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by ST25
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 大伴茫人編 『徒然草・方丈記 〈日本古典は面白い〉(ちくま文庫、2007年)
 
 
 「日本三大随筆」のうちの2つである兼好法師『徒然草』(7~8割の抜粋)と鴨長明『方丈記』(全文)を、各段ごと、現代語訳・原文・語釈の順に収めた本。( 同時に『枕草子』編も出版されている。)

 構成がすらすら読み進められる作りになっていて、訳・注釈も分かりやすいから、普通の本みたいに楽に読み通せる。
 
 
 古典は学校教育と受験勉強で部分的に“死んだ”摂取をしただけだから、いつか改めていろんな作品の全体を読み返してみようとずっと思っていた。

 それで今回この2作を読んだわけだけど、その感想は、(あまりに受験用の受容だった自分の恥を晒すことにもなるけど、)「 それなりにお堅い文学作品だと思い込んでたけど、改めて冷静に考えれば、“随筆”なんだからそりゃこんなものか。 」というもの。

 言ってしまえば、“随筆”だから、内容的には普通の日記=ブログ的な雑感にすぎない。学校では取り上げられないような、男女間の話だとかただのひがみみたいなものとかもあったりするし。

 確かに、中には(特に『徒然草』の方で)、おもしろい見方やロジックを展開しているものもあるけど、大抵は今の人が考えることとそんなには変わらない。( ちなみに、『方丈記』の方は、一人の老人が自分の現在の生き方を言い訳がましく正当化しようとしているものに見えて内容的なおもしろさは小さい。)

 なら、果たして、“随筆文学(?)”として後世に受け継がれ続けるか否かの基準は一体何なのだろうか?

 現代でも通じる教訓? ――『徒然草』の方は多少はあると思う。でも、『方丈記』の方はあまりないし、『徒然草』にあるとはいっても、世間で教訓として『徒然草』が引き合いに出される場面というのは、他の本と比べればかなり少ない。それに、全部で244段ある(『徒然草』の)うちで、冒頭以外に覚えている内容がどれだけあるだろうか?

 当時の生活・思想を知ること?――それは文学的な意義ではなくて歴史学的な意義にしかならない。

 名文?――確かに名文ぞろい。声に出して読みたくなる。暗誦したくなる。これは確かに『徒然草』、『方丈記』の存在意義になり得る。
 
 
 ということになると、山形浩生による「日本文化のローカル性」に関する厳しい指摘に直面することになる。

 山形浩生は、デカルトやらアダム・スミスやらファラデーやら孔子やらを引き合いに出しつつ、昔の日本人による作品についてこう述べる。

日本の当時の気分を描いたようなものはあっても、いまに至るものの考え方を決定的に変えたと思えるものがない (上記リンク先の文中)

 げに。

 古典を読みたいと思うときは大抵、名文に癒されたいというような気分のときだし、古典が流行るとしても「声に出して読む」だとか「えんぴつでなぞる」だとかだし、内容の方が注目を集めること・先行することは稀である。

 これは、日本の古典の1つの特徴として受け入れなくてはいけないと思う。
 
 
 でも、 感性として日本チックねー (同)というものに触れることの意義というのもあると思うのだ。
 
 
 ※ こっから先、古典作品を改めて読み返したのはまだ2作だけだから、判断が付かなくてどっちつかずのところはあるけど、とりあえず今現在の考えを書いておこうと思う。
 
 
 一つには、古典と呼ばれるものこそが(なぜか)日本語を代表する名文であること。名文にたくさん触れることで、使う日本語がきれいになるかもしれない。( 果たして古語の名文に触れることで現代語がきれいになるか?という疑問はある。)いや、別に言葉がきれいにならなくても、名文を味わうという楽しみは、実用性とは違った、文章を読む楽しみの一つとして認められなければならない。( 名文を暗誦させて身体化させる学校教育万歳。)

 もう一つには、凡庸とは違っていながらも、典型的に日本的だと感じさせる、“ものの見方・感じ方”を知ること・獲得することができる。 ( この観点からすると、古典作品で有意義なのは作品全体ではなく作品の中の代表的な一部ということになる。作品の一部を暗誦させる学校教育万歳。)

 この2つのことというのは、古典作品が日本人・日本文化の美意識の雛型であることを意味しているわけで、これを短い文章の中に凝縮させているというのはなかなか凄いことだ。

 こう考えるなら、古典作品にも“日本(文化)代表”ということで、「やっぱり存在意義はある」と思うのだ。

 ただ、もちろん、“日本代表”の古典作品としての存在意義を認められるためには、“名文であって見方・感じ方が非凡庸かつ日本的な作品”をしっかり選別しなければならないけど。( この点、『方丈記』は序文以外きつい。『徒然草』も、後者の点で果たしてどうだろう。) 
 
  
 むしろ、「しょぼい」のは、作品ではなく、内容に大して注意を払わないで、文を音として味わうことばかりに気を取られている日本人の文化摂取態度の方だという気がする。( これこそまさに内容が「しょぼい」証拠だと取れなくもないのはきつい。)

 古典作品を読みながら、上でも触れた「日本語における名文の名文たる所以の探求」であるとか、「日本人的・日本文化的美意識の特徴の抽出」であるとかを、考えたことがあるだろうか? または、学校で教わったことがあるだろうか? ( そりゃ、日本文学者とかはこういう作業をもちろんやっていることだろうけど。)

 こういう普遍化作業を行わないと、「 これを好きな人はいるだろうけど、基本的には古いだけの歴史的価値しかない作品 」という位置付けになってしまう。

 この本の編者が日本と欧米と(例えば『徒然草』と『エセー』)を比べて行っている、時間的な早さ/遅さを価値判断・優劣の基準にした評価なんて、内容や質的なことにほとんど注意を払っておらず、まさにこのダメな位置付けを押し進めるかのようなものだ。
 
 
 
 とはいえ、学校教育でも世間でもほとんど内容に注意を払われない日本の古典作品は、やっぱり「しょぼい」のかなと思わないこともない。

 『ハムレット』が時代を超えて名作だとされるのは To be, or not to be: that is the question. があるからではない。

 果たして、 つれづれなるままに、日暮らし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。 がなくても『徒然草』は名作なのか?

 果たして、 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。 がなくても『方丈記』は名作なのか?
 
 
 とりあえず、もっと他の古典作品も読み返してみて判断材料を増やさなければ。

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 爆笑問題、パトリック・ハーラン 『爆笑問題・パックンの読むだけで英語がわかる本(幻冬社文庫、2005年)
 
 
 ちょっとした気分転換用に古本屋で105円で買ったもの。

 中一レベルの英文法を説明しながら、3人でおもしろい掛け合いをいろいろ繰り広げている。

 小学生以外にとっては英語の勉強用に役立つようなものではないけど、とにかく笑える。( 逆に、笑いの部分に関しては、小学生には前提知識が欠ける分、きついかも。)

 爆笑問題とパックンの笑いの質が似ていることもあって、爆笑問題だけのものよりおもしろさが増してさえいる。

 それに、太田光とパックンの笑いは、笑いながらも、一方では発想の自由さとか頭の回転の速さに思わず感心してしまうようなものが多い。

 そんなわけで、短いし内容もあまりないけど、気軽に買った割りに、笑いという点での満足度はかなり高い一冊だった。

 爆笑問題の本の中でも出色の一冊と言える。
 
 
 パックン・マックンは、“オンバト”(NHKの「爆笑オンエアバトル」)がおもしろくて盛り上がってた頃とか、“(おそらく元祖の)英語の教科書の変な表現ネタ”とかやってておもしろかったし期待もしてたんだけど、その後、あんまり変化・進歩がなくて、あんまりおもしろく感じなくなってきてた。( 依然それなりにおもしろいとは思うんだけど。)

 でも、この本を読んで、やっぱり(少なくともパックンには)センス・能力があると感じたから、何とか盛り返してきてくれることを期待したいと思った。

 お笑いつながりでついでに言っておくと、「エンタの神様」(日テレ)が中心となって押し進め、結局、近年のお笑いブームの火を消す(のを助ける)ことになった(ている)“キャラだけの人たち”(※ダンディ坂野、HG、カンニング竹山、波田陽区、小梅太夫、桜塚やっくん、ムーディ勝山などなどなどなどなどなど)は、もう本当に勘弁してほしい。狙いすぎてわざとらしさがにじみ出てて、(精々最初しか)笑えなくてむしろ痛々しい。変なキャラを作るだけならほとんど誰でもできる。型がおもしろいだけなら代替可能性が高い。視覚的な反応は反射的な楽しみしか味わえない。特異なキャラもすぐに慣れてきて飽きる。その証拠に彼らの普通のトークはおもしろくない。

 「プロフェッショナル」って何なんでしょうね?NHKさん。

 パオロ・マッツァリーノ 『反社会学講座(ちくま文庫、2007年)
 
 
 痛快でありながら(データを用いて)真っ当に俗説をぶった切る名著の文庫化。

 単行本を読んだとき以来の再読。

 「最近の若者は」とか「昔はよかった」とか「欧米では」とかいったマスコミ的、説教オヤジ的俗説がかなり論拠の怪しいものだということは、社会問題に興味のある人たちの中ではますます一般的になってきた。(除く:政治家、大企業経営者、マスコミ)

 その点、やはり初読のときの新鮮さは薄れてはいる。

 だけど、やっぱりおもしろい。大爆笑した。

 著者がこの本で見せる笑いのセンス(特に対象の戯画化のうまさ)は、天才的。
 
 
 そんな著者の観察の根底にあるのが、「人間いいかげん史観」。

 いつの時代も、どんな国でも、どんな(年齢や地位の)人でも、人間は、けっこういい加減だし楽しようとするものだ、というもの。

 ( 個々に見れば例外はあるにしても、)残念ながら、これ以上の人類不変の真理があるだろうか? ( これを受け入れているのが、資本主義であり法治国家であり、その対極にあるのが、共産主義でありアナーキズムである。)

 「人間いいかげん史観」による「本当に新しい歴史教科書」ができたら、それはそれでかなり教訓に満ちたものになると思うんだけど、(部分的にでも)実現してくれないものだろうか。
 
 
 ちなみに、文庫化に際して各テーマごとに付け加えられている「三年目の補講」は、内容も大してないし、特におもしろいということもないから、文庫化による付加価値は(値段と持ちやすさ以外には)ほとんどない。

 大江健三郎 『大江健三郎 作家自身を語る( 聞き手・構成:尾崎真理子/新潮社、2007年)
 
 
 大江健三郎が50年間の作家生活をインタビューで語っている自伝。

 普段の生活、他の作家(および作品)との交流、小説の創作過程など、好奇心を満たしてくれる話がいろいろ出てくる。

私は自分という人間には魅力がないと、知っていましたよ。国民学校といった小学校の一年になって、近所の子供たちと一緒にランドセルを背負って学校に行きますね。その際、友達を見て、本当にこいつは子供らしい愉快さや美しさを持ってるな、と私は思った。自分はもうすでに自意識的で、子供らしい自然な魅力がないと失望していました。
 (中略) しゃべり方や歩き方までそうです。実に自然なところのない子供だった。その思いが今に続いています。 (p159)

 というような、本人自身について本人自身でも自覚している、大江作品の主人公にも共通する、奇妙な滑稽さ(p158)が、話の随所からにじみ出ている。
 
 
 いろいろ興味深い話は出てくるけど、中でも、興味深いけどなかなか知る機会のない、各作品が生まれた経緯とか創作過程が明かされているところはおもしろい。

 特に、作品中にも引用されているダンテやブレイクなどの詩(およびその日本語訳)との関わり方の、深さと特異さ、そして、それらの詩の人生における位置付けの大きさには驚く。

 完成度の高い一級の詩にはそれだけの噛み応えもあるのだろうから、それとともに人生を歩むというのは、自分の“自然な”感情の流れと豊かに寄り添っていくことであり、実に楽しそうだ。

私はやはり詩人に対する信仰を持っているんですね。本当の詩人は、かれが生きている間に、生きていくこと自体に対する結論を、言語で表現する人だと思います。 (p201)

書き始めると、(中略) 挿話にふさわしいブレイクの詩がすぐさま浮かんでくる。今は記憶力が衰えましたが、あの頃は、ブレイクの詩を百行ほどならいつでもそらで引用できたと思います。 (p168)

 そんな、いわば“詩的人生”には、( 楽しそうなのに自分ができないこともあって)憧れる。
 
 
 大江健三郎の小説は、まだ読んでないのがけっこうあることだし、どっかに篭って何にも邪魔されないで、既読のものも含めて改めて最初の作品から全て読み通したいと思った。(無理だけど)

 というか、そもそも大江健三郎の小説は、(初期以外の作品も含めて、)そんな余裕のある精神状態で読む小説ではない気もするけど。
 
 
 それにしても、この自伝にしても、“遺作”『さようなら、私の本よ!』にしても、既発表小説の豪華版の発売にしても、最近の大江健三郎の、作家としての仕事を総括するような活動の首尾の良さには、焦燥感に駆られながらカタストロフィを待望していた(ように見受けられた)大江健三郎からは想像もできない安楽感を感じる。

 最期まで不器用にあがくより良いことなんだろうけど、正直、予想外ではある。( どんな人にも光が注ぎ得るという明るいニュースでもあるわけだけど。)

 四方田犬彦 『先生とわたし(新潮社、2007年)
 
 
 ネットの一部で評判になっている本。

伝説の知性・由良君美との出会いから別れまでを十数年の時を経て思索、検証する、恩師への思い溢れる長篇評論。 (帯より)
 
かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、(中略) ゼミの後で由良君美の研究室に成立していた、親密で真剣な解釈共同体を懐かしく思うが、ノスタルジアを超えて、かかる共同体の再構築のために腐心しなければらない (p233)

 
 
 とはいえ、非常にノスタルジックな語り口で語られていて、「古きよき時代の」と言ったときに想い起こされる、大学の(人文系の)教養主義的な雰囲気を全篇において醸し出している。

 それだけに、逆に、そういった教養主義的なものの“現代における不可能性”ばかりが意識される。
 
 
 そういった圧倒的知性というものは、これからはあくまで偶然的産物として受け止めるべきなのか、それとも、学問の魅力を伝えるのに欠かせない存在として積極的に作っていこうとすべきものなのか?

 教養と一口に言っても、この本で出てくるのは人文系の教養だけだけど、そもそも人文系の教養と社会科学系の教養は分けられるものなのか、密接不可分なものなのか?

 現代における教養とは、具体的には何を含んで何を含まないものなのか?
 
 
 等々、現実的に考え始めると難問は尽きないけど、とにもかくにも、読み物としては味があっておもしろかった。

 大学にもこういう世界がかつてあった(そして一部にはおそらく今もある)ということを知るために、高校生とか人文系の大学1年生が読むと良いのではないかと思う。

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