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山崎正和 『歴史の真実と政治の正義』 (中公文庫、2007年)
歴史と政治の関係を論じた表題作、現代における教養論、司馬遼太郎論の3つの中編を中心に編まれたもの、の文庫化。
90年代後半に書かれた文からなっていて、グローバル化と情報化に影響されすぎた内容のものが多い。
最近読んでないからあくまで読んだ当時の印象だけど、山崎正和の短文集なら『二十一世紀の遠景』が(良いところ悪いところ含めて)包括的で一番おもしろいと思う。
とはいえ、今回の本も山崎正和の文章の中ではいまいちなのであって、巷に氾濫している駄文や駄コメントに比べれば少なくとも100倍はおもしろい。
とはいえとはいえ、そんな本書の収録作の中でも、追悼・追想として書かれた2つの司馬遼太郎論は例外的に卓越しておもしろい。
特に、「風のように去った人――追悼・司馬遼太郎」の方。
著者は司馬作品の中でもモンゴルを舞台にした『草原の記』をこそ傑作だとする。その読後の感銘は次のように表される。
「 この作品を読了した私の胸を打ったのは、司馬さんはとうとうたどりついてしまったのではないか、という感慨であった。見るべきものはすべて見てしまったというか、偉大な歴史文学者がついに歴史のない世界、あるいは反歴史の世界観につきぬけていったという思いであった。 」(p142)
「反歴史の文学」・「反歴史主義の文学」。著者は司馬文学をそう表現する。
この『草原の記』も含めて司馬作品をほとんど読んでない自分が言うのもなんだけど、司馬作品を読んでまず感じる印象的な乾いた筆致と、それとは対照的な愛読者の暑苦しい反応。この距離感に対する違和感に納得できる説明(というか、読んだ第一印象を正当化する読解)を与えてくれたのが、司馬遼太郎と親交もあったこの山崎正和による司馬遼太郎論だった(のを思い出した)。
「歴史の真実と政治の正義」のような区別と似ているけれど、「作品自体の評価とその作品の自分にとっての意味」は、しっかりと区別しなければいけない。
なんでもかんでも、やたらと自分や会社や社会にとっての教訓を引き出す類いの受容は、大抵の場合、おそらく、その作品の本来の意味や内容を理解していないのではないかと思われる。
小説や映画や演劇などの感想によく見られる、1つの台詞をあげて「これが印象に残った」という類いの感想はその典型だ。
別にそういう楽しみ方を全否定するわけではないけど、そういう“我田引水”の私的な受容だけでは、全てが「♪育ってきた環境が違うから 好き嫌いはイナメナイ」(『セロリ』唄:SMAP、作詞・作曲:山崎まさよし)で済まされてしまって、タコツボ的な狭苦しいコミュニケーションのない状況を生むだけなのだ。
これでは緊張感も進歩もない。
話がずれ始めているけど、とにかく、この司馬論を読んで、暑苦しい愛読者の反応ゆえ(だけでもないけど)に読むことを避けるようになった司馬遼太郎を、改めて読んでもいいなぁと思わされた(のも思い出した)のだ。
けど、結局、読んでない。(弱められたとはいえ、英雄史観に変わりはないわけで。)
でも、『草原の記』くらいは、読まなければ、とは思う。