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大江健三郎 『さようなら、私の本よ!』 (講談社、2005年)
(※この種の小説においてネタバレと呼ばれるものが存在するかどうかは分からないが、とにもかくにも、何も気にせずに書きたいことを書いた。)
ノーベル賞作家・大江健三郎の遺言。
老人・大江健三郎が乾いた脳みそで導き出した結論。
小さいもの、古いもの、弱いもの、役に立たないもの――、こういったものの可能性を紡ぎ出す。
小さいものや弱いものとして登場するものには、老人、フリーター、子供、二人組、個人のテロ、徴候などがあり、これらが一貫して話の中心を占める。
話の大枠をこう言ってしまうと陳腐に聞こえるかもしれないが、よくあるように同情を誘うように描くのではなく、著名な作家の作品やその解釈をふんだんに使って一つ一つ丁寧に書いているために、陳腐ではなく、むしろ話に奥深さが出ている。
引用されるものを具体的に挙げると、まず、ノーベル賞詩人T.S.エリオットの詩「ゲロンチョン」(小さな老人)はとても重要な役割を果たしている。この作品から用いられる概念としては、「ゲロンチョン(小さな老人)」、「老人の愚行」などがある。また、詩自体の引用も多用されている。ここでは、老人になった大江健三郎自身の心象風景が影響していることがよく分かる。
他にも、「ロビンソン・クルーソー」から、物語の形式自体が「ロバンソン小説」という言葉で用いられている。(ちなみに、「ロバンソン」とは「ロビンソン」をフランス語風に読んだものである。)この「ロバンソン小説」がこの本の基本的な枠組みとなっている。
また、個人のテロについて語るところでは、「ミシマ問題」として、三島由紀夫の行動の是非を援用して議論がなされている。すなわち、“アナーキーな個人のテロには意味があるか?”という問題である。
なお、これらの小さいものや弱いものが立ち向かう“敵”として想定されているのは「巨大な暴力装置」で、具体的には、「核」であり、それを所有し統制する「アメリカ」であり、「国家」であり、人々の「忘却」である。
以上を踏まえて話の筋をまとめると次のようになる。
「
さて、そんなこの小説の評価は大江健三郎の社会問題に対する考え方をどう評価するかにかかっているように思える。これを考えるために二つの点について検討する。
一つは、“敵”や“絶望”に関係する。この小説では核や国家といった巨大な暴力装置を“敵”として想定し、それらが“絶望”をもたらしている、と上で書いた。しかし、実はこの小説には“敵”ないし“絶望”に関する詳細な記述はない。ただ、それでもこの小説は帯に書かれているように「絶望からはじまる希望」を扱っているし、読んでみるとそう理解するのが最も自然な解釈になるのである。
これはどういうことかと言うと、大江健三郎にとっては、核や国家といった“敵”が“絶望”するほどに巨大で強いことはあまりに自明な前提だということだ。つまり、“絶望”的状況をわざわざ書かねばならない必要性を感じないということである。
果たして、そんなに単純に割り切ってしまってよいのだろうか。こう感じる人(自分を含めて)は“敵”や“絶望”が設定されているにもかかわらずそれらの記述が少ないことに不満を覚えるのではないだろうか。
そして、二つ目は、小さいものや弱いものに“希望”の可能性を見出すことができるのかということである。一つ目の点と同様、そんな楽観的な考えには賛同できないと考える人(これまた自分も含めて)は、小さいものや弱いものの可能性をいわば盲目的に信じている(ように見える)大江健三郎の結論的な主張に不満を感じるだろう。
これら二つはどちらも、大江健三郎の社会問題に対する認識や考え方が反映されているということは、大江健三郎の社会問題への主張を目にしたことのある人なら誰でも同意するところだろう。
そんなわけで、この小説の基本的な主張やメッセージに関して自分は賛同できない。
とはいえ、個々の文章を見ると、そんな単純で楽観的な見方ばかりしているわけではないことも伺わせる。(もちろん、基本的にはやはり単純で楽観的な社会問題の認識が全体を通して貫いていると思うが。)一箇所、長いが引用する。
「長江さんは、実のところ自分はあと十年もたてば、生きていない、と考えてられると思います。その十年のうちに核兵器は廃絶される、と考えますか?
――考えません。
――しかし、その十年の間に、国際政治の現場で、廃絶への動きが確実になるとは思われますか?
――冷戦の終結からの数年、ぼくが希望をもっていたのは、その動きが起るだろう、ということでした。しかし今、その考えも棄てました。現在、どの大国も、ソヴィエト後のロシアをふくめて核廃絶は考えていないでしょう。
――私は長江さんとエリオットを一緒に読んでそう感じるのですが、あなたはキリスト教の信者ではないですね?
――信仰していません。
――それでは、死後に望みを託する、ということもされないでしょう?
――キリスト教の信仰を持たないけれど、自分の死後の社会の発展に望みを託する人間はいますよ。しかしぼくについていえば、自分の死後に世界が滅びるのと核廃絶が行われるのと、どちらがありうるか、と考えることもなくなりました。
ぼくが夢を見てワーワー泣くと、病室に付き添ってた娘が千樫(長江の妻)にいったそうです。ひとつだけその夢の記憶が残っています。どういうわけか、今日は自分が死ぬ日だとわかっている朝、新聞を隅から隅まで読んで、核廃絶の気配はないと観念して、ワーワー泣く。そういう夢です。しかも泣いているぼくは、死に向けての肉体的な苦痛と同じく、この心理的な苦痛としての失望感も、数時間たてば自分の死で消滅する、と知ってるんです。
むしろ安心感のなかでワーワー声をあげて泣いていました。」(pp360-361)
ここでは、核廃絶に真剣に向き合ってきた大江健三郎のただならぬ無念とあまりに重い重圧からの解放とが、感傷的な言葉で語られている。そして、たった10年では核廃絶が絶望的であるという客観的な見通しが吐露されている。(しかし、それでもなお、小さいものや弱いものによる核廃絶の可能性に希望を抱いてはいるということだが。)
そんな真摯な
「そこで「徴候」だが、まず、signだね、表われ、しるし、徴候という・・・そして、indication、これも気配、証拠、病気の症状、というのでもあるらしい・・・symptomでもいいが、きざし、しるしとして、望ましくない、悪い事態をいうのらしい・・・かすかな徴候、としてのhintもある・・・その上で、異常を示すしるし、徴候としてのstigma・・・
ぼくはいま本は読まない・・・(中略)・・・読むのは新聞。日本の新聞各種、ニューヨーク・タイムズ紙、ル・モンド紙、それらを隅から隅まで読む。
そうやることでなにを読みとろうとして? 「徴候」を。いまあげた英単語のどれかひとつがあてはまるような・・・表われ、しるし、気配、証拠、症状。異常を示す「徴候」を、大小の記事に読みとって、記述する。それだけを、続けてるんだ。」(pp446-447)
蛇足であることを認識しつつ言えば、ここは、この小説において最も重要な道具であるT.S.エリオットの詩「ゲロンチョン」のこの本には出てこない一節から作られている。まるで、大江健三郎の叫びや神への祈りを表現するような内容の一節である。福田陸太郎の訳から引用する。
「
徴しは奇蹟、と申します。「われら徴しを見んことを!」」