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by ST25
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 爆笑問題 『爆笑問題の日本原論(宝島社文庫、1999年)
 
 
 1994年~1996年に雑誌に連載されていた、時事問題をネタにした漫才形式の文を集めた本。

 ネタにされているのは、細川首相の辞任、フランス核実験、オウム事件、阪神大震災、O-157など。横山弁護士、CIAによる通産省盗聴とか、懐かしい話題もある。

 ただ、ここ数年の(主にテレビでの)太田光のような、真実をつく笑いとか、強烈な皮肉とかはなく、単純に時事ネタを笑いにしているだけの低俗な笑い。(笑えるんだけど・・・)

 そんなわけで、最近の太田光、爆笑問題を知っているだけに物足りなさを感じてしまう。
 
 
 けれど、もしかしたら、今の日本の社会状況では、社会問題に関しては「真実をつく笑い」とか「皮肉」みたいに、ある程度はマジメに語らなくてはいけない空気があるのではないかと思わないでもない。その方がよりおもしろいにしても、果たして・・・?

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 おおつやすたか 『まるくすタン~学園の階級闘争~(サンデー社、2005年)
 
 

(えんげるすタン:)「ところで、学校のことで、まだわからないところとかはないんですの?」
 (まるくすタン:)「わからないところ、というか、現時点で仮説の段階で、まだ理論に確信が持てない部分はあるわね。」
 (え:)「それは何ですの?」
 (ま:)「この学園における社会構造の基本。」
 (え:)「なるほど。わたしたちが社会的存在である以上、そのことについての探求は非常に重要なことですわ。」
 (ま:)「・・・・その重要性に気づいてくれたのは、今までのところあなただけね。」
 まるくすタンは、眼鏡をちょっと直しながら、えんげるすタンを見ていいました。えんげるすタンは嬉しそうににっこりと笑います。
 (え:)「それで、この学園においては、何が社会構造の基本だとお考えですの?」
 (ま:)「・・・・どうやら、下半身的欲求が基本のように思われるのよ。」 (p46)

 てな感じで、マルクスの人生や共産主義の歴史を、萌え系美少女たちによる学園ドラマにして描いたエロ小説。

 爆笑。
 
 
 ここには書けないような低俗な話が一話終わるごとに、十九世紀初頭のドイツの哲学界は、・・・・てな感じに真面目な解説がなされているのもシュールで笑える。

 とはいえ、マルクスの考え、共産主義の歴史のポイントはしっかり抑えている。特に、プロレタリア階級の描写は秀逸。
 
 
 ちなみに、まるくすタン、えんげるすタンの他には、れーにんタン、とろつきータン、すたーりんタンといった人たちが出てくる。

 個人的には、えんげるすタン、萌え~。

 
 

「この体制は、打倒するべきだわ。・・・・万国のモテざるものたちよ、団結せよ!」(byまるくすタン) (p70&99)

 マルクスからまるくすタンへ。

 庄司薫 『狼なんかこわくない(中公文庫、2006年)
 
 
 1971年の本に政治学者の御厨貴の解説を加えて出された改版。

 
 
 内容以前に気になる点が3つ。

 一。この本は、著者のデビュー作『喪失』の著者自身による解説のようなものなのだから、再版の順番は『喪失』が先でないとおかしい。
(阻んでいるのは、「蝶をちぎった男の話」が講談社文芸文庫の短篇集に収録されていることによる著作権上の問題?)

 二。227ページの文庫が800円って、高すぎ。

 三。新たに加えられた解説が、なぜに政治学者によるものなのか?
 
 
 それで内容。

 安保闘争、全共闘運動が盛んだった頃にすでに芽生えていた“価値相対主義”の時代における青春論。“価値相対主義”とは、寺島実郎の表現で言えば、「虚弱な私生活主義」になる。

 とはいえ、時代が時代なだけに、まだ“開き直り”がないため、色々な問題点について、(著者の実際の行動とは裏腹に)「逃げることなく」考えられている。

 次の文に内容(もっとも難しい問題)は要約されている。

問題は、ぼくが、純粋さとはたんなる単純さでなく、誠実さはたんなる素朴さではない、と考えていたところにあった、といってもいい。単純さ素朴さは、純粋さ誠実さの要素、最終的に望ましい「たたずまい」とでもいうべきものではあっても、必要十分条件ではない。純粋さ誠実さが、生涯を通じての持久戦を首尾一貫戦い抜くことによってのみ求められるものであるかぎり、そこにはいかなる複雑な戦局の中でも耐えられる強さがなければならない。言いかえれば、単純さ素朴さはわれわれがはるか遠くに望みあこがれる到達目標であり、いわば「達人の境地」のようなものなのだ。われわれが、一見単純で素朴なたたずまいでその純粋と誠実を貫くには、それを支える恐るべき複雑な強さ、複雑な困難に素朴に耐えるという恐るべき「力」をまず獲得しなくてはならない。そして青春が、ぼくたちにとって純粋と誠実を求める生涯の持久戦のための基本的戦闘能力を鍛える時期とするならば、ぼくたちがそこで単純さと素朴さをいきなり純粋さと誠実さの代用品として持ち出すことは、一種の「キセル行為」であり、持久戦での敗北を招くことにもなるだろう・・・・・・。 (p68)

 
 
 じゃあ、どうすれば「力」を獲得できるのか、という問題はあるけれど、ここで述べられていることは、自分の身近な経験でも若いアイドルの言動を見ていても感じることであり非常に共感した。

 中川翔子 『しょこたん☆ぶろぐ2(ゴマブックス、2006年)
 
 
 1日100万近くのアクセス数を誇るしょこたん☆ぶろぐの書籍化第2弾。

 構成は第1弾とほとんど同じ。大量の記事を、“アニメ”とか“ペット”とか“イラスト”とか“メポ”とか項目ごとにまとめている。

 つまり、良いとこどり。しょこたんの脳ミソのエッセンスだけが詰まっている。

 ネットが見れない人、毎日チェックするのは面倒だと思っている人、しょこたんの世界で時たま楽しみたい・癒されたいと思っている人が買って読むにはとても便利。

 ちなみに、特別企画は「100問100答」、「グラビア」と、ほぼ前回と同じだけど、小明による裏話(「ブログ本ジャック」)は(分量が少ないけど)新しくて面白い。
 
 
 それで、改めて読んでみて感じるのは、やっぱり、しょこたんの脳ミソというのは、常識とか論理とかに縛られてなくて本当に自由でしなやか、ということ。読むと頭が柔らかくなる。
 
 
 ただ、確かに前回の本のときとはしょこたんの興味や言葉使いが変わっているとはいえ、やや“飽き”を感じてしまった。

 でも、「発売3日で10万部」売れたらしいから、世間的には“飽き”の感覚はまだないらしい。
 
 
 
 ところで、優勝が決まった日本シリーズ第5戦の視聴率が昨日発表された。

関東地区の瞬間最高視聴率は、ヒルマン監督が胴上げされた午後9時34分で43・5%だった。 (読売新聞)

 とのこと。

 なんで、新庄涙の最終打席でも、試合終了の瞬間でも、新庄の胴上げでもなく、「ヒルマン監督の胴上げ」が瞬間最高視聴率なのだろうか?

 毎回思うんだけど、“瞬間最高視聴率”って、いつもワンテンポずれてる。

 「世間の波」というのは、(実際の盛り上がりから)ワンテンポずれるものらしい。

 重要だからもう一度。

 「世間の波」というのは、(実際の盛り上がりから)ワンテンポずれるものらしい。
 
 
 
 しょこたんの話に戻る。

 面白かったから「しょこたん☆ぶろぐ」の人気が出て、ブログ本1が出たのが去年の10月。

 その後、しょこたんは、ブログでの人気からテレビやCMなどの引っ張りだこになる。

 と同時に、かなりのハードスケジュールになり、一日の更新数の減少に顕著なように、ブログの勢いが衰える。

 そんな中発売されたブログ本2は、「発売3日で10万部」の売り上げを記録した。

 ここで疑問が一つ。

 すでに「ブログの勢いが衰えている」にもかかわらず、「ブログ本2が売れた」のはなぜか?

 ――それは、「ワンテンポ遅れてやってくる“世間の波”」(ここで言えば、「テレビなどによる知名度上昇」)の効果による。

 つまり、ブログの盛り上がりからワンテンポ遅れてやってきた「世間の波」(=「テレビなどによる知名度上昇」)が売り上げを伸ばしたのであり、今のブログの面白さとは関係がない、ということ。

 さっきの日本シリーズの話に当てはめると分かりやすい。

 試合の盛り上がりブログの盛り上がりになり、瞬間最高視聴率を記録したヒルマン監督の胴上げ(テレビなどによる知名度上昇による)3日で10万部を記録したブログ本2の売り上げになる。

 つまり、良い場面は終わってるのに最高視聴率を記録した。面白くなくなってるのにかなりの売り上げを記録した、と。

 ということは、さらに考えを進めると、不吉だけど、(遅れてやってくるものである)世間の波に乗っただけのブログ本2の売り上げは、しょこたんの衰退の始まり、あるいは、すでにしょこたんの衰退が始まっていること、を表している。

 思えば、ブログで知名度を上げながら、ブログの勢いが衰えているしょこたん。かといって、テレビなどでブログの話題から離れて独自の地位を築けていないしょこたん。

 落ちぶれない理由が見つからない。

 ただ、これは、あくまで「このままいけば」という前提で考えた場合のこと。

 ブログの勢いが復活したり、テレビなどで独自の地位を築けたりすれば、結末は変わってくる。

 ファンクラブ・イベントを男性ファンと女性ファンとで分けて行うような心遣いを見せる事務所なだけに、うまいことやるかもしれない。

 山崎ナオコーラ 『人のセックスを笑うな(河出文庫、2006年)
 
 
 奇抜なペンネームとタイトルだが、文藝賞を受賞し、芥川賞候補にもなった作品。

 19歳の専門学校生(オレ)と39歳の専門学校講師(ユリ)との恋愛の話。

 なのだが、「心の交流」といったものが一切見られない。お互いの世界が交錯しないまま恋愛が進行している。

 象徴的なのが次の一節。

セックスというのは想像上のものだ。触っているから気持ち良いのではなく、触っていると考えるから気持ち良いのだ。 (p69)

 このクールさは、最近の(?)昼ドラやトレンディ・ドラマや恋愛小説に対して強烈なアンチを突きつけることになる。

 しかし、にもかかわらず、この小説は全く古さを感じさせず、至って「現代的」なように感じさせる。

 それは、傷つくことを極度に恐れて他人の心に踏み込まなかったり、自分に関心を集中させて他人には無関心であったりという現代人の性格と合っているからだろう。
 
 
 こう考えると、この作品は、典型的な現代人を登場させながらも現代の主流派作品に反抗しているという、なかなか興味深い作品だと言うことができる。

 ただ、それが内容のおもしろさにつながっていないのが最大の弱点ではあるが。

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