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by ST25
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 ヒキタクニオ 『ベリィ・タルト(文春文庫、2005年)
 
 
 元ヤクザである芸能プロ社長が、ひょんなことから出会った家出少女を見初(みそ)めてアイドルとしてデビューさせていく物語。その過程でいろいろな障害に立ち向かう。

 
 
 だけど、その少女がアイドルになろうと思う動機がとりあえずの住処を得るためというような気軽なものであるにすぎないにもかかわらず、その少女はなぜか厳しい食事制限、肉体改造、大手プロによる拉致監禁など数々の苦難に耐えていく。

 前半に出てくる厳しい食事制限、肉体改造とかになぜ耐え得たのかは分からないままだけど、どうやら、後半の拉致監禁とかに関しては、元ヤクザな事務所の社長に対して愛情の混じった全幅の信頼を寄せているからだということが明らかになる。

 ことほどさように、これから大活躍というときになって、少女はあっけなくアイドル業を辞めてしまう。

 そんなわけで、いわば、浅薄な少女のちょっとした冒険記といった趣の話で、物語としてはおもしろさも見るべきところもほとんどない。
 
 
 それに、こんな話に「ベリィ・タルト」というタイトルを付けてしまう時点で、よくありがちな、無理してお洒落ぶってる感じが出てて、古いというか、ダサいというか・・・。

 とはいえ、(タイトルの是非とは直接は関係ないけど、)一応公平を期して「ベリィ・タルト」の説明が出てくるところを引用しておこう。

アイドルは固く焼き上げたパイ生地の中にねっとりと流し込まれたカスタードクリームの海に、身を沈めかけたベリィなんだ。それも、蜜とワインで甘く煮つめられたベリィなのさ。ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキなんて優しい代物じゃない。もっと凝縮され、頭の芯が痺れるほど深くて甘いベリィのタルトなんだよ (p100)

 特に、うまくもない。
 
  
 この本は、中学生とはいえ、大人なところもあって、その感性も信頼できるアイドル・仲村みうが紹介したり薦めたりしていたから読んでみたけど、いまいちだった。アイドル仲村みうの実体験とシンクロするところはあったんだろうけど。

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 野田秀樹 「ロープ (『新潮』2007年1月号、所収)
 
 
 去年の12月から今年の1月にかけて野田秀樹率いるNODA・MAPが上演していた戯曲で、雑誌『新潮』(2007年1月号)に掲載されたもの。

 野田秀樹は、自分が応援している役者である森幸子が(確か)「一番好き」と言っているのを聞いて、初めて知り、調べてみたら、自分が好きなテイストの作品を創る人だったために興味を持った。

 どんなテイストかというと、時事問題、社会問題を題材に用いながらもそれをユニークに加工することで表現は隠喩的、硬さも主張を押しつける感じもなく、むしろ、ストーリーや台詞には「笑い」「軽さ」「速さ」「カオス、アンビバレンス」がある。まさに、エンターテインメントでありながら文学的要素をも持ち合わせたnot娯楽but芸術作品である。

 そんなわけで、この「ロープ」は絶対に観に行こうと思っていたのだけど、チケットの一般発売の日にまさかの寝坊。

 ヤフオクで転売目的な余計な仲介人から不当につり上げられた値段で買うのは嫌だから、公演が終わるまでひとまず忘れることにして、公演が終わってからこの戯曲を読んだ次第。

 だから、舞台は観てない。涙

 内容に関する感想はまた別に書くつもり(未定)だから、ここでは周辺的なことをいくつか書いていく。
 
 
 まず、読んだ後、とりあえず観劇した人の感想を読もうとネットで検索してみた。

 最初に「ロープ 野田秀樹」でヤフーのブログ検索をしたら649件がヒット。

 そこで、キーワードを追加することにした。

 追加したのは「イラク」。

 この戯曲は、後半でベトナム戦争の描写が“明示的に”出てくるのだけど、前半は“暗に”イラク戦争を意識した内容になっている。

 そして、この戯曲の一番の主題・題材はイラク戦争といっても過言ではない。 (「9.11→アフガン戦争」と言えないこともない。「湾岸戦争」は△。)

 そんなわけで、「ロープ 野田秀樹 イラク」で再度ブログ検索を行ったら、なんと一気に28件に絞られた。 (ちなみに、「イラク」の代わりに「ベトナム」を入れると141件がヒットする。)

 もちろん、「イラク」というキーワードを入れている人すべてが適切に言葉を使っているとは限らないし、その逆もあり得る。けれど、それにしても、「イラク」を入れると95%がはじかれるっていうのはなんとも・・・。
 
 
 そして、このこととも関連するけど、いろいろな人の感想を読んでいて驚いたのは、野田秀樹の作品を「社会派ではない」と認識している人の多いこと。(※ここでの「社会派」とは、社会問題に関する主張を前面に出すというのとは違って、社会問題を扱っているという広い意味でのこと。)

 野田作品は、『20世紀最後の戯曲集』と『ユリイカ (33巻7号、2001年6月)』(の野田秀樹特集)を読んだだけだけど、むしろ社会派ではない作品の方こそ見当たらなかった。

 確かに、エンターテインメントとしても楽しめることは間違いないけど、それでは作品の半分かそれ以下、あるいは作品の表面、を楽しんでいるに過ぎない。

 立花隆が映画『地獄の黙示録』のアクション(戦闘)シーンだけを楽しむ見方を評して言った、 「ドストエフスキーの『罪と罰』なんて犯罪スリラーだよ」というのと同レベルのものの見方でしかない (『解読「地獄の黙示録」』、p12)という言葉がここにも当てはまる。
 
 
 さて、一つだけ内容に踏み込んだことを書こうと思う。

 それは、この戯曲の後半に出てくるベトナム戦争で実際にあった惨劇についての生々しい「実況」について。

 最初読んだとき(といってもまだ通しでは1回しか読んでいない)、ここのところについて、イラク戦争をプロレスに擬した前半部やこれまでの他の作品のような隠喩・戯画化を用いておらず、事実を生のまま用いていることに違和感を持った。同じことは、演出家・脚本家の鈴木厚人の感想にも見られる。

 けれど、この生々しい描写はこの戯曲においては(ある程度は)必然であるとも言えるのである。

 つまり、前半部における、プロレスのリング上と客席との間にある隔絶、覆面による人間の抽象化といった戦争や惨劇に対するリアリティの欠如(とそれによる人間の凶暴化)に対するアンチとして、あえて具体的な生々しい描写を盛り込んだということである。

 そして、特に野田作品をエンターテインメントとしか見れない観客に対してはそれなりの効果があったのではないかと思える。

 ただ、それでもやはり野田秀樹なら、その生々しい現実をも、ベトナム戦争という事実を(安易に)使うのではなく、隠喩や戯画化を用いて表現して欲しかったという気持ちは残る。
 
 
 今更ながら参考に、内容について知りたければ、ジャーナリスト・江川紹子による観劇感想がけっこう詳しい。
 
 
 そして、最後に、野田秀樹が「ロープ」のパンフレットに書いた文章を、自分が上で書いてきたことが正しいということの証拠して一部引用しておく。(※ネット上のあちこちで引用されていたものの再引用。)

どのくらい昔からだろう、演劇の稽古場には必ずと言っていいほど、プロレスのことを熱く語る役者の一群がいた。はっきり言って、私は、そういう役者たちを煙たく思っていた。ただジャズが好き、映画が好き、渡辺えり子が好きというのと違って、プロレスを好きな役者達には、煙から出るススみたいのがついていた。「プロレスを熱く語る自分」に熱くなっている時に、出てくるススである。
 (中略)
 「何かをとてつもなく愛している自分」を愛しています。とおおっぴらにいっているようなスス加減なのである。
 (中略)
 私は、その自分との距離感のなさが嫌いである。さらに私は、自分との距離ばかりでなく、家族とか故郷とか国家との距離感のない人間も嫌いである。
 家族や故郷や国家が嫌いなのではない。距離感のないことが嫌いなのだ。
 9・11の事件が起きた時、当事者以外は誰もがテレビの前で「映画みたいだ」と思ったに違いない。そして今年、すでにハリウッドは、その「映画に見えた」事件を映画にした。何というリアリティーに対する距離感のなさ。何というリアリティーへの冒涜であろう。
 普段、創作と想像の現場にいる私は、いつもこのリアリティーとの距離感を図っている。だが、その創作と想像の渦中に巻き込まれると、わからなくなってしまうことがある。
 かく言う私も、四年前、日本でおこなわれたサッカーワールドカップの開幕戦、日本ーベルギー戦をそのスタジアムで見た。さすがに青いユニフォームは着なかったが、日本のゴールの瞬間に、後ろの席の見知らぬ人に抱きついて、興奮していた。悪いことではない。誰もがそう思う。が、同時に、この距離感を失った熱狂というのは、厄介なものである。
 私は、この芝居で『距離感のない熱狂の中で、繰り広げられる暴力』を描いた。だが、そのことを本当に距離感を持って描くことができたか。それを判断できるのは、いつもリングサイドにいる醒めた第三者だけである。

 

 大江健三郎 『M/Tと森のフシギの物語(講談社文庫、2007年)
 
 
 1986年の作品の文庫化。ノーベル賞受賞に際して評価された作品でもある。

 本の裏側の説明文で内容を紹介。

祖母から聞いた、四国の森の奥深くに伝わる「壊す人」と「オシコメ」の創造の物語を、MとTという記号を用いて書き記す。時の権力から独立した、一つのユートピアがつくり出される奇想天外の物語は、いつしか二十世紀の作家が生きる世界、われわれの時代に照応していく。海外で最も読まれている大江作品。

 「飼育」や『芽むしり仔撃ち』といった初期作品における閉ざされた共同体の世界と、最近の作品である『取り替え子』や『憂い顔の童子』における森の神話の世界とが適度に融合されている。

 換言すれば、現実の人間の暗くて沈潜した奥深いところと、ファンタジックな森の神話の世界の両者が、適度に緩和されつつ融合されている。

 だから、読みやすいし、おもしろい。
 
 
 
 思うに、内容からすると、日本人保守主義者なら絶賛すべき一作。

 塩野七生 『ローマ人の物語8 ユリウス・カエサル ルビコン以前[上](新潮文庫、2004年)
 
 
 司馬遼太郎作品と並んで絶賛と批判のある、言わずと知れた歴史小説(の中の一冊)。

 ちなみに、歴史学的な評価は小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)で簡単に触れられている。
 
 
 この文庫版第8巻では、世界史に残る指導者ユリウス・カエサルが活躍し始めるまでの生い立ちや時代状況が描かれている。

 だから、まだ激動のドラマは展開されていない。

 そんな現段階では、主役のカエサルより、弁論術でのし上がったキケロの方が魅力的に見える。

 とはいえ、ここまでのところから見て取れるカエサルのすごいところを一つ挙げると、公私混同のなさ。

 巨額の借金をしたり、あらゆる女性と付き合ったりと、私(的な)生活では豪胆なのだけど、公的な場所ではカティリーナの処遇に関する演説に典型的なように、実に理性的。

 公私の利害を混同させないと言うより、公私の判断基準を混同させないとでも言うべき性質。

 まさに偉大な政治家。
 
 
 
 ところで、歴史小説は確かにおもしろいのだけど、自分はどうも全面的には好きになれない。というか、入り込めない。

 歴史小説がエンターテインメントの読み物として割り切られているのならばいいのだけど、ノンフィクションを装う限り、好きになれない。

 歴史小説は、大抵、英雄史観で書かれている。

 だけど、事実である歴史を、自分たちの良いように楽しくかっこよく書き直してそれをノンフィクションだと見なすという行為は、保守派による歴史(再)解釈と同じにしか見えない。

 歴史に学ぶことが重要ならば、それこそ、緻密に学問的に書かれた歴史書から学んだ方がより有効な勉強ができる。

 それに、天才に学ぶより、凡人とか、経済史、社会史、技術史とかを学んだ方がよっぽど今に活かせる。

 繰り返すけど、ノンフィクションを装うから嫌なのであって、読み手・書き手の意識が「所詮は読み物」というもっと割り切られたものになれば全く問題はないと思っている。

 ちなみに、付け加えれば、英雄史観を排除しても、歴史のダイナミズム(因果連関みたいなもの)は失われないから、無味乾燥な歴史にはならない。

 藤永茂 『『闇の奥』の奥――コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷(三交社、2006年)
 
 
 映画『地獄の黙示録』の基にもなったコンラッドの小説『闇の奥』が書かれた当時の時代状況を、ベルギー国王レオポルド2世のコンゴ収奪を中心に、ポストコロニアニズムの立場から暴露している本。

 『闇の奥』の当時の時代状況を知ることができるのはとても有益なのだけど、いかんせん西欧を批判する著者の論調が感情的で辟易する。

 中国人・韓国人の反日行動と日本の「右翼」の言動との類似性を思い起こさせる。
 
 
 ただ、『地獄の黙示録』にも出てくる「切り落とされた腕の山」のエピソードの真実とか、初めて知った興味深い話とかもいろいろ出てくる。

 本当に「文明人」による残虐行為には枚挙に暇がない。
 
 
 それにしても、

アフリカには、コンゴには、過去もなく、未来もないのであろうか?
 私はそうは思わない。現代の情況の中で、ニヒリスティックなポーズをとることほど、転ぶ心配がなく、やさしいことはない。しかし、歴史の時間は、深く、ゆっくりと流れるものだ。ハイチ出身の詩人エメ・セゼールが『帰郷ノート』の中で静かに、しかも、高々と唱い上げた「アフリカ」がアフリカの地に溢れる日が必ずやってくる。もし、やってこなければ、それは人類の終焉を意味するだろう。「アフリカ」は火薬を発明しなかった。羅針盤で大海原を越えて他国を侵すことをしなかった。蒸気で鉄路を走り、船を漕ぐことをしなかった。鳥と競って大空を制することをしなかった。木々に学び、生き物を知り、大地と一つになって生きてきた。能不能のことではない。「アフリカ」が選んだ心のたたずまいを言っているのだ。 (p231)

 と思うのであれば、そして、アフリカの人たちのことを思うのであれば、開発経済学、成長理論、民主化論を勉強しようと考えるのが自然だと思うのだが。

 宮台真司言うところの、「社会システム論における“外部帰属化”」に見えてしまう。

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