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by ST25
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 横山秀夫 『クラマーズ・ハイ(文春文庫、2006年)
 
 
 2003年に出版された小説の文庫化。

 1985年8月12日の日航ジャンボ機・御巣鷹山墜落事故に直面した地元新聞社が舞台。主人公は日航墜落事故全権デスクの悠木。彼は事故直前に登山仲間に急死されたり、息子との接し方に悩んだりする一方で、全権デスクとして紙面作りを巡って上司たちに噛み付き、部下たちと衝突する。組織の論理に凝り固まった上司たちに正面からぶつかっていく主人公の勇姿は、ただただ熱い。まさに「読ませる作品」の醍醐味。
 
 
 が、しかし!、である。

 主人公・悠木がそこまで情熱を傾けて実現しようとした“使命・目的”とは一体何なのだろうか?

 スクープ?、詳報?、小説中に出てくるのはこういったあたりだろうか。

 しかし、こんなものは「使命」足り得ない。

 ここで問いたいのは、“その先”である。

 すなわち、墜落事故に関する「スクープ」や「詳報」を掲載した新聞を作ることで成し遂げようとしたこととは何か?ということだ。

 臆することなく上司に噛み付く、「正義」の役割を果たす悠木であればこそ、彼をそのような行動に走らせる“動機”や“使命感”は重要なはずである。

 しかし、この小説にはこの点に関する視点が欠けている。

 強いてあげれば、「遺族に対する情報提供」くらいだ。これに関しては主人公はかなり熱中している。

 しかし、これでは、この小説が、「新聞社の担当者や記者は熱くなっているけど、冷静に考えると、彼らは目的意識もないし、大したこともしていない」ということをシニカルに描いているように読めてしまう。小説中の言葉を用いれば、「彼らマスコミのしていることは“マスターベーション”に過ぎない」ということになるだろう。

 もし、著者が、実はこのことが言いたかったというのであれば、「凄い!」の一言だが、この著者は新聞記者出身であってそのようなことを言うとは考えがたいし、アマゾンのレビューを見た限りこのように読んでいる人はいなかった。

 また、実際、この熱き主人公は、何ら疑問を持つことなく他社に勝つためのスクープ合戦に熱中したりしている。

 マスコミの使命・役割とは何か?

 著者が真摯に問い詰めなかったのは、結局、この問いである。

 ちなみに、この点からこの小説の主人公や新聞社を見つめ直すと、彼らが果たした役割は、先述した「(特に遺族に対しての)情報媒介」と「煽情」くらいなのではなかろうか。
 
 
 
 
 さて、もう一つ大きな問題がある。

 こちらは、かなり話の展開上重要な箇所に関してであるから、これから読もうと思っている人は読まないほうが賢明だ。この小説はミステリーであるから注意しておく。
 
 
 
 
 
 その箇所とは、その従兄弟が主人公が遠因で自殺してしまった女子大生による、主人公に当てつけたとも取れる新聞投書欄に投稿した文の最後である。「重い命と軽い命、大切な命とそうでない命」に関して問題提起している。

私の父や従兄弟の死に泣いてくれなかった人のために、私は泣きません。たとえそれが、世界最大の悲惨な事故で亡くなった方々のためであっても (p411)

 小説では、この女子大生がすぐに遺族の方々に申し訳ないと泣いて反省し、この投書の内容を取り下げている。

 しかし、新聞は命の意味を問えるのか(帯より)とか、ジャーナリズムとは何か(後藤正治による解説より)とかをこの小説が扱っているとするならば、この短文に対して主人公たちはもっと誠実に向き合い、彼らなりの答えの一片くらいは明らかにすべきだったのではないだろうか。

 これも、著者が「マスコミの使命・役割」について小説の中で真摯に問い詰めようとしなかったことが原因であるだろうが。

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 中村文則 『悪意の手記(新潮社、2005年)
 
 
 2005年、27歳のときに「土の中の子供」で芥川賞を受賞した作家による純文学作品。

 純文学の作品だから、ネタバレを気にせず自分が理解した話の流れを適宜本文を引用しながら書いておこう。純文学の場合、この自分なりの理解こそが結構人によって違っていたりするから重要なのだ。

 
 
 
 話は、少年による独白調の手記の形で綴られる。

 主人公の少年がかなりの確率で死に至る重い病気に罹り、重い症状も出てきて死を覚悟し、絶望する。自分ではどうすることもできない不幸な境遇に陥った少年の感情は、ニヒリズムとルサンチマンで満ちる。

(その頃の私は)どんな温かい言葉も、理解することができなかった。病で歪み、憎悪にまみれた私の精神は、どんな言葉も受け入れなかった。告白するが、感情を憎悪にまかせる時、確かな喜びがあったのを覚えている。時に、それは喜びを越え、明確な快楽として、私の精神を興奮させたこともあった。それは死を前にした私が得た、たった一つの喜びだったような気がする。それは理論ではなく、思念の固まりとして、病気の進行と共に私を侵食していった。 (p20)

 この辺は、神を信じる敬虔なクリスチャンであるアメリカ人医師に対する反発の場面が出てきたりと、ニーチェの世界を意識的に描いている。

 しかし、突然薬が効き出し、少年は元の健康な状態に戻る。この転換が少年に大きな影響を与える。

私は、以前までの私と確実に異なっていた。病気になる前に築き上げていた自分の生活に、何の魅力も感じることができなかった。病室のベッドで私を支配していたあの憎悪は、私の中にあった何かをひねり潰していた。私の中の、エネルギーのようなもの、生きる根源であり、世界に馴染むために必要な、固まりのような何かを。周囲の全てが遠くに見え、自分に関係ないことのように思えた。(中略)休んでいた分の勉強を始めても、以前は面倒になったものだが、その時の私は、何とも思うことができなかった。人形のように、いつまでも続けていたりした。歴史の教科書からは人間が常に愚かだったということだけがわかり、数学は、人間が勝手に作ったパズルゲームのように思えた。(中略)駐車してあった自動車の窓を理由もなく石で割ったり、水溜まりを意味もなく踏み続けていたこともあった。 (pp28-29)

 かなりのリアリティをもって死を覚悟した少年は、元の生活に戻ると、ニヒリズム、ルサンチマンといった感情さえも持つことをできなくなってしまったのだ。虚無の状態である。病気になる以前にも持っていたものが強烈になったということだろう。こうなると、もはや生きる意味を見出すことができないため、自殺することを考える。

 そんな折、親友のKがふと将来に対する悩みを漏らす。それに対し、少年の中に「一つの考え」が浮かぶ。将来に漠然とした不安を感じて「年を取りたくない」と言っているKが年を取らないように手伝ってあげることであった。つまり、Kを殺すということである。

(この考えが)浮かんだ時、心臓に鈍い痛みが、久し振りに、肉体が感情に反応するあの感覚を感じた。それは少しずつ高まり、強く早い鼓動へと変化していった。(中略)その感覚は、久し振りだったこともあり、心地好ささえ私にもたらした。 (p35)

 殺人を思い浮かべることが、虚無で不感になっていた少年に生の実感、生きる意味を思い出させたのである。

 こうして、少年は親友のKを池に突き落とし、殺人を犯してしまう。が、その代わりに、少年は自殺をせずに済むことになった。

 Kの死は自殺として処理され、少年が捕まることはなかった。

 この殺人以来、少年は良心の呵責に苛まれる。そして、このことによって生々しい生の実感を回復し、虚無の意識も消える。人を殺すことで再び生を受けたと言えるだろう。

 良心の呵責に苛まれた少年は、徹底的に悪に徹し、堕ちるところまで堕ちることで、この精神的な苦しみから逃れようとする。これは、いわば、自分が弱いがために正面から向き合って自分を深く考えることを避ける(無)意識の現れである。

 その後、少年は色々な人に接し、色々な出来事に巻き込まれる。

 悪に徹することで苦しみから逃れて楽になろうとする一方、娘を殺された母親と協力して犯人の少年(:Kを殺した自分の象徴でもある)を殺すことで自分の罪の償いをしようとしたりする。

 そんなこんなで、最後には、少年は現実逃避から脱し、殺人犯としての自分を受け入れ、現実的な生の道を選ぶことで落ち着く。

 長くなったが、以上が話の流れである。
 
 
 
 この小説は、少年を主人公として、ニヒリズム、ルサンチマン、「神は死んだ」、無気力による自殺、理由なき殺人などなど、現代的なトピックの内奥に正面から切り込み、挑んでいる。しかも、各場面での少年の心理状況は(自分からすると)なかなか的を射ていると思うし、主人公の少年の心理にも(程度の違いはあれ)理解・共感できる部分が自分にはあると感じる。

 少年による事件が起こるたびに、冷静に考えもしないうちから「理由なき殺人」とか「今どきの子供は分からない」とか騒ぎ立てる大人たちに対する、若い著者による異議申し立てでもあるだろう。

 もちろん、個々の心理を(ニーチェをそのまま使うなど)やや単純な枠組みで捉えていたり、「心理1→出来事→心理2・・・」というような図式ばった感じがあったりするけれど、個人的には面白く読んだ。

 何より軽い小説ばかりが持てはやされる中にあって、このような重い小説を書く作家が現れたことに驚きを感じると共に、稀有なだけにどうしても期待したい気になってしまうのだ。「ミニ大江健三郎」という感じもするし。(あくまで「ミニ」だけど。)

 何はともあれ、この作家の他の作品は読んでみようと思う。

 三本和彦 『「いいクルマ」の条件(NHK出版、生活人新書、2004年)
 
 
 モータージャーナリスト・三本和彦の車に対するスタンスの全体像が分かる本。

 著者の車に対するスタンスは、「ステイタス・シンボルとしてのクルマ」という意識を毛嫌いし、「ファッションとしてのクルマ」という意識をもつことを評価するというもの。

 「ステイタス・シンボルとしてのクルマ」とは、“より大きい、より速い、より高い車”を是とし、この唯一の基準の下で少しでも「上」を目指そうと国民が皆で競い合っているような、そういう「車文化」に浸ってしまっていることを言う。

 この「文化」は、車がまだ高級品だった時代に隆盛を極めたが、車が生活必需品となった現代では(「車雑誌」と一部の「オタク」以外では)だいぶ減退してきているとし、当然著者はこの流れを歓迎している。

 著者に言わせれば、「大きい車」は日本の狭い道路事情には適さないし、「速い車」は制限速度100キロまでの道では性能を出す機会がないし、「高い車」は無駄な出費で生活を苦しくしているだけ、ということになる。

 一方、著者が勧める「ファッションとしてのクルマ」とは、その人のライフスタイルや価値観や人生観に合った、背伸びしない、背の丈にあった車を持つということである。
 
 
 この本では、著者による説教じみた車に関係のないような社会や日本人に関する話がたくさん盛り込まれている。

 これは確かにうざい感じもする。

 けれど、著者の車に対するスタンス――「ファッションとしてのクルマ」を支える根源的な人生観や価値観が全て明かされていると思えば、そこそこおもしろく読める。

 特に、モータージャーナリストである著者の社会問題に対する関心には目を見張る。例えば、これから経済成長しそうな国を挙げれば、今話題の「BRIC(ブラジル、ロシア、インド、中国)」と一致しているし、マスコミとジャーナリズムとの違いを警察の裏金作りやイラク戦争の例を用いて熱く語ったりしている。

 非常に視野が広く奥行きのあるおもしろい人だという印象をもたせる。そして、車を愛しつつも、「走り屋」のような人たちを好ましく思わないという著者のような真面目な考えにいかに至るかの理由もよく分かる。
 
 
 以上述べてきたのを見ても分かる通り、この本は、具体的な車に対する言及は少ないけれど車というものを見る“視点”を提供してくれるから、生活道具として車を考える人が初めて車を購入するときには役に立つ良心的な本であろう。
 
 
 
 ちなみに、この著者はテレビ神奈川の長寿&人気番組だった『新車情報』のキャスターを務めていた。

 自分は、小中学生の頃、毎週のようにこの番組を観ていた。

 今思えば、自分の車に対するスタンスは、キャスターとして試乗レポートなどを行っていたこの著者の影響を大きく受けているかもしれない。

 もちろん、もともと自分の価値観が著者と一致していたというのもかなり大きいだろうが。

 例えば、スポーツカーは100キロの道路だと性能を発揮できないとか、リヤスポイラーはかなりの高速走行でないと意味がないとかは、この番組を見て以来、覚えたことである。

 ただ、こんな安全志向で保守的なスタンスの自分だが、モータースポーツも大好きなのだからおもしろい。(ちなみに著者はモータースポーツ経験者!)

 ちなみに、F1を見ると当然、自分の運転はそれに影響される。

 がしかし、影響のされ方は、やたらとスピードを出すという単純な方向には向かわない。

 F1ドライバーはただ闇雲にアクセルを踏んでスピードを出しているわけではない。

 彼らは、速く走りながらも、燃費や、タイヤの磨耗やブレーキの磨耗など、実にあらゆることに気を遣いながら走っている。

 そんなことから、F1を意識した自分が普段の運転で意識することは、例えば、"レス・アクセル(Less Accelerator)"とか、"レス・ブレーキ(Less Brake)"とか、"レス・エネルギー(Less Energy)"とか、である。

 そんなわけで、F1とかを短絡的に真似ている「走り屋」の人たちを見ると、自分は微笑ましさを覚える。
 
 
 
 しかし、とにもかくにも、この本を読んでこの著者をますます好きになった。こういう(走り屋のではなく)一般ユーザーの味方であるモータージャーナリストは稀有であり、存在することが奇跡的でもある。

 坂口安吾 「信長」 (『坂口安吾全集09』、ちくま文庫、1991年、所収)
 
 
 父・織田信秀が活躍していた信長15歳の頃から桶狭間の戦までを文学者らしい名調子で描いた長編歴史小説。

 敵味方にかかわらず散々「バカ」「タワケ」「織田家の無能な跡取り」と揶揄され、信長本人も「バカ」を自任する。そんな中、信長の真の実力を見抜いていたのは、美濃で権勢を誇り、愛娘を信長の妻に与えた斎藤道三ただ一人。その道三が討死すると、周囲の敵も重臣も「バカ」だけになった尾張、織田家、すなわち信長を討伐することを画策する。その中心が今川義元である。こうして、信長は四囲を敵に囲まれる。しかし、心底信長を「バカ」だと思い込んでいる彼らは、圧倒的な数的優位にもかかわらず、信長に敗れ去る。
 
 
 やはり、「小泉は信長」だ。

 小泉は、「あまり政治家は、勉強や、議論をしてはいけない」と信じ、自身が「バカ」であるかのような振る舞いを多々している。

 そんな小泉を「バカ」だと判断し、「バカ」だと批判し続ける者ほど、小泉に敗れ去ることになる。

 左翼よ、小泉を侮るなかれ!

 しかし、時すでに遅し!

  敵は八方に我先きに逃げた。またたくうちに田楽狭間の敵兵は一掃されて掻き消えていた。 (P346)

 「奇跡の扉TVのチカラ」編 『生きたい――生命のタイムリミット 17歳少女の闘病ドキュメント(tv asahi、2006年)
 
 
 心臓移植しか生きる道が残されていない少女が海外で移植を受けるための募金をしていたところ、テレビ朝日の番組制作者がそれを見かけ、「奇跡の扉TVのチカラ」という番組で募金を呼びかけ、それによって海外で移植を受けることができ元気になった、という“感動の物語”、のはずが、そうでもない。

 それは、ひとえにライターの文章があまりに幼稚なことによる。

 まるで中学生がちょっと大人ぶって書いた感想文みたいな感じなのだ。もの凄く重い出来事に対する切り込みが表面的すぎる上、ボキャブラリーも貧困。「民放のテレビ番組をそのまま本にした感じ」と言えば想像してもらえるだろうか。

 また、それに拍車をかけるのが登場人物の浅はかな発言の数々。

 例えば、東京女子医大の川合明彦医師の次の話。

川合医師は、移植医療は「マイナス1+1=ゼロ」と考えている。一人は亡くなっても一人は助かるからプラスマイナスゼロ。
 しかし今の日本のように臓器提供と移植医療の進まない現状では、「(マイナス1)+(マイナス1)=マイナス2」 (p211)

 この論理で行けば、1億円かけてアメリカで臓器移植して1人を助けるよりは、この1億円で最貧困国の数万人を救うべきだということになる。

 この医師が海外で臓器移植を受ける少女の主治医なのだから恐ろしい。
 
 
 しかし、いずれにしても、いつ死ぬか分からない、病院で寝たきりの少女が、普通に学校に通えるようになったという“事実”に対しては感動を覚える。

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