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山崎正和 『混沌からの表現』 (ちくま学芸文庫、2007年)
1977年に出版された文化論・文明論に関する中短編を集めた本の文庫化。
著者が中央教育審議会(中教審)の会長になったとはいえ、30年経って中短編集を文庫化した理由はよく分からない。
けれど、著者の物事の普遍・本質を見通す力のためか日本人が学習してこなかったためか、どの文章も今でも十分に通用する。むしろ、今の問題とのシンクロ率が高いあまり感動を覚えることもしばしばなほど。
山崎正和は、一時期ものすごくはまって色々と読み漁った。最近は新聞での論評などを単発で読む機会がある程度で、まとめて読むのは久しぶりだった。それで、改めて、一つ一つの視点が味わい深くておもしろいことを実感した。( ただ、外交論は冷戦時代のままの思考であって読む価値はほとんどない。この本には収録されてないけど。)
そんな山崎正和の視点やスタンスを端的に表しているのが、「 人間が知り、人間が作るもののすべてを含んで、それを「文明」とか「文化」とか呼ぶことが、かつては疑いなく可能であった。(中略)〔だが、知識が専門化して、〕人間が細分化され、人間性が失われていくのと並行して、他方ではそれを快復すると称して、空疎な政治スローガンがわれわれを偽の常識に誘惑する。 」(pp124-125)という問題意識が述べられた後に出てくる次の文章。
「 どのような暗黙のリズムが、われわれの毎日の生活を静かに統一しているか。どのような現象が、今日そのリズムを醜くかき乱しているか。それを「批評」というかたちで、わざわざ言葉にあらわさねばならない現代は不幸な時代である。「文明批評」などという奇妙な仕事は、それ自体、文明が病んでいるということの証拠としてあるのかもしれない。けれども、まさにそのような時代であればこそ、現代の文明批評には新しい任務が生まれたともいえる。もちろん、それは専門的な知識を使って問題を指摘したり、新しい統一的な世界像を性急に描いて見せることではない。むしろ、必要なことはその正反対であって、身辺のあらゆる些事について、共通の感覚をことばによって快復させる仕事である。本来ならばあらためていう必要もなく、いえばかえって嘘になるような生活の了解を、ひとつひとつ忘却の淵からひろい出して来る仕事である。いいかえれば、現代の生活のスタイルを、それなりに言葉によって再確認する作業である 」(pp127-128)
この認識自体も一つの例だけど、この本にはそんな“文明批評”の実践例がたくさん収録されている。
それらを読むと、文化とか慣習・道徳とかが持っている思いもかけない奥深さや複雑さやおもしろさの存在を知ることができる。
( ※このことを踏まえると、日本文化や日本人の慣習・道徳をあたかも教科書がある一つの科目のように学校で教えようとする安倍首相や教育再生会議の考えが、いかに無知で浅はかなもので、逆に、むしろ日本文化を貶めるものだということを嘆かずにはいられない。 ちなみに、自分は、近代主義者とはいえ、社会現象の文化論的説明や道徳的説教や道徳的議論や文化の政治利用などが嫌いなのであって、日本文化論とか日本文化それ自体とかは嫌いではない。 )
「人生を楽しむ」というと、何でもかんでもすぐにポジティブに考えて済ますことだという、あまりに表面的で浅薄な人生観が圧倒的多数を占める世の中にあって、同じ前向きであっても、ありのままの物事に存在する奥深さを味わうという(今となっては懐かしい感のある、教養的な)いき方を提示しているこの本は、現代人の生に対して根源的な革新を迫るくらいのパワーを静かにたたえているのだ。
吉田豪 『元アイドル2』 (ワニマガジン社、2007年)
松本伊代、岩崎良美、青田典子、鈴木早智子、桜庭あつこ、後藤理沙など、70年代から90年代に活躍した元アイドルに当時の本音を聞いたインタビュー集。
個人的には妙にタイミングよく、昨日読んだ。 (どこかで誰かが元アイドルになったと今朝伝えられた。)(追記:引退宣言はしてないって翌日に伝えられた。)
第1弾のときに酷かった点は改善されていて読みやすくなっていた。
前回の第1弾では、とりわけ辛い経験をしてきた元アイドルをあえて集めていたけど、今回は芸能界という野蛮な世界の中で、若い女の子であるにもかかわらず自己主張をしたりのん気にやり過ごしたりして、(処世術として)ある程度成功した例を集めている。(だからといって、苦悩がないということでは全くない。)
第1弾が極端な「絶望篇」だっただけに、次に(小さいものだけど)「希望篇」を作るというのはグッドな対応。
この本から読み取れる最大の教訓は、「あとがき」でイタビュアーも述べているように、つまるところ、「 事務所は余計なプロデュースをするな!この点、ブログは素晴らしい! 」ということ。
全く同感。
芸能事務所に「売れるキャラ」が完全に見抜けるわけではないし、若い女の子が本来の自分とは大きく異なるキャラを演じきることは難しいし、(メディアを含めて)消費者の側は演じられたキャラより本来のキャラを求め見抜こうとするのだから。
もともと性格上のアイドル不適格者は何をしたって不適格なのだ。
無理してキャラを作り、本人は辛い思いをし、ファンは幻想を抱き、結局、キャラや本人が破綻・爆発して、ファンは裏切られ、本人は日の目を浴びなくなり、、、という不幸な結末にしかならない。
それから、この本を読んで思ったのは、やっぱりアイドルの活躍如何が「事務所の力」とか「(番組プロデューサーなど)使い手の好み」といった、(アイドル本人の実質的な力とはほとんど関係ない)不公正な要因によってあまりに大きく左右される現状は何としても変えなければならないということ。
その点、最近滞っているアイドルブログ・ランキングを頑張らないと、とも思った。
アイドルブログ・ランキングは、ただ単にアイドルを序列化して喜ぶために作ったのではなく、アイドルにブログをおもしろくするためのチェックポイント(のようなもの)を知らせるためと(※どこまで伝えられているか/伝えようとしているかは甚だ怪しいけど )、「 ブログのアクセス数≒知名度≒事務所の大きさ 」という現状に対して内容の良し悪しという実質的な評価をすることで頑張っている人を正当に評価したい、という2つの理由が作り始めるに際して大きな動因になった。 (他にも、数値化して客観化・比較可能化したいというのも、今回の話の流れとは関係ないけど、大きな理由の1つ。)
理念ある消費者として、理念あるアイドルファンとして、頑張らなければ。
ちなみに、自分は、この本の著者みたいに、アイドルに裏切られるのを恐れるあまり裏切られるリスクの小さい岩佐真悠子みたいな自由奔放キャラに向かうことはせず、元々の性格からして正統派アイドルである真の正統派アイドル(ex.平田薫)を探す苦難の道にあえて進んでいく。(※正統派に限らず、本質的な性格が優れていることを応援の前提にしている。)
本谷有希子 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』 (講談社文庫、2007年)
各種の演劇賞、文学賞をにぎわしている、1979年生まれの若き劇団主宰者・小説家による小説。今夏、佐藤江梨子主演で映画化される。
本谷有希子の名前は各所でいろいろ聞いていたけど、作品に触れるのは初めて。
期待して読んだけど、特におもしろくはなかった。
自分が唯一無二の特別な存在だと信じ込むことで生きている澄伽、澄伽の現実離れした危うさを分かりつつも彼女を肯定する役割を引き受け続ける血の繋がりのない兄・宍道、澄伽をひたすら客観的に観察し続ける妹・清深、澄伽とは対照的に現実の平凡さ・厳しさをそのまま受け入れて大きな望みを抱かずに生きている宍道の妻・待子。この4人の危うい同居生活および澄伽の危うい実存が破綻するまでを描いている。
確かに、澄伽のように、現実の辛さに目を向けず、他者とのコミュニケーションも自己肯定や自己の存在意義の確認のためのものでしかない、“自我のもろくて危うい人”というのは現代に多い特徴の1つかもしれない。
だけど、この現象自体はけっこう認識されていて、作品の主題として新奇なものではない。
では、「描き方に何か秀でたものがあるか?」といえば、別にそうでもない。
特に、登場人物たちではない第3者的な視点から4人をほぼ同等に扱っているために、どの人をとっても描写・踏み込みが浅くなっている。
ストーリーも、危うい自己が破綻するまで、いたってシンプルな流れ。
高橋源一郎の「解説」も、最初に本谷有希子をべた褒めしてる割に、後半で小説の内容に触れつつ言ってることは1970年代かと見まがうばかりの古い話でしかない。すなわち、「絶望的な現実に直面する実存」という。これでは肯定的な評価にならない。
と、そんなわけで、この作品は期待外れだったのだけど、Amazonの単行本版のレビューを読んで、本谷有希子に対する判断は持ち越すことにした。
というのも、まず、この小説は、舞台で上演されたものを小説にしたものであるとのこと。
それなら、焦点を1人に絞らず、各登場人物をそれぞれにそこそこ描き、結果、それぞれの人物の描写が浅くなるのもやむを得ないところかもしれない。
それから、この小説は、本谷有希子の作品の中では出来の芳しくないものであるらしい。
それなら、他の作品を読まないわけにはいかない。
そういうわけで、結論。
兎にも角にも他の小説を読まなくては。
京極夏彦 『鉄鼠の檻・分冊文庫版(一)(二)(三)(四)』 (講談社文庫、2005年)
謎の寺で起こる禅僧連続殺害事件の謎に迫るミステリー小説でありながら、初心者にも分かるように禅の何たるかを教えてくれる1300ページ超の力作。いわば、『ダ・ヴィンチ・コード』の禅版。(というのは、さすがに、ミステリー小説をほとんど読まず、宗教にも無知な人間の短絡か?) ちなみに、タイトルは「てっそのおり」と読む。
初めての京極夏彦だし、かなり長いし、最後まで読めるか不安だったけど、おもしろくて、読み甲斐もあって、難なく最後まで読めた。
Amazonの文庫版のレビューを見ると、「禅のことはよく分からないから置いといて、ミステリーとしてはいまいち」という感想が多い。
確かに、最後の種明かしのところは、それまでの物語の展開のさせ方(のレベルの高さ)からすると、作り込みが浅くて期待はずれの感はある。
だけど、事件のトリックとか犯人の動機とかキャラクターのおもしろさとかに重きを置いて読むのは、この小説の味わい方としては一面的すぎる。
なぜなら、この小説は、ただのミステリー小説ではなくて、文学的・哲学的な小説だからだ。
具体的に言うと、まず、禅とは何かについて直接的な説明で伝えるだけでなく、物語全体を含めて、禅的な要素や構成が各所に散りばめられている。
特に、禅とは全く無縁である登場人物が、現実世界について・人生について悩んだ挙句、禅的な“小さな悟り”を得ていくという展開は、まさに知識として与えられた禅のさり気ない応用・実践例となっている。そして、これは様々な登場人物に当てはまっている。
この、物語の展開とともに進んでいく“禅的深化”(あるいは、“檻”からの脱出)とでも名づけられる各人の変化、そして、そのプロセスの緊張感溢れる詳細な描写は、世俗の世界や人生に関する問題の禅的な解決の道筋を大胆に示していて、この小説の醍醐味の1つとなっている。
これは、この小説における禅の適用範囲の横への広がり(非禅僧・世俗世界への適用)という効用をもたらしている。
他方、この小説は、禅に関する基本的な知識を教えるだけでなく、禅に関する難しい問題にも挑戦している。
例えば、「宗教は大衆を救済するべきはずなのに、禅僧が寺にこもって修業し続けるならそれはただの自己満では?」という禅と社会との関係に関する問題や、「以心伝心、教外別伝である禅における言葉の位置付けとは?」という禅と言葉に関する問題や、「悟りは脳波によって測定・解明できるか?」という禅と科学に関する問題などである。
これらによって、この小説における禅の(あるいは人間の哲学的・実存的問題の)扱いに際しての深みが増している。
こうして、この小説は、禅的要素が“幅広く”かつ“奥行き深く”使われている、したがって、禅の世界に止まらない世俗の世界や人生に関係する問題が深く問い詰められている、文学的な小説になっているのである。
さて、それで結局、禅とは何なのか?
「分かった」と思って口に出した途端に逃げていく類いのもののようだし、実体験が伴わないから、何とも言えないけど、話の終盤近くに出てくる(したがって、若干だけどネタバレでもある)部分がもっとも自分には分かりやすかった。
「 生き乍(なが)らにして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだ 」(第4巻・p88)
これだけ見ると「何のことやら」という感じがするかもしれないけど、「 〔悟りは〕修業の終着点ではあり得ない 」(第2巻・p304)、「 生きることが即ち修業であり、生きていることが悟り〔である〕 」(第2巻・p305)といった他の説明とも合わせて考えると、それなりに理解できるような気がする。
禅は、神秘体験のような非日常的な契機を否定したり、他者を巻き込まずあくまで個人的な生のあり方として存在していたりと、他の宗教とは異なっているところが多々あるようである。
とはいえ、やはりそこは宗教、よく分からないところはもちろんある。
武田泰淳 『ひかりごけ』 (新潮文庫、1964年)
表題作を含む4篇が収録されている。収録作のみ読んだ。
表題作「ひかりごけ」は、沈没した船の船長が酷寒の地で死んだ仲間の船員の人肉を食べて生き延び、法的道徳的罪に問われたという戦中の事件を基にした小説。
人間の原罪や戦争の本質などが描かれる。
ただ、個人的に興味がある生命倫理の観点からも読める。
生き延びるために死んでいる人の人肉を食べる行為は許されるか? あるいは、生き延びるために人を殺してその人肉を食べる行為は許されるか? そして、食べられる側が生前、了承していた/いなかった場合はどうか?
実際の事件で起こったこと、そして小説に出てくることは、本人の承諾なしで死体の人肉を食べた行為である。人肉のためにあえて殺してはいない。
生命倫理に関するこの点、この小説では、船長、生存した船員、世間の人々といった登場人物たちが、皆、もともと死んでいようがあえて殺したものであろうが、人肉を食べることは生き延びるためであっても道徳的に良くないと当然のことのように考えている。
けれど、この前提は(少なくとも)現在からすればそんなに簡単に採用できるものではない。
まず、脳死臓器移植という、一人の命を救うためには死の定義を緩める(誰かを殺す)という制度や議論が公然とまかり通っている。
これと比べれば、承諾さえあれば、あえて殺して人肉を食べるのも問題ないとなってくる可能性がある。しかも、酷寒の地での極限状況下であることを考えに入れるなら、承諾がなくても許されそうだ。
それから、法的に考えても、そんなに簡単に不道徳な行為と決め付けることはできない。
通常、人を殺せば殺人罪、死体を切り裂いて人肉を食べる行為は死体損壊罪に問われる。
けれど、生き延びるためであれば、(刑法上の概念であるところの)緊急避難によって違法性が阻却され、罪には問われないと思われる。(本当に生き延びられない状況だったか判断するのには困難が伴うけど。)
そして、実際、極限状況であれば「生きるためにやむを得ない」と、大抵のことが正当化されるのが一般的な倫理観ではないだろうか。
こう見てくると、この小説は、人々の道徳に関する前提に違和感がある。
それでも、森鴎外の「高瀬舟」よりは生命倫理に対する深い問題を提起しているようには思うけど。