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 大江健三郎 『私という小説家の作り方(新潮文庫、2001年)
 
 
 「小説家」という視点から1996~1997年に書かれた“小説家・大江健三郎”の自伝。したがって、今に至るまで影響のある子供の頃の体験や読書体験が中心に書かれている。他にも「小説中の「僕」とは誰か?」や「なぜ引用を多用するのか?」といったことも書かれていて、大江作品を読むのに役立つ前提的な知識が得られる。ちなみに、前々回取り上げた野間宏の自伝『鏡に挟まれて』と、その自己内省の姿勢といい、問題意識といい、読書法といい、小説(方法論)観といい、結構似ている。(最近、両者の共通点と相違点とを掴むことが自分の中の一つの関心事。)

 さて、この本の中で一番興味を惹いたのは、小説の方法論を獲得した経験が書かれている箇所。著者は「方法論がないと小説家として長く生きていくことはできない」として、方法論にかなり自覚的である。小説を読むときもこの点が気になってしまうと書いている。そして、「小説の方法論だとはっきり思えるもの」は、ロシア・フォルマリズムを中心に、ミハイル・バフチン、文化人類学者山口昌男が「お互いに照射しながら」視野に入ってきたという。

 特に、ロシア・フォルマリズムは具体的な視点を提示している。これについてはシクロフスキーの定義が引用されている。

《そこで生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかす必要があるためである。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義をもたないのである。》(p87、本文中の強調点は省略した)

 このロシア・フォルマリズムの「明視すること」と「異化」という方法の如何は分からないが、小説を文学的な作品として書く場合には、やはり、方法論や題材や視点の文学上における位置付けとその意義を自覚できるくらいであってほしいものだ。最近「よく売れる」小説は(いくら文学的な評価を得たはずの芥川賞を獲っていても)この点での意識が弱いために、時間が経つとともに消えてしまう可能性が高そうなものが多いのではなかろうか。

 もちろん、文学的に評価の高い作品が売れる必要はないけれど、「純文学」と一般向けの「エンターテイメント」とをしっかりとジャンル分けする必要はあるのではないだろうか。
 
 
 いずれにせよ、ノーベル賞まで手にした人がここまで率直に自分の内面や過去から、自分の小説の書き方までを吐露しているのは気持ちがいい。これも、真摯に人間を掘り下げることを小説家の倫理としてきたこと(明言はしてないが本書を読めば分かる)と、その結果得られたものの唯一性への自信から来る余裕がなせる業という気がする。

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