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 森博嗣 『すべてがFになる(講談社文庫、1998年)
 
 
 国立大学助教授(建築学)でミステリー作家という異色の肩書きの持ち主で、それでいて多産でも知られる森博嗣のデビュー作。

 森博嗣の作品はかねてからいつか手に取ってみたいと思っていたが、先日古本屋で105円で購入し、初めて読んだ。
 
 
 感想としては、正直どこがおもしろいのかよく分からなかった。もちろん、ミステリー小説だからトリックはしっかりできているけれど、それだけの小説なら他にいくらでもある。なぜこれだけ森博嗣はメジャーなのか、首をかしげてしまう。

 とにかく登場人物の描写がしっくりこなかった。特にお嬢様である女子学生は、その言葉使いなどがコントに出てくるお嬢様みたいで、いくらなんでもリアリティがなさ過ぎると感じてしまった。そこで思ったのが、あるいはこの作品は、“マンガをイメージして読めばおもしろいのではないか”ということである。映画化で例えれば、実写化ではなく、アニメ化が適しているということである。

 とはいえ、この作品は500ページに渡り、全て活字で書かれているわけだから、「マンガを読むみたいに読む」というわけにはなかなかいかないし、評価はあくまで「小説として」のものにならざるを得ない。
 
 
 そんなこの作品にはコンピューターやインターネットが多用されている。1996年に刊行されたものであることを考えるとその先進性は間違いないと思う。

 また、天才科学者が出てくるところなど、以前取り上げた瀬名秀明の『デカルトの密室』(新潮社、2005年、→感想)とあらゆる設定が似ているなぁと読みながら思っていたら、解説を瀬名秀明がしていた。おそらく『デカルトの密室』はこの作品を意識的に模したものなのだろう。
 
 
 とにもかくにも、そんなわけで、気になっていた作家をまた一人チェックし終えることができた。これで、本屋の棚で視線をさらっと流せる領域が増えた。しかし、まだまだ未知の領域は多く、本屋の棚の前で右往左往することはまだなくなりそうにない。もちろん、それが楽しいのだが。

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 奥田英朗 『最悪(講談社文庫、2002年)
 
 
 この著者による『サウスバウンド』(角川書店)がかなりおもしろかったから、他の作品も読もうと思ったまま数ヵ月が過ぎ、古本屋で105円で見つけてようやく手に取ることとなった。おもしろかったが、『サウスバウンド』ほどのおもしろさではなかった。
 
 
 この作品のおもしろさや意義については、池上冬樹の「解説」が自分の言いたかったことも気付かなかったことも片っ端から言ってくれているから、ここでは簡単にいくつか言うに止めたい。

 まず登場するのは、“ひ孫請け”とかをするような街の小さな鉄工所の社長、学歴・男性社会の銀行組織の末端で働く女子行員、思いがけずやくざの下っ端で働かされることになった若者。こんな三人が社会の中でそれぞれに似たような理不尽な境遇に陥っていくが、おもいきって抜け出す強い意思もなく、状況は悪化する一方である。しかし、それが限界に達しようとしていたとき、ひょんなことから彼らの人生が交差する。すでにこの設定からしておもしろい話になりそうな感じはする。

 彼ら三人のそれぞれの生活は500ページほどを使って緻密に描かれる。そこでは著者の人間や社会を見る眼の確かさがいかんなく発揮されている。当事者としては最善に思えるような、かなり現実にあり得る、しかし冷静に見れば不合理で滑稽な、そんな人間の行動や思考が見事に描かれているのだ。

 ただ、三人の人生が交錯するまでに約650ページ中の500ページも使う必要があるのかどうかは少し疑わしく思う。三人がいつ交錯するのかと思いながら読んでいると少々間延びするのだ。
 
 
 しかし、いずれにしても、この小説に描かれている世界は、コミカルだがかなり現実的である。彼らがカタストロフィに至らずに済むにはどうしたら良かったのかを考え付くのは意外にも容易ではない。そう考えると、この小説は、ある意味、“現代のプロレタリア文学”かもしれない、と思ったりもする。

 大江健三郎 『取り替え子(チェンジリング)(講談社文庫、2004年)
 
 
 2000年に単行本で出された長江古義人(ちょうこうこぎと)三部作の一作目。この後に、『憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ!』と続く。先に『さようなら、私の本よ!』を読んだが別に問題はなかった。(→感想

 さて、この『取り替え子』では、大江健三郎本人がモデルの主人公・長江古義人の義兄の映画監督・吾良(ごろう)(大江健三郎と高校時代から仲の良い伊丹十三がモデル)の自殺に端を発して、古義人がドイツへ行ったり、吾良との過去が振り返られたりしている。

 このタイトルの「取り替え子」というのは、モーリス・センダックという人の絵本から来ている。そして、その意図するところは最後でよく分かり、非常に大江健三郎らしいファンタジックな内容になっている。しかし、自殺した吾良を変えた若いときの出来事である「アレ」についてなどは正直、よく理解できたとは言い難い。そのため、沼野充義の「解説」を読んで気付いたこともあった。過去の回想と現在の記述とが頻繁に行ったり来たりしていたことや、読む際に集中力が欠けていたためかもしれない。ただこの点、『さようなら、私の本よ!』はもっと分かり易く、よりおもしろかったと思う。

 それで、タイトルの「取り替え子」に託されたファンタジックなメッセージは、最後に語られる新しく生まれてくる子と死んだ人との間の過去と未来との連環だけでなく、古義人と自殺した吾良とが対話することから、死んだ人と生きている人との間の過去と現在との連環もあると考えられる。ここにおいては、裏表紙に書かれている紹介文の「大きな喪失を新生の希望へと繋ぐ」という一節によく表わされているように、過去が肯定的に評価され重要な位置を占めている。したがって、小説の中では過去と未来、過去と現在という連環がファンタジックな仕掛けやストーリーによって創り出されている。しかし、いくら未来志向とはいえ、“過去との繋がり”に力点を置くこの小説を読んでいると、共同体主義的な色彩を帯びているように感じざるを得ない。このことが、この作品に懐古趣味的で生ぬるい印象を生じさせている原因にもなっていると思う。

 ただ、小説に出てくる日本社会に対する嘆きは、(事実だとするなら)とても真っ当な点を突いていると思った。すなわち、映画監督がその映画の内容のために暴力団員に刺されたにもかかわらず、表現の自由を護るための抗議デモが起こらなかったことや、終戦後、連合国の占領期間を通じて日本人による米軍キャンプへの武装抵抗行動が一件も発生しなかったことなどである。ただ、この小説で社会的な話が重要な役割を果たしているとは思えないが。
 
 
 しかし、とにもかくにも、つい先日タイミングよく、長江古義人三部作の第二作、『憂い顔の童子』が文庫化された。本当はもっと初期の大江作品を読みたいのだけれど、三部作の最初と最後の二作を読んで真ん中の作品を読まないわけにも行かないから、これを読んでから初期作品に戻ろう。

 星野夏 『あおぞら(ポプラ社、2005年)
 
 
 “3時間”で読みきれる“インスタント本”でも読もうと思って購入した2冊のうちの1冊。新聞で大々的に宣伝されていたのを見て知っていた本。

 帯に書かれている言葉が、「裏切り、レイプ事件、恋人の死・・・。18歳・女の子の感動手記。」 で、タイトルが「あおぞら」。この時点で内容の99%が分かったようなものである。そして、実際に読んでみたところ、内容の99.5%は予想の範囲内だった。

 
 
 ここで一応念のために言っておくと、“本書について”以下で書く内容は、この本に登場する人物を軽蔑したり、犯罪行為を肯定したりするものでは断じてない。(むしろ、こんなことをいちいち書かなければいけないと思ってしまう日本における表現行為への理解度の低さを嘆きたい。)
 
 
 さて、この本を読んで感じたことを徒然なるままに箇条書きしていく。

・この本を小学校高学年から中学生の若者が読むといい。なぜなら、「不良」とか「先輩」とかに安易に憧れて、安易に近づき、安易に信頼するのは危険が伴うことを教えてくれるから。

・“事実は小説より奇なり”ということわざがあるが、この本を読んでいると、“事実は小説より平なり”とでも言いたくなる。筆者の視野や世界があまりに狭いためだろう。

・筆者は、思考力・想像力が欠如している。より正確に言えば、思考したり想像したりする習慣自体が全くない。実際、色々な事件とか犯罪に、巻き込まれたり関わったりしても、そのときの心象風景や今振り返ってみてどう考えているのかの描写がほとんどない。特に、前半は出来事の羅列が続いていて、そのときそのときの感情や考えがないままに、同じ過ちを繰り返したりしている。

・この筆者と同じような経験をした若い女の子が書いた本として、桜井亜美の『イノセント・ワールド』(幻冬舎文庫)があるが、こちらは心情描写もあり、状況描写も正確で、読み物としてのおもしろさに溢れている。

・物事に出会って思考しない、つまり、自分と向き合わない筆者の性格から当然に導かれる結果として、他人への過度の依存に陥っている。ある程度は自律もできなければ生きていくには危険が大きい。

・この本の内容とは直接には関係ないけれど、性犯罪のニュースを読んだり、聞いたりすると、自分の中の、男という生き物に対する過激な感情が盛り上がってくる。

・この本は、考えない、想像しない、そしてその結果でもあるが、視野の狭い、そんな人にならないようにしなければならないと思わせることを、これでもかというくらいに示すという点では、小学校高学年から中学生が読むとやはり良い。

・とはいえ、筆者が最初に事件等に巻き込まれたのは中学生のときであるから、筆者に自己責任を強いるべきでは決してない。

・最後に、ちょっと読書経験がある人なら誰でも分かるほどの質の低い内容なのに、金儲けのために出版し、大々的に広告まで打った出版社・編集者の罪も問われなければならない。筆者の未熟さや弱さからすれば、様々な批判も受けることになる公の場にこの文章を発表することは果たして良かったのか。
 
 
 以上。

 大江健三郎 『さようなら、私の本よ!(講談社、2005年)

 (※この種の小説においてネタバレと呼ばれるものが存在するかどうかは分からないが、とにもかくにも、何も気にせずに書きたいことを書いた。)
 
 
 ノーベル賞作家・大江健三郎の遺言。

 老人・大江健三郎が乾いた脳みそで導き出した結論。
 
 
 小さいもの、古いもの、弱いもの、役に立たないもの――、こういったものの可能性を紡ぎ出す。
 
 
 小さいものや弱いものとして登場するものには、老人、フリーター、子供、二人組、個人のテロ、徴候などがあり、これらが一貫して話の中心を占める。

 話の大枠をこう言ってしまうと陳腐に聞こえるかもしれないが、よくあるように同情を誘うように描くのではなく、著名な作家の作品やその解釈をふんだんに使って一つ一つ丁寧に書いているために、陳腐ではなく、むしろ話に奥深さが出ている。

 引用されるものを具体的に挙げると、まず、ノーベル賞詩人T.S.エリオットの詩「ゲロンチョン」(小さな老人)はとても重要な役割を果たしている。この作品から用いられる概念としては、「ゲロンチョン(小さな老人)」、「老人の愚行」などがある。また、詩自体の引用も多用されている。ここでは、老人になった大江健三郎自身の心象風景が影響していることがよく分かる。

 他にも、「ロビンソン・クルーソー」から、物語の形式自体が「ロバンソン小説」という言葉で用いられている。(ちなみに、「ロバンソン」とは「ロビンソン」をフランス語風に読んだものである。)この「ロバンソン小説」がこの本の基本的な枠組みとなっている。

 また、個人のテロについて語るところでは、「ミシマ問題」として、三島由紀夫の行動の是非を援用して議論がなされている。すなわち、“アナーキーな個人のテロには意味があるか?”という問題である。
 
 
 なお、これらの小さいものや弱いものが立ち向かう“敵”として想定されているのは「巨大な暴力装置」で、具体的には、「核」であり、それを所有し統制する「アメリカ」であり、「国家」であり、人々の「忘却」である。
 
 
 以上を踏まえて話の筋をまとめると次のようになる。

 「小さな老人(ゲロンチョン)」と「おかしな老人」が、「おかしな二人組(スウード・カップル)」を組んで、「ミシマ問題」を考えながらも、「フリーター」的な心性を持つ「若い兄弟」を直接の実行犯にし、「個人単位の暴力装置」を用いて、「巨大な暴力装置」がもたらす「絶望」に立ち向かう。そして、「小さな老人」(=主人公の長江古義人(ちょうこうこぎと)。大江健三郎本人がモチーフ。)は人類の崩壊の「徴候」を書きとめるようになる。
 
 
 さて、そんなこの小説の評価は大江健三郎の社会問題に対する考え方をどう評価するかにかかっているように思える。これを考えるために二つの点について検討する。

 一つは、“敵”や“絶望”に関係する。この小説では核や国家といった巨大な暴力装置を“敵”として想定し、それらが“絶望”をもたらしている、と上で書いた。しかし、実はこの小説には“敵”ないし“絶望”に関する詳細な記述はない。ただ、それでもこの小説は帯に書かれているように「絶望からはじまる希望」を扱っているし、読んでみるとそう理解するのが最も自然な解釈になるのである。

 これはどういうことかと言うと、大江健三郎にとっては、核や国家といった“敵”が“絶望”するほどに巨大で強いことはあまりに自明な前提だということだ。つまり、“絶望”的状況をわざわざ書かねばならない必要性を感じないということである。

 果たして、そんなに単純に割り切ってしまってよいのだろうか。こう感じる人(自分を含めて)は“敵”や“絶望”が設定されているにもかかわらずそれらの記述が少ないことに不満を覚えるのではないだろうか。
 
 
 そして、二つ目は、小さいものや弱いものに“希望”の可能性を見出すことができるのかということである。一つ目の点と同様、そんな楽観的な考えには賛同できないと考える人(これまた自分も含めて)は、小さいものや弱いものの可能性をいわば盲目的に信じている(ように見える)大江健三郎の結論的な主張に不満を感じるだろう。

 これら二つはどちらも、大江健三郎の社会問題に対する認識や考え方が反映されているということは、大江健三郎の社会問題への主張を目にしたことのある人なら誰でも同意するところだろう。

 そんなわけで、この小説の基本的な主張やメッセージに関して自分は賛同できない。
 
 
 とはいえ、個々の文章を見ると、そんな単純で楽観的な見方ばかりしているわけではないことも伺わせる。(もちろん、基本的にはやはり単純で楽観的な社会問題の認識が全体を通して貫いていると思うが。)一箇所、長いが引用する。

長江さんは、実のところ自分はあと十年もたてば、生きていない、と考えてられると思います。その十年のうちに核兵器は廃絶される、と考えますか?
――考えません。
――しかし、その十年の間に、国際政治の現場で、廃絶への動きが確実になるとは思われますか?
――冷戦の終結からの数年、ぼくが希望をもっていたのは、その動きが起るだろう、ということでした。しかし今、その考えも棄てました。現在、どの大国も、ソヴィエト後のロシアをふくめて核廃絶は考えていないでしょう。
――私は長江さんとエリオットを一緒に読んでそう感じるのですが、あなたはキリスト教の信者ではないですね?
――信仰していません。
――それでは、死後に望みを託する、ということもされないでしょう?
――キリスト教の信仰を持たないけれど、自分の死後の社会の発展に望みを託する人間はいますよ。しかしぼくについていえば、自分の死後に世界が滅びるのと核廃絶が行われるのと、どちらがありうるか、と考えることもなくなりました。
 ぼくが夢を見てワーワー泣くと、病室に付き添ってた娘が千樫(長江の妻)にいったそうです。ひとつだけその夢の記憶が残っています。どういうわけか、今日は自分が死ぬ日だとわかっている朝、新聞を隅から隅まで読んで、核廃絶の気配はないと観念して、ワーワー泣く。そういう夢です。しかも泣いているぼくは、死に向けての肉体的な苦痛と同じく、この心理的な苦痛としての失望感も、数時間たてば自分の死で消滅する、と知ってるんです。
 むしろ安心感のなかでワーワー声をあげて泣いていました。(pp360-361)

 ここでは、核廃絶に真剣に向き合ってきた大江健三郎のただならぬ無念とあまりに重い重圧からの解放とが、感傷的な言葉で語られている。そして、たった10年では核廃絶が絶望的であるという客観的な見通しが吐露されている。(しかし、それでもなお、小さいものや弱いものによる核廃絶の可能性に希望を抱いてはいるということだが。)
 
 
 そんな真摯な長江古義人(ちょうこうこぎと)(≒大江健三郎)が、全てが終った最後に、次の世代が逆転の兆しを読み取ってくれるよう願って静かに行っていること(が書かれている箇所)は、自分がこの本の中で一番好きな箇所である。その前半部分を引用する。長江古義人が最後に書いているもののタイトル「徴候(cho-ko)」を説明する箇所である。

そこで「徴候」だが、まず、signだね、表われ、しるし、徴候という・・・そして、indication、これも気配、証拠、病気の症状、というのでもあるらしい・・・symptomでもいいが、きざし、しるしとして、望ましくない、悪い事態をいうのらしい・・・かすかな徴候、としてのhintもある・・・その上で、異常を示すしるし、徴候としてのstigma・・・
 ぼくはいま本は読まない・・・(中略)・・・読むのは新聞。日本の新聞各種、ニューヨーク・タイムズ紙、ル・モンド紙、それらを隅から隅まで読む。
 そうやることでなにを読みとろうとして? 「徴候」を。いまあげた英単語のどれかひとつがあてはまるような・・・表われ、しるし、気配、証拠、症状。異常を示す「徴候」を、大小の記事に読みとって、記述する。それだけを、続けてるんだ。(pp446-447)

 蛇足であることを認識しつつ言えば、ここは、この小説において最も重要な道具であるT.S.エリオットの詩「ゲロンチョン」のこの本には出てこない一節から作られている。まるで、大江健三郎の叫びや神への祈りを表現するような内容の一節である。福田陸太郎の訳から引用する。

徴し(しる)は奇蹟、と申します。「われら徴しを見んことを!」

 

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