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 NODA・MAP番外公演 『THE BEE 《日本バージョン》』 脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン演出:野田秀樹出演:野田秀樹、秋山菜津子、近藤良平、浅野和之原作:筒井康隆「毟りあい」2007年6月22日~7月9日@シアタートラム
 
 
 待望の“初NODA・MAP”と相成った舞台。( とか言いつつ、すでに観てから3週間以上経つけど・・・)

 確かにおもしろかったし、いろいろ唸らされた。

 だけど、NODA・MAPの他の作品はもっとおもしろい(かった)だろうな、とも思った。

 つまり、かなり良かったところ、あまり良くなかったところがそれぞれある。

 気付いたことを1つずつ振り返っていこうと思う。
 
 
 まず何より驚嘆したのが、その演出。

 1枚の巨大な紙とたった4人の出演者だけで、想像を絶するほど多種多彩なことを表現してみ(魅)せるのだ(野田)。( 実に安易な語呂合わせ。)

 こう例えると逆に安っぽく聞こえるかもしれないけど、「欽ちゃんの仮装大賞」の(温情なしでの)20点満点級の仕掛けやアイディアが、70分間、最初から最後まで続くようなイメージだ。

 もちろん、セットの使い方だけではなく、役者の演じ方、音響の使い方なども、多彩で独創的なアイディアに満ち溢れている。( ここ、付け足しみたいに書いてるけど、電話のベル音と蜂の羽音と爆撃機の爆音を似せたりと、本当に細かいところまで独創的なアイディアに満ちている。)

 この“表現方法”の豊かさは、それだけでも観る価値のある刺激的なものである。〔注1〕(※この〔注〕はかなり長いから文末に置いた。ちなみに、自分の雑感みたいな感じだから、この舞台の感想にだけ興味のある人は読む必要はない。以下この形の〔注〕は同様。)
 
 
 それから、次に印象に残ってるのが、(これも演出でもあるのだけど、)緩急のある“時間の流れ”。

 場面が次から次へと急速に展開していったり、かと思ったらスローモーションになったり、さらに、かと思ったら主人公が歌に合わせて舞い踊ったり等々する。そしてもちろん、ムラなく無駄なく進んでいく。〔注2〕

 そうして舞台に躍動感を作り出し、観る側を舞台上の時間の流れに引き込んでいく。また、そうすることで、重要なところとそうでもないところの陰影がよりはっきりする。いわば、“生きた”表現によって“立体的な”舞台、時空間になっているのだ。
 
 
 ここまで2つのことを書いてきた。

 3週間経って表せる印象なんて精々(せいぜい)こんなものだろうというのはあるにしても、なんとも芸のない感想だこと。

 “独創的な仕掛け・アイディア”と、“緩急のある生きた時間の流れ”。

 だけど、この2つが合わさったものを想像するなら、そのおもしろさが伝わるのではないかと思う。
 
 
 これに、“表現内容”たる話のおもしろさが加われば完璧になったんだろうけど、残念ながら、冒頭の「良くなかったところ」とは、“話”なのだ。

 この舞台の原作は、筒井康隆の「毟(むし)りあい」( 『傾いた世界―自選ドタバタ傑作集(2)』新潮文庫、2002年、所収 )である。そのメインのストーリーはほぼそのままで、細かいところはいじっている。

 しかしながら、原作とほぼ同じな話の描き方でも、独自の脚色を加えた話全体としての魅力でも、そのいずれにおいても、野田秀樹は筒井康隆に完敗している。

 筒井康隆がわずか40頁ほどの短編で描き得たリアリティと緊迫感のある中での不毛で絶望的な滑稽さ――これが今回の舞台が原作にした小説の魅力である――は、野田秀樹の舞台においては各所でその片鱗を見せるだけで、全体としては完全に失われてしまっていた。いや、全体としてだけではなく、例えば、「不毛さ」でも「絶望さ」でも「滑稽さ」でも、個々の要素ごとに見ても失われている。〔注3〕

 その失われ方は、(上演時間が70分と短いこともあるけど、)ポイントとなる各場面の描写の密度が薄まり、全体としても焦点がぼやけてしまうというものである。( 上で書いた演出による“ピント調節”にもかかわらず、こちらの印象の方が上回っている。後に観た《ロンドンバージョン》ではこの弱点は多少緩和されている。《ロンドンバージョン》についてはまた別に感想を書く予定。)

 とはいえ、今回の話(※戯曲は『新潮』2007年7月号に掲載されている)は、自分が今まで読んだ野田秀樹の戯曲(5~6作)と比べても、もっとも完成度の低いものである。

 冒頭で「 他の作品はもっとおもしろいだろうな、とも思った 」と書いたのはこのためである。
 
 
 今回の戯曲の意図について、野田秀樹は次のように語っている。

「日本の映画や演劇が、泣ける、感動、といった要素を前面に出している。あまりに文化状況が安っぽいと感じ、乾いた作品をあえて選んだ。」
 (中略)
 「作品が始まってから、ひたすら救いもなく悪循環の中で落ちていく。客は悪夢を見る気分になるはず。だが、もやもやしたままで終わるものを、日本でも見せたかった」 ( 読売新聞、2007年6月6日、夕刊、第6面 )

 後半については、上で筒井康隆との比較で書いたようにそれほど成功しているとは思えない。

 だけど、前半の「 泣ける、感動、といった要素を前面に出す文化状況を安っぽい 」と考える点については、全面的に賛同する。

 「 なぜ(自分が)それを安っぽいと考えるか?」についての理由はいろいろあるから、ここでは簡単に列挙するに止める。

 目的や効用があまりに個人的・実存的であること、訴えかける対象がそもそも人間の感情の中で反応しやすい部分であること、創る技術が大して必要でないこと、作り手の魂胆が分かりやす過ぎること、話の内容や展開が容易に想像できてしまうこと、文化芸術活動の発展に資するものがないこと、などである。

 単純な“エンターテイメントの楽しさ”と(その定義は難しいけど)“芸術の楽しさ”との違いについて、両者が排他的であるとは思わないけど、その峻別は(ある程度は)可能であるし、もっと意識されるべきであると思うのだ。( 文化状況を安っぽくさせないために。)

 そして、それに自覚的であるように見える野田秀樹の認識には共感を覚えるし、その作品には期待するところでもある。それだけに、その意図が今回の舞台ではあまり成功していないように見えるのは残念である。
 
 
 それから、演技という面に関しては、野田秀樹を含め、酷いということもないけど、特に特筆に価するということもなかった。難しい役をこなしている野田秀樹は褒められるべきかもしれないけれど、やっぱり「こなしている」以上のものではなく、特筆には価しない。〔注4〕
 
  
 さて、作品全体の感想とは別に、1つ書かずにはいられないのが、この舞台の公演名にもなっている“蜂(bee)”の意味するところについて。

 果たして蜂は何を意味していたのか?

 これはなかなか難しい。

 もちろん、一義的には野田秀樹本人がパンフレットなどでも語っている次のような意味なのだろう。(※ただし、筒井康隆との対談のところで出てくるパンフでの説明は分かりにくい。)

「恐怖のシンボルがハチ。〔立てこもり犯の〕イドはハチを怖がり、〔人質になっている〕オゴロの妻らは逃げ出すチャンスが生じる。しかし、彼女らは動けない。圧制者が出てくると、楽な道を選んでしまう人間の持つ癖を描いた」 ( 読売新聞、同上 )

 ここでは、オゴロの妻の行動・心理という観点から語られている。

 だけど、これだけでは、「(主人公である)イドにとっての蜂の意味とは何か?」、また、ほとんど同じことだけど、「なぜ“蜂”なのか?」が見えてこない。

 したがって、野田秀樹の言葉をヒントに、さらに考えを進めなくてはならない。

 そこで、「イドは蜂を怖がる」という(舞台上、所与である)事実の解明を出発点にして考えていこうと思う。
 
 
 圧制者から逃げ出すには民衆が立ち上がる必要がある。これを「民衆蜂起」という。

 この、“蜂が一斉に飛び立つところ”から転じて“人々が一斉に起ち上がること”を意味する「蜂起」という言葉を連想させるのが今回の舞台における“蜂”である。 (※英語の「bee」にも“人々の集まり”という意味がある)

 最後、立てこもり犯であり“圧制者”であるイドが蜂の大群に襲われることが、それを端的に象徴する表現である。

 ところで、「民衆蜂起」というと一般市民たちが独裁者を排除する「良いもの」というイメージがあるかもしれない。

 けれど、今回の舞台におけるイドという人物の変遷を思い起こすと、そう単純に理解して済ますわけにはいかない。

 すなわち、人質を取って立てこもる“圧制者”になったイド自身、元はただの“善良な一市民”だったのだ。それが、別の“圧制者”(オゴロ)によって自分の妻と子供を人質にされたことで、圧制者に対して一人で起ち上がる(蜂起する)ことになり、そのために“圧制者”に成り下がったのだ。

 ここには実に複雑な関係がある。

 圧制者を倒すべく起ち上がった(蜂起した)善良な一市民が圧制者に成り下がる、という。蜂の羽音が爆撃機の爆音にも聞こえるのはその象徴の一つと考えられる。 (※英米における、多くの国民が支持した「対テロ」という名の様々な施策を想起されよ。日本では、近年の、犯罪者に対する市民たちの厳しく冷酷な態度がそれに近く、理解しやすい。野田秀樹の前作「ロープ」も参照。※戯曲「ロープ」の感想

 この、善良な市民さえもが(自覚的であれ非自覚的であれ)巻き込まれる、止めどなく続く暴力の連鎖は、絶望的であり、(自分がいつ巻き込まれるか知れない)恐怖を感じさせる。しかも、この舞台で特に強調されていたように、その暴力の連鎖の中に入っている状態というのは、容易に“日常”に成り果てる。

 “怖い圧制者”が怖がる“善良な市民たちによる蜂起”(=蜂)がまた“怖い圧制者”になる、終わりなき暴力の連鎖の恐怖。そして、それが日常になる恐怖。

 改めてこの構図をこの舞台に当てはめるとこうなる。

 第一の圧制者である立てこもり犯・オゴロに対して“蜂起”した(“蜂になった”)イドが、オゴロの妻らを人質に立て篭もることで第ニの圧制者になる。一方、圧制者の人質であるオゴロの妻は、一匹の蜂が来たその期に、いわば、蜂=蜂起に加わって圧制者・イドを倒すことができたにもかかわらず、非抑圧的な(慣れてしまえば何もしなくていい楽な)状況に浸かってしまっていてそこから抜け出せない。しかし、話の最後には、圧制者・イドが怖がる蜂が、大群でイドに襲い掛かって(蜂起して)終わる。その先は描かれないが、永久に圧制者とそれへの蜂起の循環が続いていくことが想像される。 (※これはあくまで象徴としての蜂に注目してまとめたものであって、これが話の全てではない。)
 
 
 とはいえ、劇中の蜂の役割はかなりはっきりしないものであり、この解釈も( けっこう整合的で自信はあるけど、)解釈の1つとせざるを得ない。
(※他には、マンデヴィルの『蜂の寓話』やら、最後の“蜂の巣”が原爆投下後の“きのこ雲”にも見えたからイド‐オゴロ間(あるいは米ソ間)の争いの最終地点としての“核戦争の象徴としての蜂”やら、キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』で米ソ両国にとっての“恐怖の象徴”である“「皆殺しマシーン(doomsday machine)」的な位置付けとしての蜂”やらを考えてみたけど、どれも厳しい。)

 この曖昧さは、劇中でのほのめかしや劇全体を思い出しても、他の方々のブログでの感想を読んでも、観る側の理解力・想像力の問題というより、制作側の表現力の問題だと考えてしかるべきだと思う。

 やはり、“蜂”は分かりにくすぎて、その意味を見出すには事後的に相当色々考えなければならないし、野田秀樹の説明を文字通り理解したものに関してでさえ何かしらの効果を上げているようには感じられない。
 
 
 したがって、今回の作品(の“話”(戯曲)の部分)は、メインのストーリーでも、象徴的な“蜂”の描写でも、あまり成功していないということである。
 
 
 
 〔注〕を含めて、ずいぶん長々と色々書いた。

 作品の出来如何にかかわらず、こういう思考や想像力を誘う、あるいは、思考や想像力に耐え得る芝居というのは、とてもおもしろい。

 年末年始に次の公演(再演)があるから、(妻夫木&広末という微妙な俳優陣ではあるけど)また観に行こう。

 ちなみに、本文中でちょっと触れたけど、今回の舞台のイギリスで上演されたオリジナル版である《ロンドンバージョン》(字幕付き)も観た。

 演出がシンプルになった分、話がシャープになっていた。まあ、一長一短。感想はまた別に(おそらく簡単に)書く予定。
 
 
 
〔注1〕: 世に溢れる自己満足を得たいがためだけの実存的な“自称・表現者”たちには、表現の価値・効用について謙虚に学んで考えてほしいものだ。(※もちろん演劇に限らない。特に歌やってる人。)確かに、「自分を表現すること」というのは生きがいを感じさせるほど、人間にとって本質的な営みである。しかし、ただ自分の満足だけを考えるのならば、それは素人の趣味と何ら違いはない。表現することを職業とする、もしくは、表現することで金を取る、“プロ”である(あらんとする)ならば、自分の満足以外にも、表現の受容側にとっても意味のあるものをしなければならない。というと、「人は皆それぞれ違うから意味のない表現なんてない!」という素朴ポストモダン的な反論が聞こえてきそうだ。これに対してはこう反問したい。「では、他の人にはないあなたの表現の意味・独自性とは何ですか?」と。「言葉では答えられないけどある!」というコミュニケーションをしてると見せかけて、その実、コミュニケーションを拒んだ返答をもらいそうだけど、そんな他の人との差異にさえ自分で気付けないような人(言葉でどこまで表せるかは別にして)に、“プロ”たる能力も“おもしろさ”を分かるセンスもないだろう。(ちなみに、最初の問いに何かしら答えた場合には、さらに、「その他者との差異・独自性は、取り立てて傾聴に値するほど意味のあるものなのですか?」と聞く。)この“自己の絶対化”、“自己に対する無反省”は表現の世界にいる人には特に多い傾向である。彼らは他の世界のことに思いを馳せる必要がある。例えば、民間企業で商品開発をしている人たちや大学で研究をしている学者たちは、すでにある商品や先行研究については徹底的に調べ上げ、その上で、既存のものとは違う新しい独自のものを生み出そうとしている。というか、彼らにとってはそういうものでないと意味がないのだ。これ以外にも、広い括りで言えば、営業の人たちは自社の商品を売るのに、自社のものと他社のものの内容とその違いを知らずにはいられないだろう。果たして、この一般社会において常識的な手続きを行っている“表現者”がどれだけいるだろうか?(もちろん、天才には必要ないけど。)

〔注2〕:「無駄がない」ということは、当たり前のようでけっこうできていなかったりする、作者のセンスが現れるところである。自分は以前こんな経験をした。ある芝居を観に行ったとき、開演前に、他の観客がその連れの人に、「 今回は削れるところがなくて上演時間が長くなったんだって。」と話しているのをふと耳にした。それでいざ始まってみると、「 あれ、ここいらないじゃん!?あっ、ここも!?ここも!?ここも!?ここも!?・・・」 そして、何も残らなかった。そんなマンガのような話が本当にあったのだ。決して観劇経験が多くはない自分でさえこんな経験があったのだ。もちろん、この話の場合、事前に他の観客の話を耳にしなかったら、いちいち「無駄か否か?」を判定することもなく、全体に対して「つまらない」という感想を持って終わっていたところだろうけど。

〔注3〕:演劇と小説とでそもそも表現形式が違うから比べること自体がおかしいという意見もあるかもしれない。だけど、この両者で違っているのはあくまで「表現形式」(本文中の言葉では「表現方法」)だけであって、「表現内容」には違いがない。「演劇だけ異次元の世界を描きます」ってことはどうあがいたってあり得ないわけだ。この表現内容の共通性という点では、演劇も小説も映画もテレビドラマも歌謡曲も学問もお笑いも井戸端会議も飲み会での愚痴も、全て同じなのである。そう、統一場理論みたいにね。(cf.山形浩生『新教養主義宣言』のプロローグ) だから、「映画は観るけど小説は読まない」とか「芝居ばかり観る」とかいう人の世界は、よっぽどの天才かよっぽど色々な経験をした人でない限り、“井の中”である可能性が高い。それに、表現方法に関しても、それが違うとは言っても、それは断絶するほどの違いではなく、あくまで強調するところの相対的な違い、程度問題にすぎない。

〔注4〕:「それでもこの舞台がおもしろい」ということの意味は、一部の人にとってはショッキングであるかもしれない。なぜなら、役者・演技がどうであれ、(最低限さえ満たしていれば、)作品自体のおもしろさには大きな影響はないということを意味しているからだ。つまり、話と演出だけで、作品の評価のかなりの部分は決定されてしまうのだ。これは、舞台上にいる人(役者)が、文脈と環境(つまりは話と演出)によって多くを理解されることによる。例えば、女優で考えれば、伊東美咲、長谷川京子、奥菜恵、相武紗季のような演技の下手な役者(作品によって例外はあり得る)が出ているドラマや映画であっても、その作品を楽しむことは十分に可能であるし、現に、特定の役者の演技の下手さによって作品全体の楽しみが奪われたという話はめったに聞くことがない。そして逆に、その人さえ出ていればどんな作品でも必ずおもしろくなるという俳優は果たしてどれだけいるだろうか? いや、もちろん、同じ作品でも違う人が演じれば違った作品になることくらいは認識している。だけど、「違う作品になること」と「作品がより良くなること」とでは話の次元が違う。違う人が演じることで「違った作品になってた」と言って満足してしまっている人というのは、“良い作品と悪い作品の区別”や“話や演出からした最適な配役”といったものを見分ける意識も能力もないのではないかと疑いたくなってくる。果たして、芸術の分野においてアラン・ソーカルは登場し得るのだろうか? 
 とか言いつつ、自分は、複数の女優(役者)を応援していたりする。実は、彼女たちが、自分の、演劇や映画などにおける演技軽視の考えを、全面的にではなくても少しでも変えてくれることを密かに期待していたりするのだ。( 上で名前を出したことからも分かるように、奥菜恵にはこの点では期待していない。涙 )

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