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ジョゼフ・コンラッド 『コンラッド短篇集』 (中島賢二編訳/岩波文庫、2005年)
以前、このブログで『闇の奥』(岩波文庫)を取り上げた20世紀初頭のイギリスの作家ジョゼフ・コンラッドの短篇集。『闇の奥』が持っていた訴えかけてくる強い主張や奥深さを備えた神秘性はどの話もいまいち。
その中でも比較的おもしろかったのは、「エイミー・フォスター」と「伯爵」。
「エイミー・フォスター」は海を渡って辿り着いた全く言葉の通じない一人の異国人とその現地人との包摂と排除を描いた話。一人の外国人(エイリアン)が言葉の通じない空間に放り出されるというモチーフは大江健三郎の「飼育」(1958年、『死者の奢り・飼育』所収)という短篇にも見られる。どちらも人間の温かさと冷たさとを描いているところも似ている。あるいは大江健三郎がコンラッドを参考にしたかもしれない。しかし、その空間の閉鎖性(=放り込まれた異国人からしたら絶望の大きさになる)という点では大江健三郎の方が勝っている。ただ、大江健三郎の作品が第二次大戦戦後という時代設定のために世界の全体像や人種・言語の多様性が人々にすでに認識されているはずであるのに対して、コンラッドの時代は(相対的にだが)まだ「野蛮」や「未開人」という概念が通用していたであろうから、コンラッドの作品の方が迫ってくるリアリティという点では勝っていると思う。
しかし、いずれにしても、言葉が全く通じない人に遭遇して、その現地人がどう対応するかというこのモチーフは、より野性に近い人間というもの(についての作者のイメージ)を浮かび上がらせるようでおもしろい。
「伯爵」の方は、穏やかで教養のある典型的な老貴族が理不尽な力任せの暴力を受けただけで、精神的にかなり弱り、自殺に等しい人生を選ばざるを得なくなるという話。暴力の強さと、貴族=教養人の(自尊心の)ひ弱さを鮮明に描いている。物理的な“力”が支配する社会や風潮にいかに対処するかというのが「近代」の重要な問題の一つだった。描かれているのは初歩的な簡単なものではあるけれど、ある意味では「文明と野蛮」を書き続けているコンラッドらしい作品とも解釈できるのではないかと思う。
解説によると、「エイミー・フォスター」について、「コンラッドを個人的に知っていた哲学者バートランド・ラッセルは、コンラッドの作品理解のうえでキーになる作品と語っている」(p392)とのことである。ただ、この短篇集全体はコンラッドのエッセンスを簡潔に知ることができるような作品群ではない。したがって、自分のようなコンラッド素人が読んでもあまりおいしくも、おもしろくもないように感じてしまう。