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行方昭夫 『英文の読み方』 (岩波新書、2007年)
「 正確な日本語に訳せて初めて英語を理解できたと言える 」という考えの下、正確な英文読解力を身に付けるためのポイント(※前提的な英文法の知識がある人向け)を丁寧に解説している本。
英文を理解するのに欠かせないにもかかわらず学校教育でしっかりと教えられることの少ない(と自分の経験から思う)ポイントがいっぱい説明されているし、英語を「 文法を理解して機械的に英単語を日本語に置き換えるだけ 」だと思っていては味わえない英文を読むことの楽しさも伝わってくる。
だから、中高生くらいが読むといいと思う。もちろん、受験英語を終え、その英語を使って英語の簡単な本でも読んでみようかという大人にもいい。
ただ、「 ここまで細かく訳し分ける必要があるの?」と疑問に思うところもないこともない。
そうなると、そもそも「正 確な日本語に訳せて初めて英語を理解できたと言える 」という考えはどこまで妥当するのだろうか?という疑問に行き着く。
とはいえ、「正確な日本語に訳せるようになること」が英語理解度の重要な尺度であることは間違いないし、自分はまだそこを目指すべき人間ではあるのだけど。
ところで、思えば、まだ英語の小説(小説こそ微妙な読解・訳が重要になる)を一冊も読み通したことがない。
この本で紹介されているgraded readersシリーズでも読んでみようか。( 思えば、graded readersシリーズなんて便利なものがあるのも初めて知った。)
山崎正和 『歴史の真実と政治の正義』 (中公文庫、2007年)
歴史と政治の関係を論じた表題作、現代における教養論、司馬遼太郎論の3つの中編を中心に編まれたもの、の文庫化。
90年代後半に書かれた文からなっていて、グローバル化と情報化に影響されすぎた内容のものが多い。
最近読んでないからあくまで読んだ当時の印象だけど、山崎正和の短文集なら『二十一世紀の遠景』が(良いところ悪いところ含めて)包括的で一番おもしろいと思う。
とはいえ、今回の本も山崎正和の文章の中ではいまいちなのであって、巷に氾濫している駄文や駄コメントに比べれば少なくとも100倍はおもしろい。
とはいえとはいえ、そんな本書の収録作の中でも、追悼・追想として書かれた2つの司馬遼太郎論は例外的に卓越しておもしろい。
特に、「風のように去った人――追悼・司馬遼太郎」の方。
著者は司馬作品の中でもモンゴルを舞台にした『草原の記』をこそ傑作だとする。その読後の感銘は次のように表される。
「 この作品を読了した私の胸を打ったのは、司馬さんはとうとうたどりついてしまったのではないか、という感慨であった。見るべきものはすべて見てしまったというか、偉大な歴史文学者がついに歴史のない世界、あるいは反歴史の世界観につきぬけていったという思いであった。 」(p142)
「反歴史の文学」・「反歴史主義の文学」。著者は司馬文学をそう表現する。
この『草原の記』も含めて司馬作品をほとんど読んでない自分が言うのもなんだけど、司馬作品を読んでまず感じる印象的な乾いた筆致と、それとは対照的な愛読者の暑苦しい反応。この距離感に対する違和感に納得できる説明(というか、読んだ第一印象を正当化する読解)を与えてくれたのが、司馬遼太郎と親交もあったこの山崎正和による司馬遼太郎論だった(のを思い出した)。
「歴史の真実と政治の正義」のような区別と似ているけれど、「作品自体の評価とその作品の自分にとっての意味」は、しっかりと区別しなければいけない。
なんでもかんでも、やたらと自分や会社や社会にとっての教訓を引き出す類いの受容は、大抵の場合、おそらく、その作品の本来の意味や内容を理解していないのではないかと思われる。
小説や映画や演劇などの感想によく見られる、1つの台詞をあげて「これが印象に残った」という類いの感想はその典型だ。
別にそういう楽しみ方を全否定するわけではないけど、そういう“我田引水”の私的な受容だけでは、全てが「♪育ってきた環境が違うから 好き嫌いはイナメナイ」(『セロリ』唄:SMAP、作詞・作曲:山崎まさよし)で済まされてしまって、タコツボ的な狭苦しいコミュニケーションのない状況を生むだけなのだ。
これでは緊張感も進歩もない。
話がずれ始めているけど、とにかく、この司馬論を読んで、暑苦しい愛読者の反応ゆえ(だけでもないけど)に読むことを避けるようになった司馬遼太郎を、改めて読んでもいいなぁと思わされた(のも思い出した)のだ。
けど、結局、読んでない。(弱められたとはいえ、英雄史観に変わりはないわけで。)
でも、『草原の記』くらいは、読まなければ、とは思う。
三浦しをん 『私が語りはじめた彼は』 (新潮文庫、2007年)
あえて一言で表すなら、無常が定めの虚しい世の中にあって、“(ことさらに)求めていかない愛”のみが存立可能であること、また、そういった“愛”の逞(たくま)しさ、美しさを静かに描いた連作長編小説。
一人の男(=「彼」)の奔放な愛に振り回され、裏切られ、傷つけられた男女たち(=「私」)それぞれの物語・視点を通して、“真の愛”(とは何か)が紡がれていく。
人間の微妙な感情の襞(ひだ)を見事にすくい取った、純文学らしい名作。
文章も美しい。
「 「私は、私にとっての真実を語りました。事実は一つですが、真実はきっとひとの数だけあるでしょう」 」(p50)
「 「あなたの心に打ちこまれた杭は、いずれは溶けますよ。でもぽっかりと空いた穴はいつまでも残るでしょう。それは痛み続け、そこを通る風音があなたを眠らせぬ夜もあるかもしれない。だけど私は、この痛みをいつまでも味わい続けていたいと思うのです。それが、私が生きてきた、そしてこれからも生き続けていくための、証となるからです。私の痛みは私だけのもの。私の空虚は私だけのもの。だれにも冒されることのないものを、私はようやく、手に入れることができたのです」 」(p49)
「 「でもいまは、村川や太田春美を哀れと思います。自分の中の何かを差し出し、なげうてば、だれかを手に入れられると無邪気に信じる彼らを、とても哀れだと」 」(p48)
この受動的ながら前向きな信念・諦念の先に成立する“愛”こそが真の“愛”になる。(ということだと思う。)
この作品は、話が進むにつれて話に深みが増してくる。それから、最初の話はものすごくミステリー小説みたいな様相を呈している。
それだけに、最初の方は油断して気楽に読んでしまった。
最初からもっとじっくり読むべきだった。と今になって思う。( 第一話なんか結構重要だし。)
もう一度読み直せば良いわけだけど、小説にそんなに時間をかけるのもなぁという気もするから、とりあえず一読した限りでの感想を認(したた)めた次第。
原田宗典 『劇場の神様』 (新潮文庫、2007年)
表題作を含む4つの短編からなる。
素朴で身近で日常的なちょっとした出来事や感情を各作品で一つずつ描いている。
いろいろ出版されている「ちょっといい話」みたいな内容。
日常的な出来事を文章のうまい作家が書くとこうなる、という感じ。
それだけ。
「 これが小説であることの意味はどこにあるんだろう?」って思ってしまう。
著者自身による解説のようなものを読んでも、特に得られるものはない。
なんか、小説もこの解説も、読み手の感情に任せすぎなような気がする。
そりゃ、どんなものでも、何かを読めば、何かしらの感情は喚起されるんだろうけど、それなら、どんな文でもよくなってしまうわけで・・・。
林渓清 『F1の秘密』(PHP文庫、2007年)
F1の基本的もしくはトリビア的な情報をたくさん載せている本。
F1のことをほとんど知らない人がちょっとした好奇心から読むにはいいのかもしれないけど、F1ファンが読んでも新しく得られる知識・情報はかなり少ない。
だから、『F1の秘密』というタイトルはミスリーディング甚だしい。『F1入門』、『F1の常識』くらいが適切。
そんなわけで、F1マシン並みの速さで読み終えた。
ちなみに、F1の本なら、田中詔一『F1ビジネス』がおもしろい。
F1を好きになった当初は、檜垣和夫『F1最新マシンの科学』を読んで、オーバーステア/アンダーステアみたいな基本的なところから勉強したものだ。
フェラーリ=シューマッハの強さを支えたタイヤの責任者・浜島裕英『世界最速のF1タイヤ』も読んだ。けど、内容が薄い。
と、無理やり記事の長さを稼いだところで、おしまい。