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by ST25
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 森鴎外 『山椒大夫・高瀬舟 他四篇(岩波文庫、1938年)
 
 
 表題作の「山椒大夫」、「高瀬舟」を読んだ。

 「山椒大夫」は(やや曲解だけど)女性たちに守られている男の子が自立した大人の男へと踏み出していく過程を、「高瀬舟」は幸福とは何かを問いながら積極的安楽死の如何を、それぞれ描いている。

 文体・内容ともに余計なものがなく素朴であるため、静かでもの悲しい雰囲気が醸し出されている。まさに“文豪”による名文・名作といった感じ。
 
 
 「高瀬舟」は1916年の作品だが、今でも安楽死問題を論じる際にしばしば言及される。

 けれど、鴎外自身は、 死に瀕して苦しむものがあったら、らくに死なせて、その苦を救ってやるがいいというのである。これをユウタナジイ(※euthanasie)という。らくに死なせるという意味である。高瀬舟の罪人(※安楽死を手伝った人)は、ちょうどそれと同じ場合にいたように思われる。 (p126)と書いている。

 この「苦しみから逃れるため」という理由付けは、現在からすると素朴すぎて論拠としてあまりに弱い。

 死期が近い、治療が不可能といった条件への注意のほか、自己決定権や尊厳死といった理念による正当化があって初めて安楽死は社会的・法的議論として力を持ってくる。

 であるならば、「高瀬舟」は、現在の安楽死問題に対する含意は大して大きいとは言えない。現在の基準から言えば、「殺人」としてあっけなく処理されてお仕舞いである。
 
 
 とはいえ、深読みすれば、自殺し損ねて死にそうな弟を安楽死させた兄が、実に軽い心持ちで島流しされ、新天地での生活に心躍らせている“安楽”な様子(pp113-115)は、現在における積極的安楽死の問題を先取りしているようにも見えて恐ろしい。

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 太田光 『爆笑問題 太田光自伝(小学館文庫、2001年)
 
 
 太田光の誕生から35歳までを、相方ではない誰かによるインタビュー形式で、笑い、マジ語りを交えながら追っている。

 紙幅の都合のためか、インタビュアーの器量のためか、突っこみが足りなくて不満が残ることろもちょくちょく出てくる。

 けれど、一応、太田光の人生の全体像のようなものは見えてくる。
 
 
 まず、「芸能」という職業にいる人にほとんど不可避な売れない苦悩、また、「天才」にしばしば見られる早熟さ、が垣間見れる。

 一般ピープルとは違います。 (と、自分のダメさを肯定して満足してしまう人に発展は見込めない。)

 それから、太田光の人生にもお笑いのスタイルにも共通することだけど、「ただひねくれている」と言うよりは、「正直に生きると世間的にはひねくれているように見える」と言うべきものが随所に現れている。

 そして、その前提としての観客や世間に対する信頼や敏感さも窺える。

 売れない芸人とは違います。
 
 
 日芸の演劇学科の演技コースを「意味がない」と中退している太田光の演技論もおもしろい。

 アンジャッシュだとかチュートリアルだとかのネタを見ていてたまに思う、「演劇をやってる人よりお笑いをやってる人の方が演技が上手いように思えることがあるのはなぜか?」という疑問に答えてくれている。

演技というのは、冷静な自分がいて、いかにうまくウソがつけるかというのが面白さだと思っているんです。
 (中略)
 コントというのは、そういう意味で言えば、全然自由だから。お笑いのヒトで“なぜ、こいつは料理しているか?”なんて考えてやってるヤツはいないと思うんです。要は料理をしてるというカタチで、そこで笑いが必要なら、面白いカタチで演じればいいだけだから。でも、だからこそお笑いのヒトというのは、お芝居がうまいヒトが多いんだと思うけどな。それでいうと、アニマルエクササイズにしても、“実際に本物を見に行ったら、ウソをつきにくくなって不自由で何にも面白くないのに”、と思っていたんです。 (pp129-130)

 必死になって叫ぶしか能(脳)のない役者って結構いる。もちろん、これは芸人にも当てはまる。
 
 
 と、何となく、お笑いをやってる人が読んだら結構得るところがある気がする。

 けれど、普通の人が読んでもちょっとした笑いと軽い気分転換くらいしか得られないのはやむを得ないところ。

 大塚英志 『サブカルチャー文学論(朝日文庫、2007年)
 
 
 江藤淳による「文学とサブカルとの境界線」、すなわち、「(サブカルの)虚構性に対して自覚的であるか?」を一貫した仮説、ないしは準拠枠組みとして、村上春樹、山田詠美、石原慎太郎、三島由紀夫、大江健三郎らを読み解いている本。

 とはいえ、ただ単純にその枠組みを個々の作家に当てはめていくわけではなく、それぞれの作家・作品をおもしろい切り口から語っている。

 だから、「江藤淳論」とか「江藤淳を通して見る戦後文芸」が第一義的な内容ではあるけれど、個々の作家論・作品論としても読める。

 というか、「江藤淳論」として読むには750ページもあってさすがに冗長で散漫だから、個々の作家論・作品論として楽しまないと最後まで読めない。
 
 
 個々の作家論・作品論としては、おもしろい指摘が随所に出てくる。

 それは章題に端的に現れている。

 すなわち、「村上春樹はなぜ「謎本」を誘発するのか」、「吉本ばななと記号的な日本語による小説の可能性」、「三島由紀夫とディズニーランド」などである。

 これらの章題は、奇をてらった見かけ倒れのものではなく、きちんとその章題の通りに無理なく論じられている。
 
 
 他方、「江藤淳論」の方は踏み込みが浅いように思えてしまう。というか、ほとんど屈託なく江藤淳の枠組みを受け入れているように見える。 (ただ、最初で江藤淳についてどのように語っていたかを最後まで読み終えたときにはかなり忘れてしまっているという問題はある。)

 強いて言うなら、著者は、この「虚構性に自覚的であるべき」という江藤淳の主張には与しているが、そう主張する江藤淳自身、自身の虚構性に悩んでいたとしたり、(この本ではほとんど語られないけど)戦後民主主義を擁護したりと、江藤淳には批判的であるようである。
 
 
 ちなみに、江藤淳にとっての(サブカルの特徴である)「虚構性」とは、歴史と地理から切り離された「近代=戦後民主主義=戦後日本」のことである。

 唐突だが、政治哲学(ほとんど近代をいかに正当化するかの学問)に関心を持っている人間にとっては、江藤淳のこの「近代=虚構」という批判は、まさにコミュニタリアニズムによるロールズの正義論に対する批判と同種のものである。

 したがって、「政治哲学で繰り広げられている論争が、文芸の領域ではどうなっているのか?」というのはおもしろそうな問題である。

 このへんの問題が、大塚英志のどの本に書かれている(いない)かは分からないけれど、そのうち読んでみたいところではある。

 森嶋通夫 『血にコクリコの花咲けば(朝日文庫、2007年)
 
 
 「ノーベル経済学賞に一番近い日本人」と言われ続けていた(今はなき)経済学者の自伝、の文庫版。

 文庫化されているのを見つけて、単行本をすでに持っているけど、すかさず購入。

 3部作のうちのこの第1作では、大学に入るまでと徴兵されてから終戦までが主に語られている。
 
 
 森嶋通夫は、その妻が「解説」で用いている言葉で言えば、「プリンシプル(原理,信条)」と「インテグリティ(誠実さ)」という学究者としては特に求められる倫理観を、(学問以外の)普段の行動においても貫いている。この性格なら、後に学問で大成するのも故無きことではないのが納得できる。

 プリンシプルとインテグリティ。

 激しく共感。
 
 
 それから、同じく「解説」に出てくる、森嶋通夫がよく言っていたという言葉。

高く評価しているからこそ厳しく批判し、その反応を待っているのが分からんかなあ。どうにもならんのなら誰が嫌われてまで批判するか。 (pp293-294)

 これまた、激しく共感。

 自分がこのブログでか弱いアイドル(やその出演作)を批判したりしているのは、まさにこの気持ちから。
(※1.批判する必要がないに越したことはない)
(※2.本や政治家などに対する批判の場合はこの限りではない)
 
 
 それにしても、月1のペースで文庫化されていくのは待ちきれない・・・。分量があるわけではないんだから、3冊まとめて出して欲しかった・・・。(そりゃ、単行本を読み直せばいいわけだけど、新しく出たからこそ読む気も増してくるというものなのだ。)

 橋本治 『失楽園の向こう側(小学館文庫、2006年)
 
 
 コミック誌に連載されていた、小説家・評論家による人生や恋愛や社会問題についてのエッセー。

 評論家らしい新奇な切り口から語っていて目を見開かされたり、評論家らしい怪しげな事実認識に首を傾げたり。で、良くも悪くも、いかにも評論家によるエッセー。

 そんな中、「なるほど~」と、自分が一番納得したのが「愛」についての話。

私は、「愛情」を共有している「愛する二人」と、「人生」を共有する「人生のパートナー」とを区別している。ということはつまり、「愛する二人」と「人生を共有するパートナー」とは違うということである。なぜかと言えば、「愛する二人」が共有するものは「愛」だけで、まだ「人生」を共有していないからである。二人の人間が「愛」を共有する――つまり「愛し合う」ということは、人の一生でそうそう簡単に起こりうるものではない。(中略) 「愛し合う」という強烈な関係が成り立つのは、ある一時的なものなのである。
 しかし、「愛し合う二人」というと、どうしてもそれは「人生を共有する二人」であると思われてしまう。それはつまり、「今愛し合っているんだから、このままでいれば“人生を共有するような二人”になるだろう」という、「願望」や「推量」や「無責任な祝福」があるからである。
 「愛し合っている」という状態と「人生を共有している」は、往々にして違う。 (中略)
 「愛し合う二人」というのは、だいたい人生とは無縁のところにいる。 (中略)
 結婚が「愛のゴール」であり「人生のスタート」だというのは、そういうわけで(ある。) (pp181-184)

 と、つらつらと書き写していたら、そういえば、「恋人と結婚相手は違う」という類いの、結婚適齢期以降の人たちに重くのしかかる話と近いなあと思った。

 とはいえ、「愛する二人と人生のパートナーは違う」なんて明快に言われてしまうと、「愛と人生を共生させる結婚」という自分の中での「結婚の平均的(!)イメージ」が、いかにハードルが高いものかというのを思い知らされ、ただただうな垂れてしまう。

 なんて思うほど、自分は、理想と現実を混同してないし、人生に楽観的でもない。 (とはいえ・・・・、人間だもの・・・・)

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