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by ST25
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 海堂尊 『チーム・バチスタの栄光(宝島社、2006年)
 
 
 「肥大した心臓を切り取り小さく作り直すという、単純な発想による大胆な手術」であるバチスタ手術のエリートチームで発生した連続術死の謎を万年講師のパッとしない医師・田口と、厚労省の変人役人・白鳥の二人で解き明かす医療小説。2006年「このミステリーがすごい!」大賞、通称「このミス」受賞作。

 そこそこおもしろい。

 同じく、ぶっ飛んだ医者が出てくる奥田英朗の伊良部シリーズ(『イン・ザ・プール』など3冊)よりはおもしろい。

 ただ、話の前半、万年講師の田口の斜に構えた姿勢による物事のひねくれた解釈のおもしろさと、迫真のミステリーとが同時進行していたのが、後半、変人役人の白鳥が出てくると、白鳥の強烈なキャラばかりが前面に出てきて、田口のおもしろさ、緊張感のあるミステリーは完全に陰に隠れてしまう。それぐらい白鳥は強烈におもしろいのだが、話全体を思い返すと、前半は何だったのかと虚しい印象を受ける。

 そんなわけで、著者の笑い、エンターテインメントのセンスを感じさせるいかにも現代的な娯楽小説。頭を休めたいときには最適な一冊である。

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 奥田英朗 『イン・ザ・プール(文春文庫、2006年)
 
 
 2002年に出たトンデモ精神科医・伊良部シリーズの最初の作品の文庫化。このシリーズのこの次の作品『空中ブランコ』は直木賞を受賞している。4月上旬には最新作『町長選挙』が発売される。

 『サウスバウンド』の著者による『町長選挙』というタイトルの本。「これは興味深い」ということで、予習のためにこのシリーズの第一作を読んでみた次第である。

 
 
 
 結論から言うと、「ありきたり」。

 決して下手でもつまらなくもないけれど、新鮮味も驚きもない。

 また、主人公の精神科医の描写も、まだキャラクターが定まりきっていない印象を受ける。著者のエンターテイナーとしての実力からすると片手間で書いたのではないかと思える。

 しかし、この続きの作品が直木賞を受賞したというからには、受賞作はこの本よりはさらに磨きがかけられたのかもしれない。

 そう考えると、直木賞受賞作『空中ブランコ』にも興味が沸いてくる。

 何せ、基本的にはこの作家の作品の雰囲気は嫌いではないから。

 とはいえ、この作品に感動してしまう読者(がいるとすれば)の経験値の低さ、想像力の貧困さ、視野の狭さには、他人事ながら哀れみを覚える。

 吉田豪 『元アイドル!(ワニマガジン、2005年)
 
 
 新田恵利、伊藤つかさ、いとうまい子といった80年代に活躍した元アイドルから、細川ふみえ、吉井怜、藤岡麻美といった比較的新しい元アイドルまで、総勢22人の元アイドルにアイドル当時の本音を聞いたインタビュー集。

 
 
 この本を読んでまず気になったのが著者=インタビュアーについて。

 この本に記載されているプロフィールによると、著者は「プロ書評家/プロインタビュアー」とのことである。この本を読んだ限り、確かに形式概念としてなら「プロインタビュアー」という肩書きはありうるが、実質概念としてはこの肩書きは適切ではないと思った。著者のインタビュアーとしての問題点はいくつかある。

 一つ目は、この本を読んでいると、インタビュアーと元アイドルのどちらの発言だか分からなくなって、頻繁に発言者を確認しなければならなくなること。話の導入とか補足とかにおいてインタビュアーが色々詳しく述べるのはいいのだけれど、話が結構進んでいるときにインタビュアーが元アイドルが感じたであろう感想などを先に言ってしまうのは問題だ。自分の中で勝手に物語を作ってそれに無理やり元アイドルを引き込もうとしている強引さが感じられる。相手の記憶や感情を“引き出す”のが実質概念としてのプロインタビュアーの仕事のはずだ。

 問題点の二つ目は、著者のボキャブラリーや物事への感想が貧困であること。それが顕著に現れるのが元アイドルが書いた自伝的な著書への感想を述べているところ。二箇所ほど引用しておこう。

官能的私小説『蒼い告白』(矢部美穂著)、最高でした!(p19)

細川(ふみえ)さんの告白的私小説『万華鏡』、最高に良かったですよ!(p45)

 その酷さは説明するまでもないだろう。図らずも「プロ書評家」という肩書きの不適切さまで自ら暴露してしまっている。
 
 
 そんな著者の良いところを一つ挙げれば、インタビューをするにあたって最低限の準備をしっかりしてきているところが挙げられる。こんなことさえできていないインタビュアーや記者をしばしば見かけるお寒い現実からすれば、この点は誉められるべきところに入ると思う。
 
 
 
 さて、周辺的な話が続いたが、本筋である元アイドルが語っている内容に話を移そう。

 そもそもインタビュー対象に選ばれている人たちはそれなりのエピソードや経歴を持っている人たちであることには注意が必要だけれど、それでもやはり、皆壮絶な経験をしていることには驚嘆する。

 特に、比較的古い元アイドルたちは色々理不尽な経験をたくさんしてきている。比較的新しい元アイドルの場合だと、芸能界での辛い経験といっても、グループ内の他のメンバーやアイドル仲間からの妬みや嫌がらせくらいなものがほとんどで、重くても家族に関する問題である。それに比べて、比較的古い元アイドルだと、大人たちからの様々なハラスメント、人間の限界を超えるくらいの強制労働、労働に見合うどころではない赤字な給料、頭のおかしいファナティックなファンからの迷惑行為など、無秩序な芸能界ならではの理不尽な経験をたくさんしている。

 思えば、芸能界は無法空間である。普通のサラリーマンより流動性のかなり高いプロ野球界でさえ、雇用等に関しては(年報の下げ幅など)最低限のルールが存在している。芸能界は、選手が数の限られた球団のどれかに所属しているプロ野球界より流動性が高い。しかも、芸能界はほとんどの人の場合、買い手(=使い手、雇用者、番組制作者、芸能事務所など)市場であって、ほとんどの芸能人は絶対的な弱者である。にもかかわらず、芸能界には大したルールがない。

 芸能人たち(弱者を中心に)は労働組合のような団体を結成すべきだろう。そして、厚労省や日弁連は芸能界の惨状にもっと注意を払うべきだろう。パワハラ、セクハラの蔓延する野蛮地帯に文明の光を与えんことを。
 
 
 それから、この本を読んで改めて感じたのは、芸能事務所およびマネージャーというのは本当に昔からろくなことをしないということ。それでも最近はまだましにはなってきたのだろうけれど、依然として、なぜか売り出す側がアイドルの活躍や人気にマイナス効果しかないようなことを平気でやっている。まあ、これは他の民間企業でも言えることだろうが。
 
 
 
 そんなわけで、読んであまりいい気分のしない本であった。

 天童荒太 『包帯クラブ(ちくまプリマー新書、2006年)
 
 
 『永遠の仔』、『家族狩り』の著者の最新作。どちらの作品も評判が高く、興味はあるのだけれど読んでいない。なんせ、どちらも長い。そこで、手っ取り早く読めそうな本作を読んだわけである。

 話は、数人の高校生が、心に傷を負ったその場所に包帯を巻いていくことで“出血”を止めていく、そんな「包帯クラブ」の平坦ではない活動の報告。
 
 
 
 個人的には、あまり完成度の高くない小説だと思う。

 以下、やや内容にも言及しながらその理由について述べていく。

 
 
 まず、登場人物たちは、「同じ傷でも人によってその痛みの程度は異なる」から、些細なものに見える傷であろうと、不合理に見える傷であろうと、どんな傷に対しても同等に尊重して接すること、包帯を巻くことを決める。

 その一方で、その仲間たちで「包帯クラブ」という“グループ”を作る。

 ここには、決定的な矛盾がはらんでいる。すなわち、一方では、あらゆるものを同等に肯定する開放的な相対主義を取りながら、他方では、仲間内で“グループ”を作ることで内と外とを区別する境界線を設けているのである。しかも、高校生たちはその「クラブ」の存在や活動によってこそ「孤立」を免れることができているため、彼らにとって“グループ”は重要な存在である。

 特に後者のグループの排他性に関しては、主人公たちが中学生のときに作っていた「方言クラブ」に属していたメンバー間の意味の分からない方言での会話が多用されることで、グループ内だけで通用するルールが持つ排他性を読者に印象づけている。
 
 
 さて、このようなよく見かけるが非常に解決し難い問題・矛盾をどのように突き抜けてくれるのかと、期待して読んだ。

 このような観点からして話の中でポイントとなるのは、「包帯クラブ」がインターネットを通じて見ず知らずの人の心の傷にも包帯を巻く活動をすることの顛末と、中学生のときの「方言クラブ」のメンバーの一人が離脱・孤立することという二つである。

 まず、「包帯クラブ」がより広い範囲の人たちをも巻き込もうとした活動は、人々の色々な価値観の存在の結果、共感も呼びながらも反発も生み、結局失敗に終わる。そして、彼らの普及活動は休止に追い込まれる。

 また、かつての「方言クラブ」のメンバーの孤立とそこから生じる反発は、「方言クラブ」と「包帯クラブ」という二つの極めて狭い共同体のやり方や価値観によって、そのメンバーを仲間に取り込むことで解決する。あるいは、かつての「方言クラブ」時代の仲間意識を呼び覚ましたと言えるかもしれない。

 つまり、この二つの話から言えるのは、結局、「包帯クラブ」というのは、仲間内だけで通用する全く一般性を持たないルールや規範によって連帯することで、その中のメンバーが孤立するのを防ぐことを目的として成り立っている集まりである。

 したがって、いわゆる日本社会的、共同体主義的な原理に基づいた話である。しかも、その範囲は国や地域といったものよりも狭い。もちろん、半強制的な集団ではないが。
 
 
 そこで考えるに、この小説は、特に今の若者について巷でよく言われる現象をそのまま描いただけではないかという気がするのだ。(これが現代的な現象なのか、そもそも実際には存在しない現象なのかは知らないが。)

 そんなわけで、個と集団、集団の内と外、というしばしば指摘される問題を扱ってはいるが、その切り込みの深さ、鋭さ、新しさという点で特に見るべきもののない小説だと思ったわけである。
 
 
 この作家の真価を知るには、やはり、過去の大作を読まなければならないようだ。

 野村克也 『野村ノート(小学館、2005年)
 
 
 野球、組織、リーダー、人間、人生、哲学などに関して、「野村ID野球」の包括的なエッセンスが開陳されている本。実際の有名選手の分析・評価もところどころで明らかにされている。なかなかおもしろい。ここまであらゆることを考え抜いている人は、野球界はおろか、企業界においてもあまりいないのではないかと思える。そして、野村監督の野球界のレベルアップへの貢献の大きさがよく分かる。

 
 
 自分が読み取った野村ID野球の基本は、「しっかり筋道を立てて考え、基本・基準・理念を築き、それに従ってやって失敗・敗北したのならそれは仕方がない」ということなのではないかと思う。(もちろん、これが全てではないが。)
 
 
 ただ、これは大枠であって、やや具体的なレベルでの野村監督の理論は大まかに二つに分けることができると思う。野球論(野球技術論)と人間論である。もちろん、野村監督の理論では人間論も野球に必要不可欠だということになる。

 ただ、二つを分けて考えた方が便利だ。

 というのも、野球技術論に関しては“大筋では”誰もが賛同するだろうからだ。いまどき、精神論や感覚ばかりの「解説者」や「指導者」は問題外だ。(現実にはかなりたくさんいるのだが・・・。)したがって、こちらに関して議論があるとすれば、かなり細かい技術論になるだろう。

 一方で、人間論(及び、それから導かれる野球スタイル)に関しては総体的なオルタナティブがありうる。野村監督は規律や指導・監督を重んじる立場からの人間論・野球スタイルである。これに対して最も対照的なのが、バレンタイン監督を代表とした自由や自主性や褒めることを重視する人間論に基づいた野球スタイルだ。

 思うに、両者の違いは、“人間の弱さ”を「否定して、強くする(無くす)」のか、「肯定して、利用・昇華する」のか、というところに根源的にはあるのだろう。

 いずれにせよ、バレンタイン監督は野村監督とはスタイルが違うが、それでいてデータ等も重視するだけに、野村監督と堂々と渡り合えるカウンターパートになりうる。

 もちろん、どちらがより優れているということはなく、チームの状況などによって適性がある。ロッテみたいな若いチームにはバレンタイン流が有効であろうし、ある程度、形が決まっているチームには野村流がより効果的だろう。

 こう考えると、バレンタイン監督に近い野球スタイルの原監督率いる巨人が今シーズンどこまで健闘できるかは、どれだけ若々しい活力あるチーム編成ができるかにかかっている。その点、清原、江藤などの重量級を放出したのは良い兆候の一つではあるだろう。ただ、そもそも、野村監督やバレンタイン監督のように原監督がどこまでデータ等を有効利用するかはやや疑問だが。

 そして、野村監督率いる楽天は今期どこまで戦えるか。確かに、楽天はベテラン選手が多く、この点では落ち着いた野球をする野村監督は適している。しかし、昨年を見る限り、主軸やエースや打順や守備の定位置などが固まっているとは言い難いため、一からチームを作っていかなければならない。この点では野村監督のやり方だとすぐに上位に来るのを期待することはできない。個人的には、後者の弱点は大きいから今期もこれから数年も楽天は苦しむだろうと思う。ただ、チーム形成の初期に野村ID野球の芽が蒔かれるというのはチームの将来にとっては大きな財産となるだろう。
 
 
 ところで、細かいことだが、野村監督の指導で一つ気になっていたのが、長髪・髭などの禁止である。あれだけ勝つために合理的な考えをする人が野球とは関係のなさそうなものを禁止する行為が今まで理解できなかった。この本でその理由が書かれていた。すなわち、「野球を見る側の人たちが不快に感じるから」というのがメインの理由であるようだ。しかしそうであるなら、これらの規律は時代拘束的なものであって、野村野球の核心や哲学とは直接的には関係ないと見るべきだろう。精神論だけの古い「野球指導者」が歪曲して部分的に恣意的に利用することを危惧する。
 
 
 
 それにしても、このような合理的な野球指導者が比較的古い世代の中から出てきたのは、不思議であり、奇跡でもあると思わずにはいられない。

 そして、このような本を小中学生などの若い野球少年が広く読めば、将来、野球界のレベルは飛躍的に向上するのではないかと期待できる。
 
 
 
 本の具体的な中身とはあまり関係ないことばかり書いてきてしまったが、一つには、それだけ野村監督の理論が包括的でまとまっているためであり、もう一つには、細かいところではおもしろい内容がたくさんあるために一つか二つだけを取り上げるのが難しいためである。

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