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大伴茫人編 『徒然草・方丈記 〈日本古典は面白い〉』 (ちくま文庫、2007年)
「日本三大随筆」のうちの2つである兼好法師『徒然草』(7~8割の抜粋)と鴨長明『方丈記』(全文)を、各段ごと、現代語訳・原文・語釈の順に収めた本。( 同時に『枕草子』編も出版されている。)
構成がすらすら読み進められる作りになっていて、訳・注釈も分かりやすいから、普通の本みたいに楽に読み通せる。
古典は学校教育と受験勉強で部分的に“死んだ”摂取をしただけだから、いつか改めていろんな作品の全体を読み返してみようとずっと思っていた。
それで今回この2作を読んだわけだけど、その感想は、(あまりに受験用の受容だった自分の恥を晒すことにもなるけど、)「 それなりにお堅い文学作品だと思い込んでたけど、改めて冷静に考えれば、“随筆”なんだからそりゃこんなものか。 」というもの。
言ってしまえば、“随筆”だから、内容的には普通の日記=ブログ的な雑感にすぎない。学校では取り上げられないような、男女間の話だとかただのひがみみたいなものとかもあったりするし。
確かに、中には(特に『徒然草』の方で)、おもしろい見方やロジックを展開しているものもあるけど、大抵は今の人が考えることとそんなには変わらない。( ちなみに、『方丈記』の方は、一人の老人が自分の現在の生き方を言い訳がましく正当化しようとしているものに見えて内容的なおもしろさは小さい。)
なら、果たして、“随筆文学(?)”として後世に受け継がれ続けるか否かの基準は一体何なのだろうか?
現代でも通じる教訓? ――『徒然草』の方は多少はあると思う。でも、『方丈記』の方はあまりないし、『徒然草』にあるとはいっても、世間で教訓として『徒然草』が引き合いに出される場面というのは、他の本と比べればかなり少ない。それに、全部で244段ある(『徒然草』の)うちで、冒頭以外に覚えている内容がどれだけあるだろうか?
当時の生活・思想を知ること?――それは文学的な意義ではなくて歴史学的な意義にしかならない。
名文?――確かに名文ぞろい。声に出して読みたくなる。暗誦したくなる。これは確かに『徒然草』、『方丈記』の存在意義になり得る。
ということになると、山形浩生による「日本文化のローカル性」に関する厳しい指摘に直面することになる。
山形浩生は、デカルトやらアダム・スミスやらファラデーやら孔子やらを引き合いに出しつつ、昔の日本人による作品についてこう述べる。
「 日本の当時の気分を描いたようなものはあっても、いまに至るものの考え方を決定的に変えたと思えるものがない 」(上記リンク先の文中)
げに。
古典を読みたいと思うときは大抵、名文に癒されたいというような気分のときだし、古典が流行るとしても「声に出して読む」だとか「えんぴつでなぞる」だとかだし、内容の方が注目を集めること・先行することは稀である。
これは、日本の古典の1つの特徴として受け入れなくてはいけないと思う。
でも、「 感性として日本チックねー 」(同)というものに触れることの意義というのもあると思うのだ。
※ こっから先、古典作品を改めて読み返したのはまだ2作だけだから、判断が付かなくてどっちつかずのところはあるけど、とりあえず今現在の考えを書いておこうと思う。
一つには、古典と呼ばれるものこそが(なぜか)日本語を代表する名文であること。名文にたくさん触れることで、使う日本語がきれいになるかもしれない。( 果たして古語の名文に触れることで現代語がきれいになるか?という疑問はある。)いや、別に言葉がきれいにならなくても、名文を味わうという楽しみは、実用性とは違った、文章を読む楽しみの一つとして認められなければならない。( 名文を暗誦させて身体化させる学校教育万歳。)
もう一つには、凡庸とは違っていながらも、典型的に日本的だと感じさせる、“ものの見方・感じ方”を知ること・獲得することができる。 ( この観点からすると、古典作品で有意義なのは作品全体ではなく作品の中の代表的な一部ということになる。作品の一部を暗誦させる学校教育万歳。)
この2つのことというのは、古典作品が日本人・日本文化の美意識の雛型であることを意味しているわけで、これを短い文章の中に凝縮させているというのはなかなか凄いことだ。
こう考えるなら、古典作品にも“日本(文化)代表”ということで、「やっぱり存在意義はある」と思うのだ。
ただ、もちろん、“日本代表”の古典作品としての存在意義を認められるためには、“名文であって見方・感じ方が非凡庸かつ日本的な作品”をしっかり選別しなければならないけど。( この点、『方丈記』は序文以外きつい。『徒然草』も、後者の点で果たしてどうだろう。)
むしろ、「しょぼい」のは、作品ではなく、内容に大して注意を払わないで、文を音として味わうことばかりに気を取られている日本人の文化摂取態度の方だという気がする。( これこそまさに内容が「しょぼい」証拠だと取れなくもないのはきつい。)
古典作品を読みながら、上でも触れた「日本語における名文の名文たる所以の探求」であるとか、「日本人的・日本文化的美意識の特徴の抽出」であるとかを、考えたことがあるだろうか? または、学校で教わったことがあるだろうか? ( そりゃ、日本文学者とかはこういう作業をもちろんやっていることだろうけど。)
こういう普遍化作業を行わないと、「 これを好きな人はいるだろうけど、基本的には古いだけの歴史的価値しかない作品 」という位置付けになってしまう。
この本の編者が日本と欧米と(例えば『徒然草』と『エセー』)を比べて行っている、時間的な早さ/遅さを価値判断・優劣の基準にした評価なんて、内容や質的なことにほとんど注意を払っておらず、まさにこのダメな位置付けを押し進めるかのようなものだ。
とはいえ、学校教育でも世間でもほとんど内容に注意を払われない日本の古典作品は、やっぱり「しょぼい」のかなと思わないこともない。
『ハムレット』が時代を超えて名作だとされるのは「 To be, or not to be: that is the question. 」があるからではない。
果たして、「 つれづれなるままに、日暮らし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。 」がなくても『徒然草』は名作なのか?
果たして、「 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。 」がなくても『方丈記』は名作なのか?
とりあえず、もっと他の古典作品も読み返してみて判断材料を増やさなければ。