世界一受けたい授業」(日本テレビ)を意識した作りであるように思える。そして実際、“写実至上主義”的な小中学校の図工・美術の授業とは全く異なるオルタナティブを(当然ではあるが)提示してくれている。

 そして、具体的に挙げられている視点は、美術館の壁や照明にも着目すべきこと、絵を通して作者を見るべきこと、人物画では耳に注目すべきこと、彫刻では作品の周りの空間を見るべきことなどである。これらが実際の作品や美術館を通して説明されている。そこで入れられている作品の写真がモノクロであるため、説明されている視点がどこまで威力を発揮するのかが本書を読んだだけではいまいち分からない。これは残念だが、個々の作品を理解するのがメインではないからやむを得ないところか。

 しかし、いずれにせよ、この本を読んで、「何が何でも今すぐに美術館に行きたい!」とまではならなかった。

 ただ、本の中で紹介されているアンディ・ウォーホルの「12の電気椅子」という作品は、静かさの中に様々なイマジネーションを掻き立てるものがあり興味を持った。

 野間宏 『鏡に挟まれて――青春自伝――』 (創樹社、1972年)
 
 
 古本屋にて400円で購入。読んでみたら期待以上におもしろかった。

 「青春自伝」という副題だが、自伝として一冊の本が書かれているのではなく、いろいろなところに書かれた文章を集めたもの。したがって、内容が重複しているところもある。(それでも上手い具合に自伝になっているが。)書かれた年月は記されているが、初出や編まれた経緯などは一切不明。いかにも昔の本らしい。

 各文章は、未成年時代、青春時代、革命運動、戦争、仏教などといった項目ごとにまとめられていて、生い立ちのところ以外は、著者の各作品に対応している。例えば、革命運動の項は「暗い絵」(『暗い絵/顔の中の赤い月』講談社文芸文庫、所収)、戦争は『真空地帯』(岩波文庫)、仏教は『親鸞』(岩波新書)や『歎異抄』(ちくま文庫)というように。したがって、著者の代表的な作品が描かれた背景や問題意識が詳しく分かり、非常におもしろい。

 それにしても、しかしながら、「芸術による人間認識」を目指していた著者の思考・思索の深さ、誠実さにはおそれいる。これはあくまで時代特有のものであって、この著者に限らず当時(20世紀半ば頃)やそれ以前の作家や知識人は皆そうなのだろう。しかし、自分について考え抜くことはなかなか苦しいものであり、過ぎ去りし時代にただただ感心した。

 そんな著者の自己に対するマゾヒスティックなまでの誠実さは、「序詞 わが無花果の実」に、象徴詩を好んだ著者らしい重厚な表現で見事に表されている。この「序詞」は熱く、重々しい、素晴らしい「詩」である。その一節を引用しよう。

私は錬金術師のように、深夜自分の机の引出しをぜんぶひっくりかえして、かきまわした。私は次第にいらだってきた。私は自分の努力が無駄に終るだろうとよく知っていた。しかし私は無駄と知ってなお全力をふりしぼって、自分自身をみつめていた。私の顔は次第にゆがんできた。私の形相は次第に不気味なものになりはじめる。しかもなお私は私の力をふりしぼった。私は空しい努力のなかで、二本の足を病んだにわとりのようにふるわせた。私は次第に熱病におかされ、体中じくじくしたできもので一ぱいになる。私は裏の烏が私の庭先からとびたって、みにくい声をあげるのをきいた。烏もまた私の匂いをさけたのだ。それはひとにはみせることのできない姿である。私は一つ一つ部屋の窓に鍵をかけて行く。私はだれか私をのぞいているものがいはしないかと、部屋のすき間をしらべてまわる。私は私の正体をかくしたまま、なおも、かぎ型の爪のはえた手で、私のまわりを、私のうちをかきむしる。(p9)

 
 
  この本では、野間宏という一人の作家が完成するまでの、名だたる作家たちのとの“対話”も詳細に語られている。ここでいう“対話”とは、ともに生活し雑誌を創刊した富士正晴や竹内勝太郎などとの実際の激しい議論や品評だけでなく、アンドレ・ジイドやドストエフスキーといった大作家の作品との“対話”をも含む。

 特に、後者の“対話”は、超名作を一読者としてただ読むという行為に留まらない。その大作の世界にのめり込み、その大作家の方法に没入し、そこから発展的に抜け出すためには、「私は小説の方法をば手に入れることができず、私は長い間苦しまなければならなかった」(p89)と語らなればならないくらいに深く、誠実に作品、作家と対峙しているのである。そして、そうした苦悩の中からこそ初めて、一つのオリジナリティをもった「作家・野間宏」が誕生するのである。これでこそ、読者の側としてもその作品を読み解く甲斐があるというものだろう。

 ただ、ここまでものを「書くこと」に自覚的な作家は現代ではかなり減ってしまっているように思う。楽しませることをただ一つの目的とした作家にはオリジナリティは必要ないのも確かだが。

 確かに野間宏の小説は、典型的な「昔の重くて暗い小説」である。これらに対する反動からか、今では「ライトノベル」(これがどういう作品を指すのか未だによく分からないのだが)というようなジャンルやそれに近い小説が主流である。しかし、そろそろ、両者を止揚したような、重くて深い背景を持ちつつも軽く書くような小説が(できることなら)誕生してほしいような気がする。(自分が気づいてないだけで、もう誕生しているのかもしれないが。)
 
 
 さて、この本にはたくさんの作家や小説が話の中に出てくる。その多くは肯定的に、著者を捕えたものとして出てくる。そうなると、当然それらを読んでみたくなってくる。これはいつものことである。

 しかし、その中にダンテの『神曲』が含まれているのには一種の感慨を覚える。確かに、学校教育において、『神曲』はルネサンスの初期を飾る代表的な作品だと習った。そして、よく覚えている。しかし、自分の価値観や嗜好などからして遠い存在であるように思われたダンテの『神曲』を読みたいと思う日が来るとは予想だにしなかった。関心の持ちようの重要さを改めて認識させられた。
 
 
 とにもかくにも、自己、あるいは人間、を寸分の抜け目なく認識し、完全に表現することを自分の人生にしている野間宏の生き方は、なかなかかっこいいと思った。

 東野圭吾 『黒笑小説(集英社、2005年)
 
 
 綿矢りさの芥川賞受賞騒動は、結局のところ、「芥川賞を犠牲にして金儲けをした」ということになるのではないかと思っている。「エビでタイを釣る」ように儲けたのは、綿矢りさ及び出版社である。しかし、その一方で、“芥川賞の権威”はガタ落ちすることになってしまった。つまりは、日本最高の文学賞だとほとんどの国民が思っていた芥川賞も、内実を捨てて商業主義に走り、あまりに質の悪い作品に賞を与えるのか、ということを多くの国民が知ってしまったのだ。

 また、最近では妙に「(低)年齢」にこだわる出版業界ないし各種文学賞の“ロリコン化”が甚だしい。幸いにも、読者のロリコン化は抑えられているようである。その分、読者の出版業界、各種文学賞への視線は冷たくなる一方であるが。つい先日は、活字文化の推進に熱心な読売新聞が朝刊の第3面で色々な文学賞の特集を組んでその流れなどに注意を促していた。実際、小学館文庫小説賞を15歳で受賞した河崎愛美『あなたへ』という作品などは、“普通の小学生”が書いた作文かとみまがうほどの質の低さである。
 
 
 そんな文学界・出版界の問題点をシニカルに描いた作品を数篇含む短篇集がこの本である。具体的には、量産される質の低い文学賞、勘違いする作家、商業主義に走る編集者などが描かれている。

 どの話もかなり戯画化されてはいるが、現実を見れば、笑ってばかりはいられない真実を突いているところがある。

 また、文壇に関係しないものを含めてどの話も、かなり冷笑的なスタンスで、トリッキーな仕掛けを一つ含んだものである。したがって、とてもマンガ的な軽い小説である。読んだ後に何も残らないような感覚もまさにマンガと同じである。

 そんなわけで、この本は、笑えるけれど読みごたえがなくいまいちだと個人的には思う。
 
 
 
 しかしながら、「選考会」という収録作品に出てくる、“エントリーされた作品の内容を理解することさえできない選考委員の作家”は、(今となっては落ちぶれてしまった)芥川賞の選考委員にもいるのではないだろうか。実際、「理解できなかった」ということを平気で選評で語っている人もいるくらいだから。

 劣化するばかりの文壇・出版界は何とかならないものかと嘆かずにはいられない。

 綿矢りさ 『インストール(河出文庫、2005年)
 
 
 芥川賞を受賞した話題の作家の、「文藝賞」を受賞した2001年のデビュー作の文庫化。芥川賞受賞後初の作品となる書き下ろしの短篇「You can keep it.」も収録されている。

 「蹴りたい背中」については読んだことがあり、その作品および芥川賞選評の評価について以前にこのブログで書いた。(→「蹴りたい背中」

 それで今回の「インストール」だが、読んでみていろいろな疑問に合点がいった。

 まず第一に、なぜ「インストール」が文藝賞を(それなりの必然性をもって)受賞できたのか。(「文藝賞」自体がどのような賞でこれまでどのような作品が受賞してきたのかについてはよく知らない。ただ、つい先日、綿矢りさを上回る若さの15歳の女性が受賞した。また、河出書房が主催している。)

 そして第二に、なぜ「蹴りたい背中」は(芥川賞を受賞したにもかかわらず)駄作になってしまったのか。

 答えはともに、「インストール」という作品の特異性、あるいは唯一性から導き出せる。
 
 
 それでは、「インストール」の内容を見ていく。(言うまでもなく、以下ではネタバレ等を気にせずに書いていく)

 17歳の女子高生と12歳の男子小学生が出てくるこの小説で描かれるのは、「若気の至り」、あるいは、「若者の浅はかな思考」である。

 そして、この小説の評価できるところは「文体」である。その文体は、冷笑的でポップな口語調である。その文体は、若者の内面で用いられている言葉を活字化したものであり、当然に(現代の)若者独特の軽さや(古今の)若者独特の内に秘められた反発を表すのに適したものである。

 したがって、以上から、「若者の若さや未熟さ」を描くこの小説には、軽さや反発といった若者独特の内面をそのまま活字に乗せたような文体が見事にマッチするのだ。つまり、内容と文体がぴったりはまったということだ。これが「インストール」を文藝賞受賞へと導いた一つ目の秘密。

 ちなみに、この点、「蹴りたい背中」では、「インストール」での文体そのままに、比較的成熟して冷静な高校生を描いたがために失敗作になってしまったのだ。
 
 
 さて、「インストール」には、もう一つ偶然とも呼べるような作用が働いて作品のレベルを上げることに貢献している。

 作用したのは、著者の人間の内面についての洞察力の無さである。このマイナスの力は、結果として登場人物の描写に活かされることになった。つまり、先に、この小説で描かれているのは「若気の至り」や「若者の浅はかさ」だと書いた。そうであるなら、当然、そこに登場する人物も、浅はかで、未熟で、幼稚な、思考の至らない人物になる。

 そう、浅はかで未熟な若者を描いたこの小説では、著者の人間の洞察力の無さも全く問題にならなかったどころか、むしろその若者の描写に活かされさえしたのである。
 
 
 さて、以上見てきたように、ポップな口語調な「文体」と著者の「人間の内面の洞察力の無さ」が、若者の若さや浅はかさという「内容」とマッチしたところに、この「インストール」は生まれた。

 そして、“現代の若者の言葉”を使った無理のない小説をいち早く作ったという点では、この「インストール」は何らかの賞を受賞してもおかしくなかったと言える。

 ただ、この長所はこの作家の限界をも示しているのは簡単に見て取れる。つまり、(“人間に対する洞察力のなさ”は武器にはなり得ないだろうから、)“現代の若者の言葉”という文体のみが武器であるこの作家は、その文体がぴったりと合う対象や内容を書く限りにおいてしか評価される作品は書けないのだ。だが、作家も当然、歳を取る。この作家が生き残るには、歳をとっても、年齢不相応にこの“現代の若者の言葉”という文体を使って小説を書くしか道はないのだ。一生、未成熟な中学生や高校生を描くしか。
 
 
 さて、上では「蹴りたい背中」は否定しつつも「インストール」は肯定しているような論調で書いてきた。しかし、「インストール」にも問題点は散見される。

 まずは、著者の人間の内面の洞察力がないと思わせる箇所を2箇所。これについては「蹴りたい背中」にふんだんに含まれているが、こちらにもある。

「朝子、安心して休みなさい。そしてそのありがちな悩みに自分なりの答えを見つけ出せるよう励みなさいね。」
  光一は強引にそう言って笑顔を見せた。平和主義、この子だって。男子でも同じである、ライバルに勉強させないようにしようと、必死だ。(P14)

 光一がしている友人によるこの種の「息抜きのススメ」や「不良のススメ」とでも呼べるような発言は、果たして本当に「ライバルに勉強させないように」するためのものだろうか。これはあまりに単純な解釈ではないだろうか。むしろ、この種の発言は、脱落してしまった状態の悲惨さを想像させるための冗談めいた優しさ、あるいは、実際には行うことができない現実逃避をせめて会話上で楽しもうとしている、といった解釈の方が適切ではないだろうか。いずれにせよ、少なくとも、本当に「ライバルに勉強させないように」していると解釈することには無理があることに違いはない。
 (もちろん、著者が意図的に稚拙な解釈を使ったと考えられなくもない。しかし、その後の文中に、その意図を明らかにしていると思われる箇所はなく、著者の洞察力のなさがちょうど上手い具合に登場人物の未熟さとしても解釈できるように現れたと考えるべきだろう。ただ、主人公のその後の行動を見るに、いくら何でもここまで単純な誤った解釈はしないと考える方が自然であるだけに、ここは著者の未熟さが主人公の未熟さをも上回っただけの失敗だと理解すべきである。)
 
 
 もう一箇所は、エロチャットで、同一の客に時間によって女子高生と小学生という違う人間が対応することで生じる辻褄の合わない状態への対処の教訓を書いた箇所。

結局、(中略)どの客との関係も根っこはエロでつながっているという所にある。多少強引にでもてっとり早くその根っこに話題を持っていけば、客の理性は飛んで、簡単に疑いは頭の中から消えてしまうのだ。(p105)

 設定上、特定の風俗嬢が相手をするのが売りのエロチャットであるのに、その特定の相手ではないのではと疑った人が、そんな簡単に理性をなくすことができるだろうか。
 
 
 次の問題点として、話に一貫性がなくて不自然な箇所を、これは多いが二箇所だけ指摘しておく。

 一つは、コンピューターだけへの妙なこだわり。

起床時に見たあの夕日を浴びた部屋の映像が強迫観念となって何度も目の前にフラッシュバックし、その度に恐怖を感じ、全部捨てなければ!という衝動が掻き立てられてしまう。(pp15-16)

 と言って、お母さんがおばあちゃんの代から受け継いだあのピアノから、本棚や学習机まで、部屋にある全ての家具と小物をあっけなく捨てたにもかかわらず、

最後に残ったこのコンピューターを捨てる勇気が出ない。この機械は両親の離婚がやっと決まった六年前に、おじいちゃんが買ってくれた思い出深い品物だ。(p17)

 と、なぜかコンピューターにだけこだわりを見せるのだが、その理由にも行動にも無理がある。若者らしくあらゆるものに対して反発しているなら、ピアノとコンピューターで違う感情を持つのは不自然だ。むしろ、家庭的な良き思い出があるものこそきっぱりと捨てるはずだ。(実際、ピアノはそうされている。)
 
 
 もう一つ一貫性のない不自然な箇所は、主人公の女子高生のキャラクターに関わる箇所。

 一方では、

コンピューターを見る。その中で光るエロチックな写真と、そこから広がる私の知らない世界。(p70)

 と、いかにも“うぶな女子高生”であるかのような表現をしているにもかかわらず、エロチャットを始めてみると知識も豊富でこなれた対応を見せているのだ。

 これでは、読んでいる最中に、登場人物についてのイメージが混乱してしまう。
 
 
 また、上で挙げた以外にも、他人の家に朝早くに勝手に鍵を開けて入ることや押入れの中でパソコンを起動していることを家人にバレずに行えるか、というあまりに初歩的な疑問もある。
 
 
 さて、以上が「インストール」の内容の評価である。これによって、最初に挙げた二つの疑問が解決された。

 ちなみに、この文庫のための書下ろしである短篇「You can keep it.」も、上で挙げた観点から評価することができる。

 この短篇では、描かれるのは、物を与えることでしか友達に近づけない男子大学生である。したがって、未熟で浅はかな若い人物を主人公に据えるという点では「インストール」と同様である。しかし、設定が、大学生であること、および男子であることから、あらゆるものへ反発するといった特徴もなく、その結果、文体も個性のない極めて一般的なものとなってしまっているのだ。

 若いがゆえの行動、という点で辛うじて「インストール」との共通点は見つけられるが、「インストール」「蹴りたい背中」で培われてきた“綿矢りさの文体”は全く影を潜めてしまい、本当に個性のない小説となっている。
 
 
 最後に、高橋源一郎による「解説 選ばれし者」について共感を示しつつも苦言を呈しておきたい。

『インストール』で、もっとも重要なのは、言葉が(日本語が)、ほとんど美しい音楽のように使われている(と感じられる)ことだ。(p178)

 という指摘は、自分が文体を評価したのと観点は違うが、近い評価ポイントだろう。しかし、以下の文は、テレビの野球中継で野球“観戦”をしているに過ぎない野球“解説者”と同じ愚を犯している。

ぼくは、綿矢りさを、そのような「天才」たちの間に置いてみる。デビュー作『インストール』の「完璧さ」(と初々しさ)は、彼女が、その「天才」たちの仲間であることを証明しているだろう。だが、それだけではないのではないか、とぼくの(小説家としての)本能は、告げるのである。
 /それが何なのか、正直なところ、いまのぼくにはよくわからない。
 綿矢りさは、ただ「天才」であるのではなく(どんな「天才」でも、ぼくはおそれない)、何かの「始まり」を告げ知らせるために現れたのではないか、とぼくは感じる。(pp181-182)

 
 
 
 しかし、とにもかくにも、文体だけで内容の伴わない小説は、ただの「ケータイメール」の長い版でしかない。「蹴りたい背中」を読んだとき感じたのだが、どうもこの作家は、個々の喩えであるとか、個々の表現であるとかの“形”に走り過ぎているように思える。小説において内容と文体とどちらが重要かと言えば、やはり内容ではないだろうか。そうであるなら、そこが欠けているこの作家はこの先、正直厳しいのではないだろうか。(もちろん、これから色々経験し、色々読み、色々深く考えれば、養うことができなくもないだろうが、そんな生易しい努力では厳しいままだろう。)

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