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by ST25
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 瀬名秀明 『デカルトの密室(新潮社、2005年)
 
 
 物語は、人工知能をもったロボット、それを作ったロボット工学者と心理学者、他者の心が理解できない天才科学者などによる論争と事件を通して進められていく。

 そこで問題とされる主題は、ロボットと人間との境界、より具体的に言えば、「ロボットは自我(=自由意思)を持つことが可能か?」、および、「人間は自我を超えることが可能か?」という二つに絞ることができると思う。もちろん、これらの問題を解くために様々な科学的、哲学的な下位の問いが発せられている。そして、その難問を解く過程では、科学と哲学における先人の研究が縦横無尽に参照される。また、映画『2001年宇宙の旅』や小説『指輪物語』といった名作もストーリーの中で重要な役割を果たしている。

 このように、問いの難しさに加えて、解法の難しさが加わり、自分はとても完全には理解できなかった。

 とはいえ、理解できたなりに書けることを書いておく。

 まず、物語全体に渡って重要なのはデカルトである。タイトルにもなっている「デカルトの密室」とは、「デカルト劇場」と呼ばれるものの中に閉じ込められることを表している。

(機械との比較で人間らしさとは何かを考える文脈で。)ぼくには自意識がある。自我がある。これはぼくが機械でない証拠なのかもしれない。専門的な言葉でいえばメタ意識、つまり自己参照の能力があるということだ。ぼくはいま、PCのモニタを見ている。その情報はぼくの目から入って視神経を刺激し、脳の神経細胞の活動を促す。だがそれだけではPCを見ていることを自覚できないのかもしれない。脳に入ってきた情報をどこかで追跡・監視し、これはPCだと認識する主観がなければならないのかもしれない。それはあたかも脳の中に小人(ホムンクルス)がいて、脳の中の劇場に映し出された情報を眺めているような状態だ。つまり私たちの脳には、外部から入ってきた知覚情報を統合するホムンクルスの役目がどこかで不可欠なのかもしれない。しかしこの考え方は一歩間違えると、哲学者ダニエル・C・デネットが名づけた「デカルト劇場」の迷宮へとぼくたちを引きずり込む。デカルトの心身二元論のように、身体と思考する実体を分離する考え方と表面的にはよく似ているからだ。(p60)

 
 
 他人の気持ちを全く想像できず、世界の全ての人は演技をしているようにしか思えない女性天才科学者は、(人間の自我はその個人の中だけに拘束されていてその個人から外に出ることはできないという)この「密室」から抜け出すために、自分の身体を殺し、そして、インターネット上にその自我を移植し拡大する。つまり、インターネットをひとつの巨大な脳神経ネットワークにしたということである。

 また、一方、この女性天才科学者と敵対的な立場である主人公のロボット工学者は、自分が作るロボットに自由意思を持たせようとする。しかし、これは女性天才科学者から言わせれば、ロボットの人工知能が行う「思考」(≒精神)を意図的に製作者が作る「密室」の中に閉じ込めることを意味することになる。

 この、ロボットを精神という面で人間に近づける営みの限界を突破するための、あるいは、ホムンクルスとデカルト劇場との無限退行を解決するための手がかりは、「信じる」という行為や、「物語」という概念に見出される。
 
 
 以上が、自分なりに考えたこの本の最も大きなレベルでの構図である。

 あまりに単純に考えられがちなロボットと人間の違いを、かなり具体的な場面の中で根源的に考え抜いていて、自分の中の固定観念を再考させられることが多かった。また、根源的に考え抜かれていることの当然の結果なのかもしれないが、科学と哲学が必然性をもって結び付いているのを実感できた。
 
 
 
 それにしても、直感的あるいは実感的には魅力的なデカルトの心身二元論の弱点はいかにして克服されることが可能なのか? この問題意識を検討するために本書では、「ロボットらしい人間」と「人間らしいロボット」が導入されたとも言えると思う。そこで、最後に改めて、純粋にデカルト哲学の問題点について書かれた箇所を引用しておこう。

私たち人類は、まず自我を発見した。スコラ哲学の呪縛から逃れて自分の頭で考えることは、自我というものを意識し、自分の人間性を意識することに他ならなかった。人間は神から自らを切り離すことで、自分らしさを、人間らしさを、人間性を確立してきた。だがそいつは同時に、〈私〉という自己意識を見つけ出し、それをデカルト劇場の中に押し込めてしまう契機でもあったのではないか。
 (中略)
 入力された感覚情報が、あたかも脳内のスクリーンでひとつにまとまって映し出され、それを自我の主体である小人(ホムンクルス)が眺めている――だがホムンクルス自身の脳はどうなっているのだ? そこにも小さなスクリーンが存在するのか? ホムンクルスを想定したら最後、自我は無限退行してゆくだけだ。(p196-197)

デカルトはまず、人間や動物の肉体が精密な機械であることを認めた。しかし人間を人間たらしめているものは理性的魂であり、それだけは神の領域であって、いかなる機械によっても再現することは不可能だと考えた。(スウェーデン王女)エリザベスはそこに極めて鋭利な疑問を突きつけたのだ。身体が物体でできているならば、それを動かす精神もまた実体を持つものでなければならないと。デカルトの返答は歯切れの悪いものだった。(中略)(彼は)やはり心と身体がどのように作用しあっているのか、きちんと科学的に示すことはできなかった(pp198-199)

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