忍者ブログ
by ST25
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 大塚英志 『サブカルチャー文学論(朝日文庫、2007年)
 
 
 江藤淳による「文学とサブカルとの境界線」、すなわち、「(サブカルの)虚構性に対して自覚的であるか?」を一貫した仮説、ないしは準拠枠組みとして、村上春樹、山田詠美、石原慎太郎、三島由紀夫、大江健三郎らを読み解いている本。

 とはいえ、ただ単純にその枠組みを個々の作家に当てはめていくわけではなく、それぞれの作家・作品をおもしろい切り口から語っている。

 だから、「江藤淳論」とか「江藤淳を通して見る戦後文芸」が第一義的な内容ではあるけれど、個々の作家論・作品論としても読める。

 というか、「江藤淳論」として読むには750ページもあってさすがに冗長で散漫だから、個々の作家論・作品論として楽しまないと最後まで読めない。
 
 
 個々の作家論・作品論としては、おもしろい指摘が随所に出てくる。

 それは章題に端的に現れている。

 すなわち、「村上春樹はなぜ「謎本」を誘発するのか」、「吉本ばななと記号的な日本語による小説の可能性」、「三島由紀夫とディズニーランド」などである。

 これらの章題は、奇をてらった見かけ倒れのものではなく、きちんとその章題の通りに無理なく論じられている。
 
 
 他方、「江藤淳論」の方は踏み込みが浅いように思えてしまう。というか、ほとんど屈託なく江藤淳の枠組みを受け入れているように見える。 (ただ、最初で江藤淳についてどのように語っていたかを最後まで読み終えたときにはかなり忘れてしまっているという問題はある。)

 強いて言うなら、著者は、この「虚構性に自覚的であるべき」という江藤淳の主張には与しているが、そう主張する江藤淳自身、自身の虚構性に悩んでいたとしたり、(この本ではほとんど語られないけど)戦後民主主義を擁護したりと、江藤淳には批判的であるようである。
 
 
 ちなみに、江藤淳にとっての(サブカルの特徴である)「虚構性」とは、歴史と地理から切り離された「近代=戦後民主主義=戦後日本」のことである。

 唐突だが、政治哲学(ほとんど近代をいかに正当化するかの学問)に関心を持っている人間にとっては、江藤淳のこの「近代=虚構」という批判は、まさにコミュニタリアニズムによるロールズの正義論に対する批判と同種のものである。

 したがって、「政治哲学で繰り広げられている論争が、文芸の領域ではどうなっているのか?」というのはおもしろそうな問題である。

 このへんの問題が、大塚英志のどの本に書かれている(いない)かは分からないけれど、そのうち読んでみたいところではある。

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[10/20 新免貢]
[05/08 (No Name)]
[09/09 ST25@管理人]
[09/09 (No Name)]
[07/14 ST25@管理人]
[07/04 同意見]
最新トラックバック
リンク
プロフィール
HN:
ST25
ブログ内検索
カウンター
Powered by

Copyright © [ SC School ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート and ブログアクセスアップ
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]