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大江健三郎 『
2000年に単行本で出された
さて、この『取り替え子』では、大江健三郎本人がモデルの主人公・長江古義人の義兄の映画監督・
このタイトルの「取り替え子」というのは、モーリス・センダックという人の絵本から来ている。そして、その意図するところは最後でよく分かり、非常に大江健三郎らしいファンタジックな内容になっている。しかし、自殺した吾良を変えた若いときの出来事である「アレ」についてなどは正直、よく理解できたとは言い難い。そのため、沼野充義の「解説」を読んで気付いたこともあった。過去の回想と現在の記述とが頻繁に行ったり来たりしていたことや、読む際に集中力が欠けていたためかもしれない。ただこの点、『さようなら、私の本よ!』はもっと分かり易く、よりおもしろかったと思う。
それで、タイトルの「取り替え子」に託されたファンタジックなメッセージは、最後に語られる新しく生まれてくる子と死んだ人との間の過去と未来との連環だけでなく、古義人と自殺した吾良とが対話することから、死んだ人と生きている人との間の過去と現在との連環もあると考えられる。ここにおいては、裏表紙に書かれている紹介文の「大きな喪失を新生の希望へと繋ぐ」という一節によく表わされているように、過去が肯定的に評価され重要な位置を占めている。したがって、小説の中では過去と未来、過去と現在という連環がファンタジックな仕掛けやストーリーによって創り出されている。しかし、いくら未来志向とはいえ、“過去との繋がり”に力点を置くこの小説を読んでいると、共同体主義的な色彩を帯びているように感じざるを得ない。このことが、この作品に懐古趣味的で生ぬるい印象を生じさせている原因にもなっていると思う。
ただ、小説に出てくる日本社会に対する嘆きは、(事実だとするなら)とても真っ当な点を突いていると思った。すなわち、映画監督がその映画の内容のために暴力団員に刺されたにもかかわらず、表現の自由を護るための抗議デモが起こらなかったことや、終戦後、連合国の占領期間を通じて日本人による米軍キャンプへの武装抵抗行動が一件も発生しなかったことなどである。ただ、この小説で社会的な話が重要な役割を果たしているとは思えないが。
しかし、とにもかくにも、つい先日タイミングよく、長江古義人三部作の第二作、『憂い顔の童子』が文庫化された。本当はもっと初期の大江作品を読みたいのだけれど、三部作の最初と最後の二作を読んで真ん中の作品を読まないわけにも行かないから、これを読んでから初期作品に戻ろう。