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 野間宏 『鏡に挟まれて――青春自伝――』 (創樹社、1972年)
 
 
 古本屋にて400円で購入。読んでみたら期待以上におもしろかった。

 「青春自伝」という副題だが、自伝として一冊の本が書かれているのではなく、いろいろなところに書かれた文章を集めたもの。したがって、内容が重複しているところもある。(それでも上手い具合に自伝になっているが。)書かれた年月は記されているが、初出や編まれた経緯などは一切不明。いかにも昔の本らしい。

 各文章は、未成年時代、青春時代、革命運動、戦争、仏教などといった項目ごとにまとめられていて、生い立ちのところ以外は、著者の各作品に対応している。例えば、革命運動の項は「暗い絵」(『暗い絵/顔の中の赤い月』講談社文芸文庫、所収)、戦争は『真空地帯』(岩波文庫)、仏教は『親鸞』(岩波新書)や『歎異抄』(ちくま文庫)というように。したがって、著者の代表的な作品が描かれた背景や問題意識が詳しく分かり、非常におもしろい。

 それにしても、しかしながら、「芸術による人間認識」を目指していた著者の思考・思索の深さ、誠実さにはおそれいる。これはあくまで時代特有のものであって、この著者に限らず当時(20世紀半ば頃)やそれ以前の作家や知識人は皆そうなのだろう。しかし、自分について考え抜くことはなかなか苦しいものであり、過ぎ去りし時代にただただ感心した。

 そんな著者の自己に対するマゾヒスティックなまでの誠実さは、「序詞 わが無花果の実」に、象徴詩を好んだ著者らしい重厚な表現で見事に表されている。この「序詞」は熱く、重々しい、素晴らしい「詩」である。その一節を引用しよう。

私は錬金術師のように、深夜自分の机の引出しをぜんぶひっくりかえして、かきまわした。私は次第にいらだってきた。私は自分の努力が無駄に終るだろうとよく知っていた。しかし私は無駄と知ってなお全力をふりしぼって、自分自身をみつめていた。私の顔は次第にゆがんできた。私の形相は次第に不気味なものになりはじめる。しかもなお私は私の力をふりしぼった。私は空しい努力のなかで、二本の足を病んだにわとりのようにふるわせた。私は次第に熱病におかされ、体中じくじくしたできもので一ぱいになる。私は裏の烏が私の庭先からとびたって、みにくい声をあげるのをきいた。烏もまた私の匂いをさけたのだ。それはひとにはみせることのできない姿である。私は一つ一つ部屋の窓に鍵をかけて行く。私はだれか私をのぞいているものがいはしないかと、部屋のすき間をしらべてまわる。私は私の正体をかくしたまま、なおも、かぎ型の爪のはえた手で、私のまわりを、私のうちをかきむしる。(p9)

 
 
  この本では、野間宏という一人の作家が完成するまでの、名だたる作家たちのとの“対話”も詳細に語られている。ここでいう“対話”とは、ともに生活し雑誌を創刊した富士正晴や竹内勝太郎などとの実際の激しい議論や品評だけでなく、アンドレ・ジイドやドストエフスキーといった大作家の作品との“対話”をも含む。

 特に、後者の“対話”は、超名作を一読者としてただ読むという行為に留まらない。その大作の世界にのめり込み、その大作家の方法に没入し、そこから発展的に抜け出すためには、「私は小説の方法をば手に入れることができず、私は長い間苦しまなければならなかった」(p89)と語らなればならないくらいに深く、誠実に作品、作家と対峙しているのである。そして、そうした苦悩の中からこそ初めて、一つのオリジナリティをもった「作家・野間宏」が誕生するのである。これでこそ、読者の側としてもその作品を読み解く甲斐があるというものだろう。

 ただ、ここまでものを「書くこと」に自覚的な作家は現代ではかなり減ってしまっているように思う。楽しませることをただ一つの目的とした作家にはオリジナリティは必要ないのも確かだが。

 確かに野間宏の小説は、典型的な「昔の重くて暗い小説」である。これらに対する反動からか、今では「ライトノベル」(これがどういう作品を指すのか未だによく分からないのだが)というようなジャンルやそれに近い小説が主流である。しかし、そろそろ、両者を止揚したような、重くて深い背景を持ちつつも軽く書くような小説が(できることなら)誕生してほしいような気がする。(自分が気づいてないだけで、もう誕生しているのかもしれないが。)
 
 
 さて、この本にはたくさんの作家や小説が話の中に出てくる。その多くは肯定的に、著者を捕えたものとして出てくる。そうなると、当然それらを読んでみたくなってくる。これはいつものことである。

 しかし、その中にダンテの『神曲』が含まれているのには一種の感慨を覚える。確かに、学校教育において、『神曲』はルネサンスの初期を飾る代表的な作品だと習った。そして、よく覚えている。しかし、自分の価値観や嗜好などからして遠い存在であるように思われたダンテの『神曲』を読みたいと思う日が来るとは予想だにしなかった。関心の持ちようの重要さを改めて認識させられた。
 
 
 とにもかくにも、自己、あるいは人間、を寸分の抜け目なく認識し、完全に表現することを自分の人生にしている野間宏の生き方は、なかなかかっこいいと思った。

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