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by ST25
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 リービ英雄 『千々にくだけて(講談社、2005年)
 
 
 アメリカ人日本語文学者による実際の9.11体験を基にした小説。

 著者の複雑な立場そのままに揺れ動く心が描写されている。日本とアメリカ、日本人とアメリカ人、日本語と英語、母親と血の繋がりのない妹、平穏と戦争など、9.11に直面して当事者的な立場と第三者的な立場との間で揺れている。

 したがって、9.11を扱ってはいるが、9.11にまさに直面している人物を描いているのであって、改めて9.11を捉え直し総括して書かれた小説ではない。

 個人的には、後者のような総括的な作品の方が好きだが、そもそも9.11を扱っている作品自体が意外にも珍しい。

 やはり、9.11は描くのが難しいのだろうか。

 もしそうであるとするなら、著者がこの小説で描いている心象風景は事件直後だけでなく、事件からしばらく経った時点にも当てはまる描写だったということになるのだが、どうなのだろうか。

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 那須正幹 『ズッコケ中年三人組(ポプラ社、2005年)
 
 
 2004年12月に完結して新聞などでも話題になった児童文学の一大傑作の、オールドファンのための続編。40歳を迎えた三人の近況報告をメインにしながらも、ちょっとした事件にも巻き込まれる。

 小学生の頃に、この那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズと、『ぼくらの七日間戦争』などがある宗田理の「ぼくら」シリーズは読んだ。それ以来、大学に入るまでほとんど読書なんてしなかったから、この二つのシリーズが自分の若かりし頃の数少ない読書経験を形作っているわけである。

 ただ、現在の自分の考え方や価値観に「ズッコケ」シリーズがどこまで寄与したかを考えると、無意識のレベルでは良く分からないが、直接的な影響はあまり大きくないように思える。もちろん、全くないとは思わないが。その一方、「ぼくら」シリーズの方は現在の自分の価値観と依然として通じるところがあるように感じる。(ただ、「ぼくら」シリーズも最近の作品のやや道徳的・共同体主義的な部分には共感できないが。)

 ところで、この本の表紙の裏には、このシリーズ全50巻の表紙の一覧が掲載されている。それを見る限り、自分が読んだのは30巻前後までであるようだ。思いのほか読んでいない作品が多いのに驚いた。さすがに、ここまで読んでいない作品が多いと、今更フォローするのも骨が折れるから諦めがつく。
 
 
 さて、それで、今回の本の内容だけれど、さすがに昔読んだだけのことはあり、物語の流れに自然に乗ることができた。ただ、上でも書いたように、今回の作品のメインは40歳になった三人の近況報告にあると思われるからストーリー展開自体は簡単なものである。「オールドファンのため」とはいえ、子供も読むであろうからそんなに「あれもこれも」と期待するべきではないのだろうけれど。

 高村薫 『新リア王(上)(新潮社、2005年)
 
 
 とりあえず上巻読了。

 政治一族に連なる保守王国・青森の老政治家と、一族から離れて仏の道に邁進する禅僧の息子との、雪降る草庵での過去を振り返りながらの魂の対決。55年体制が継続中であった80年代を舞台としている。

 厳粛な雰囲気のまま物語はじっくり進行していく。その特性に適した硬く難しい表現や言葉使いがなされているのは「さすが」という感じがする。ただ、難しい言葉を使うなら振り仮名をもう少し付けて欲しかった。

 また、実在の政治家や実在の社会問題といった「政治」が登場するが、政治全般に対する著者の認識は今のところ適切であるように思う。
 
 
 さて、それで、まだ読んだのが上巻だけだから、主題と思しきいくつかのことを書き留めておくに止める。

 
 
 まず一つは、縁、繋がり、縛り、共同性といったもの。

 福澤家という一族の繋がりや、地元の企業・農家などとの繋がりなど、目には見えないあらゆる束縛の中で生きている衆議院議員の父と、あらゆる縁を断ち切るべく僧門に入った息子との相違が描かれている。ただ、禅僧の息子は意識としては血縁などから解放されようとしているが、無意識のうちに逃れられない縛りの中へと入ってしまっている感がある。
 
 
 それから、時の流れ、変化、諸行無常といったもの。

 政治家の父は地元では「王」のような人物であるが、足下に影が伸びており、禅僧の息子とは別の息子が参議院に立候補する際の政策や演説や考え方に違和感を感じたりする。また、時間の流れの止まったような雪中の草庵で昔を回顧する行為自体が時の流れを懐かしみ、感慨にふけるものである。

 上の二つの主題の両方を抱き込むようなものとして、後半に〈莫帰郷〉(まくききょう)という仏教の言葉が出てくる。この言葉は次のように説明される。

この生死の大動を明らめんとする我らが行持においては、この身一つが現実にどこかへ帰ったとしても、その道は不行という意味になります。すなわち、どこまでもこの身一つをもって行じる仏道であるから、どこへ帰ろうが帰ったことにならないという意味での不行。 (p464)

内実がどんなふうであれ、ともかくこの身心以外に禅家は帰るところを持たないという意味 (p471)

 
 
 とりあえず、今のところ気に留めているポイントは以上の三点である。

 それで、下巻も読みたいけれど、古本屋で見つけるまで待つという気持ちが現時点では強い。何せ、話がゆっくり進み、かつ分量が多いだけに躊躇ってしまう。

 三崎亜記 『となり町戦争(集英社、2005年)
 
 
 なかなかおもしろかった。

 「となり町」と「舞坂町」との戦争を政治に無関心な一会社員の視点で描いた小説。

 まず、出だしが卓越。

となり町との戦争がはじまる。
  僕がそれを知ったのは、毎月一日と十五日に発行され、一日遅れでアパートの郵便受けに入れられている〔広報まいさか〕でだった。町民税の納期や下水道フェアのお知らせに挟まれるように、それは小さく載っていた。 (p5)

 テレビも観ず、政治に興味もない主人公にとっての戦争はこうして静かに始まる。しかし、その後も、「見えない」まま戦争は進んでいるらしい。〔広報まいさか〕で知らされる戦死者の数だけが戦争を知る唯一の手がかり。そんな主人公が偵察業務の従事者に任命され、完全に戦争に巻き込まれたかのように見えた。が、それでも、戦争は「見えない」―――。

 奇抜な設定だが、この小説の主題である“(一個人から見た)戦争のリアリティ”を見事に捉えていると思う。

 試みに、イラク戦争下における一アメリカ市民の視点で想像してみるといいだろう。

 政治に無関心な人には自国が関係する戦争の情報も無機質なものだろう。ほとんど全てのアメリカ人はイラク戦争中も普段通り仕事をし、普段通りの日常生活を送っていた。戦争が起こっていない時にお金のために州兵に登録していた市民にとっては、急に戦争の当事者となってバグダッドに送られたりする。国防省の一役人からすればその個人の戦争への賛否いかんに関わらず事務的に戦争業務を遂行する以外に手はない。2000人以上の戦死した兵士たちは間接的には自分のために死んだということになる。その2000人以上の戦死者のうち死ぬときの状況を知っている人数はどれほどいるであろうか。戦争の目的は政治家の個人的なメリットのためだったりする。

 この小説が描く一個人から見た町同士の戦争と実際のイラク戦争との決定的な違いを見つけることは意外と難しい。

 右翼も左翼も戦争に関しては感情的に過激なことばかり発言するから極端なイメージばかりが流布している。しかし、職業軍人が中心になり、総力戦でもなく、国際法上のルールに則って遂行される現代の戦争とはこんなものだろう。

 そんな戦争についてのイメージと現実との間で困惑する、この小説を象徴するような主人公の言葉を最後に引用しておこう。

わからない。ぼくにはあいかわらずよくわからない。人が一人死んだ。ぼくのために。戦争の意味がまったくわからない。ぼくがスパイ映画気取りで逃げまわっていた間に・・・。でもそのことへの罪悪感がまったくわいてこない。あまりにもリアルじゃないから。まるで遠い砂漠の国で起こった戦争で、死者何百人ってニュースで聞いてるみたいだ。まるで他人事だ。どうしてだろう。 (p169)

 小川洋子 『博士の愛した数式(新潮文庫、2005年)
 
 
 全国の書店員が投票で選んで決めるという「本屋大賞」の第一回受賞作品。その文庫化。「書店員が選ぶ」ということから、もっとエンターテイメント性の強いものか、単純な感動ものかと思っていたが、意外にも、ストーリーはいたって静かで、文学的なおもしろみもある、正統な作品だった。
 
 
 1975年以降の記憶は80分しかもたない数学の老博士、夫のいないその家政婦、その家政婦の息子、の三人によってつむがれていく物語。

 物語には博士の導きによって数字(特に素数)の神秘が出てくる。

 220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて(p32)

 こんな綺麗で落ち着いた進行の中に、湯舟、中込、亀山、パチョレックなど10数年前のプロ野球と江夏豊が出てきて見事なスパイスを効かせている。

 また、数学に脇目も振らず熱中する博士が、子供に対しても全身全霊で慈しみをふり注ぐというのも、物語に一味加えるのに役立っている。

 こうして、数字の美しさ、時代の古いプロ野球の滑稽さ、博士の子供に対する暖かさ、という様々な要素が見事に混ざり合って、この小説は深みのある作品に仕上がっている。

 個人的には、積極的に推そうとまでは思わないが、「“悪くはない”小説」という感想を持った。この著者が1991年に芥川賞を受賞していることと関連して言えば、芥川賞作家なら、これくらいは書いて欲しいと思うような感じの作品だった。

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