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by ST25
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 綿矢りさ 『インストール(河出文庫、2005年)
 
 
 芥川賞を受賞した話題の作家の、「文藝賞」を受賞した2001年のデビュー作の文庫化。芥川賞受賞後初の作品となる書き下ろしの短篇「You can keep it.」も収録されている。

 「蹴りたい背中」については読んだことがあり、その作品および芥川賞選評の評価について以前にこのブログで書いた。(→「蹴りたい背中」

 それで今回の「インストール」だが、読んでみていろいろな疑問に合点がいった。

 まず第一に、なぜ「インストール」が文藝賞を(それなりの必然性をもって)受賞できたのか。(「文藝賞」自体がどのような賞でこれまでどのような作品が受賞してきたのかについてはよく知らない。ただ、つい先日、綿矢りさを上回る若さの15歳の女性が受賞した。また、河出書房が主催している。)

 そして第二に、なぜ「蹴りたい背中」は(芥川賞を受賞したにもかかわらず)駄作になってしまったのか。

 答えはともに、「インストール」という作品の特異性、あるいは唯一性から導き出せる。
 
 
 それでは、「インストール」の内容を見ていく。(言うまでもなく、以下ではネタバレ等を気にせずに書いていく)

 17歳の女子高生と12歳の男子小学生が出てくるこの小説で描かれるのは、「若気の至り」、あるいは、「若者の浅はかな思考」である。

 そして、この小説の評価できるところは「文体」である。その文体は、冷笑的でポップな口語調である。その文体は、若者の内面で用いられている言葉を活字化したものであり、当然に(現代の)若者独特の軽さや(古今の)若者独特の内に秘められた反発を表すのに適したものである。

 したがって、以上から、「若者の若さや未熟さ」を描くこの小説には、軽さや反発といった若者独特の内面をそのまま活字に乗せたような文体が見事にマッチするのだ。つまり、内容と文体がぴったりはまったということだ。これが「インストール」を文藝賞受賞へと導いた一つ目の秘密。

 ちなみに、この点、「蹴りたい背中」では、「インストール」での文体そのままに、比較的成熟して冷静な高校生を描いたがために失敗作になってしまったのだ。
 
 
 さて、「インストール」には、もう一つ偶然とも呼べるような作用が働いて作品のレベルを上げることに貢献している。

 作用したのは、著者の人間の内面についての洞察力の無さである。このマイナスの力は、結果として登場人物の描写に活かされることになった。つまり、先に、この小説で描かれているのは「若気の至り」や「若者の浅はかさ」だと書いた。そうであるなら、当然、そこに登場する人物も、浅はかで、未熟で、幼稚な、思考の至らない人物になる。

 そう、浅はかで未熟な若者を描いたこの小説では、著者の人間の洞察力の無さも全く問題にならなかったどころか、むしろその若者の描写に活かされさえしたのである。
 
 
 さて、以上見てきたように、ポップな口語調な「文体」と著者の「人間の内面の洞察力の無さ」が、若者の若さや浅はかさという「内容」とマッチしたところに、この「インストール」は生まれた。

 そして、“現代の若者の言葉”を使った無理のない小説をいち早く作ったという点では、この「インストール」は何らかの賞を受賞してもおかしくなかったと言える。

 ただ、この長所はこの作家の限界をも示しているのは簡単に見て取れる。つまり、(“人間に対する洞察力のなさ”は武器にはなり得ないだろうから、)“現代の若者の言葉”という文体のみが武器であるこの作家は、その文体がぴったりと合う対象や内容を書く限りにおいてしか評価される作品は書けないのだ。だが、作家も当然、歳を取る。この作家が生き残るには、歳をとっても、年齢不相応にこの“現代の若者の言葉”という文体を使って小説を書くしか道はないのだ。一生、未成熟な中学生や高校生を描くしか。
 
 
 さて、上では「蹴りたい背中」は否定しつつも「インストール」は肯定しているような論調で書いてきた。しかし、「インストール」にも問題点は散見される。

 まずは、著者の人間の内面の洞察力がないと思わせる箇所を2箇所。これについては「蹴りたい背中」にふんだんに含まれているが、こちらにもある。

「朝子、安心して休みなさい。そしてそのありがちな悩みに自分なりの答えを見つけ出せるよう励みなさいね。」
  光一は強引にそう言って笑顔を見せた。平和主義、この子だって。男子でも同じである、ライバルに勉強させないようにしようと、必死だ。(P14)

 光一がしている友人によるこの種の「息抜きのススメ」や「不良のススメ」とでも呼べるような発言は、果たして本当に「ライバルに勉強させないように」するためのものだろうか。これはあまりに単純な解釈ではないだろうか。むしろ、この種の発言は、脱落してしまった状態の悲惨さを想像させるための冗談めいた優しさ、あるいは、実際には行うことができない現実逃避をせめて会話上で楽しもうとしている、といった解釈の方が適切ではないだろうか。いずれにせよ、少なくとも、本当に「ライバルに勉強させないように」していると解釈することには無理があることに違いはない。
 (もちろん、著者が意図的に稚拙な解釈を使ったと考えられなくもない。しかし、その後の文中に、その意図を明らかにしていると思われる箇所はなく、著者の洞察力のなさがちょうど上手い具合に登場人物の未熟さとしても解釈できるように現れたと考えるべきだろう。ただ、主人公のその後の行動を見るに、いくら何でもここまで単純な誤った解釈はしないと考える方が自然であるだけに、ここは著者の未熟さが主人公の未熟さをも上回っただけの失敗だと理解すべきである。)
 
 
 もう一箇所は、エロチャットで、同一の客に時間によって女子高生と小学生という違う人間が対応することで生じる辻褄の合わない状態への対処の教訓を書いた箇所。

結局、(中略)どの客との関係も根っこはエロでつながっているという所にある。多少強引にでもてっとり早くその根っこに話題を持っていけば、客の理性は飛んで、簡単に疑いは頭の中から消えてしまうのだ。(p105)

 設定上、特定の風俗嬢が相手をするのが売りのエロチャットであるのに、その特定の相手ではないのではと疑った人が、そんな簡単に理性をなくすことができるだろうか。
 
 
 次の問題点として、話に一貫性がなくて不自然な箇所を、これは多いが二箇所だけ指摘しておく。

 一つは、コンピューターだけへの妙なこだわり。

起床時に見たあの夕日を浴びた部屋の映像が強迫観念となって何度も目の前にフラッシュバックし、その度に恐怖を感じ、全部捨てなければ!という衝動が掻き立てられてしまう。(pp15-16)

 と言って、お母さんがおばあちゃんの代から受け継いだあのピアノから、本棚や学習机まで、部屋にある全ての家具と小物をあっけなく捨てたにもかかわらず、

最後に残ったこのコンピューターを捨てる勇気が出ない。この機械は両親の離婚がやっと決まった六年前に、おじいちゃんが買ってくれた思い出深い品物だ。(p17)

 と、なぜかコンピューターにだけこだわりを見せるのだが、その理由にも行動にも無理がある。若者らしくあらゆるものに対して反発しているなら、ピアノとコンピューターで違う感情を持つのは不自然だ。むしろ、家庭的な良き思い出があるものこそきっぱりと捨てるはずだ。(実際、ピアノはそうされている。)
 
 
 もう一つ一貫性のない不自然な箇所は、主人公の女子高生のキャラクターに関わる箇所。

 一方では、

コンピューターを見る。その中で光るエロチックな写真と、そこから広がる私の知らない世界。(p70)

 と、いかにも“うぶな女子高生”であるかのような表現をしているにもかかわらず、エロチャットを始めてみると知識も豊富でこなれた対応を見せているのだ。

 これでは、読んでいる最中に、登場人物についてのイメージが混乱してしまう。
 
 
 また、上で挙げた以外にも、他人の家に朝早くに勝手に鍵を開けて入ることや押入れの中でパソコンを起動していることを家人にバレずに行えるか、というあまりに初歩的な疑問もある。
 
 
 さて、以上が「インストール」の内容の評価である。これによって、最初に挙げた二つの疑問が解決された。

 ちなみに、この文庫のための書下ろしである短篇「You can keep it.」も、上で挙げた観点から評価することができる。

 この短篇では、描かれるのは、物を与えることでしか友達に近づけない男子大学生である。したがって、未熟で浅はかな若い人物を主人公に据えるという点では「インストール」と同様である。しかし、設定が、大学生であること、および男子であることから、あらゆるものへ反発するといった特徴もなく、その結果、文体も個性のない極めて一般的なものとなってしまっているのだ。

 若いがゆえの行動、という点で辛うじて「インストール」との共通点は見つけられるが、「インストール」「蹴りたい背中」で培われてきた“綿矢りさの文体”は全く影を潜めてしまい、本当に個性のない小説となっている。
 
 
 最後に、高橋源一郎による「解説 選ばれし者」について共感を示しつつも苦言を呈しておきたい。

『インストール』で、もっとも重要なのは、言葉が(日本語が)、ほとんど美しい音楽のように使われている(と感じられる)ことだ。(p178)

 という指摘は、自分が文体を評価したのと観点は違うが、近い評価ポイントだろう。しかし、以下の文は、テレビの野球中継で野球“観戦”をしているに過ぎない野球“解説者”と同じ愚を犯している。

ぼくは、綿矢りさを、そのような「天才」たちの間に置いてみる。デビュー作『インストール』の「完璧さ」(と初々しさ)は、彼女が、その「天才」たちの仲間であることを証明しているだろう。だが、それだけではないのではないか、とぼくの(小説家としての)本能は、告げるのである。
 /それが何なのか、正直なところ、いまのぼくにはよくわからない。
 綿矢りさは、ただ「天才」であるのではなく(どんな「天才」でも、ぼくはおそれない)、何かの「始まり」を告げ知らせるために現れたのではないか、とぼくは感じる。(pp181-182)

 
 
 
 しかし、とにもかくにも、文体だけで内容の伴わない小説は、ただの「ケータイメール」の長い版でしかない。「蹴りたい背中」を読んだとき感じたのだが、どうもこの作家は、個々の喩えであるとか、個々の表現であるとかの“形”に走り過ぎているように思える。小説において内容と文体とどちらが重要かと言えば、やはり内容ではないだろうか。そうであるなら、そこが欠けているこの作家はこの先、正直厳しいのではないだろうか。(もちろん、これから色々経験し、色々読み、色々深く考えれば、養うことができなくもないだろうが、そんな生易しい努力では厳しいままだろう。)

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