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高村薫 『新リア王(上)』 (新潮社、2005年)
とりあえず上巻読了。
政治一族に連なる保守王国・青森の老政治家と、一族から離れて仏の道に邁進する禅僧の息子との、雪降る草庵での過去を振り返りながらの魂の対決。55年体制が継続中であった80年代を舞台としている。
厳粛な雰囲気のまま物語はじっくり進行していく。その特性に適した硬く難しい表現や言葉使いがなされているのは「さすが」という感じがする。ただ、難しい言葉を使うなら振り仮名をもう少し付けて欲しかった。
また、実在の政治家や実在の社会問題といった「政治」が登場するが、政治全般に対する著者の認識は今のところ適切であるように思う。
さて、それで、まだ読んだのが上巻だけだから、主題と思しきいくつかのことを書き留めておくに止める。
まず一つは、縁、繋がり、縛り、共同性といったもの。
福澤家という一族の繋がりや、地元の企業・農家などとの繋がりなど、目には見えないあらゆる束縛の中で生きている衆議院議員の父と、あらゆる縁を断ち切るべく僧門に入った息子との相違が描かれている。ただ、禅僧の息子は意識としては血縁などから解放されようとしているが、無意識のうちに逃れられない縛りの中へと入ってしまっている感がある。
それから、時の流れ、変化、諸行無常といったもの。
政治家の父は地元では「王」のような人物であるが、足下に影が伸びており、禅僧の息子とは別の息子が参議院に立候補する際の政策や演説や考え方に違和感を感じたりする。また、時間の流れの止まったような雪中の草庵で昔を回顧する行為自体が時の流れを懐かしみ、感慨にふけるものである。
上の二つの主題の両方を抱き込むようなものとして、後半に〈莫帰郷〉(まくききょう)という仏教の言葉が出てくる。この言葉は次のように説明される。
「 この生死の大動を明らめんとする我らが行持においては、この身一つが現実にどこかへ帰ったとしても、その道は不行という意味になります。すなわち、どこまでもこの身一つをもって行じる仏道であるから、どこへ帰ろうが帰ったことにならないという意味での不行。 」(p464)
「 内実がどんなふうであれ、ともかくこの身心以外に禅家は帰るところを持たないという意味 」(p471)
とりあえず、今のところ気に留めているポイントは以上の三点である。
それで、下巻も読みたいけれど、古本屋で見つけるまで待つという気持ちが現時点では強い。何せ、話がゆっくり進み、かつ分量が多いだけに躊躇ってしまう。